言語學者としての新井白石

今ではなくなられましたが、もと私の師匠でありました、伯林の大 學教授ガベレンツ先生は、其著スプラツハウィツセンシャフトの 中に、日本の語學に就き批評を下されまして、
日本人の獨りだちで爲した精神的作動の中では、此言語學 上に於ける程の名譽なる結果は、恐く他の學域上に見出し 難からう、
と書かれました。私には、今茲に所謂他の學域なる者が、果して 左様なみすぼらしき者であるか、たゞしはないかといふ事を論 辨する遑がありませぬ。さりながら此日本語學の價直を高く 見られました教授の御意見だけには、千里の異域にも亦かゝる 知己が居らぬでもないと、窃に喜んだのであります。

さりながら此名譽ある日本語學の研窮の歴史は、このほんもと の日本國では、だれが取調べて居りますか。もう一ツ云ひかへ て見れば、此語學のために力を盡し、此日本語のために涙をそゝ いだ、われくの祖先の事蹟は、この四千萬同胞の中、だれが知り て居りませうか。此上には、私は容易にたのもしい御返辭を申 上げかねるのである。

其一番よき例は、今日私の論題と致した新井白石であります。 歴史家もまだこゝまでは進みてまゐらぬ様子、殊に八衢に酔ひ、 一音一義説に眼のくらみ居る和學者などよりは、隨分遠くに抛 げられて居るのであります。従ひて今日では其學説も、さ う取扱はれてはならぬ取扱ひを受けて居るかに思はれます。
そこで私は自分の無學不才をも顧みず、茲に此大先生が言語學 に關して、申遺された一般の事實を、取調べて見ようと思ひます。
しかし其前に一言御断りを致しておきたきは、私が白石を観察 する大躰に就てゞあります。白石は我日本帝國が、誇ることの 出來る一人物で、早熟せる天才なりし事、嚴粛なる政事家たりし 事、殊に其財政家、外交家たりし事、次では歴史家たりし事、文章家 たりし事、詩人たりし事等よりしては、皆最も卓越せる地位を日 本歴史上、文學上に占め、殊に西洋學の鼻祖たりし事、言語學者た りし事、等の點に於て、一層其名譽を高める者であります。然し 私は今日單に言語學者たる白石に就てのみ御話致すのである。
次には此人の履歴でありますが、それも今は委敷陳べませぬ。
かれが土屋侯の足軽の子たりし事、其幼少の頃非常に發明なり し事、そして中年には失意的なりし事、やがて又堀田侯に仕へ、次 いで甲府公に仕へし事、忽ちにして天下の大事に參與せし事、將 軍の尊敬をうけ、將軍の寵遇を蒙りし事、最後に吉宗公入幕と共 に蟄居し、世と隔りて終りし事等、是等に就てはなか/\茲に立 ち入る遑がありませぬ。私はたゞ先生が、明暦三年二月十日辰 刻、即ち西暦千六百五十七年三月廿四日午前八時に、江戸向柳原に ありました内藤右近大夫の邸内に生れ、享保十年五月十九日即 ち西暦千七百二十五年六月甘九日に内藤宿の屋敷に死なれた といふ事だけを申して置きますつもり、乃ちその生れた年は、三 代將軍薨去後七年日で、有名なる林道春の死んだ年、所謂明暦の 大火事のありました年です。

西洋では英國で彼のオリバー、クロンウェルの死んだ一年前 の年で、佛蘭西のルイ十四世が執政の五年前、普魯士亞では主權確 定の四年前、支那では康煕帝昇位前六年目であります。そして 其死んだ年は魯士亞大帝ビーターと同年で、ルイ十四世に後る ゝ事十年程であります。支那で申せば乾隆帝昇位の十二年前 でありました。かゝるならべたては、世界の歴史を御存知の方 に、白石の居た世が、世界では如何なる世であつたかを、よくお知 らせ申さうかと考へます。殊に尤も好き例は獨逸の大學者、不 思議にも亦言語學者たりし、ライブニッツ(二八四六−一七一六) と恰ど同時代であつた事であります。

欧羅巴で言語學が建立されましたのは、   フンボルト W. Humbolt 1767-1835
  グリム   J. Grimm 1785-1863
  ボツプ   F. Bopp 1791-1867
以後の事で、今泰西で言語學の誇りて居ります學説は、多くは十 八世紀の半より以後のものであります。さうして見れば、これ らの人々より殆ど百年程前に、白石は居りましたので、しかも此 東洋の一小島に閉籠り居りました事故、其人の學説を今日論じ ようといふには、餘程注意をせねばならぬかと思ひます。

大部前置きが長引きましたが、これより本領に立ち入らうと思 ひます。

偖て白石が書きました書籍の中で、直接間接に言語學と關係あ りますものは、
  采覧異言 正徳三年三月   成 一七一三(西暦)
  西洋紀聞 正徳五年     成 一七一五
  古史通  享保元年     成 一七ニ八
  東雅   享保二年     成 一七一七
  東音譜  享保四年十二月  成 一七二〇
  同文通考 未詳(寶暦十年出版  一七六〇)
等でありますが、右の中采覧異言西洋紀聞とは、外來語研究上 の資料になるもので、古史通は古代の人名考地名考に關係尠か らぬものです。次いで東雅は日本語の歴史及語源に關する研 究の結果で、東音譜は綴字法、同文通考は假字沿革等に就ての、先 生の考案を書き集めた者であります。

私は先づ右の書籍中より、東雅、殊にその序論を取出て、お話し致 さうと存じます。

偖て東雅を讀み、東雅中の學説に就きて論辯致さうとせらるゝ 諸君が先づ第一に注意せられねばなりませぬのは、此書の出來 た頃の白石の境界であります。抑も此書の出來ましたのは、丁 度白石が六十一の時で、其年には白石が去年までも將軍家より 賜はりたる、特殊の待遇を奪はれ、小川町にありました屋敷きへ 召上げられまして、しかも代地もない中に、そして少しも早く引 拂へ、一本の草木、一片の石塊も、皆帳面に仕立て侯へなど責めら れまして、殊の外に取込み家財等片附ける暇もなく、深川に貸藏 と申します者のあつたを借りまして、屋敷の下より舟どもに取 載せてやり、かくて即時に其事を辨じ、自分は其貸藏の近所に、貸 坐敷の町家四五軒を作り添へまして、これに住まねばならぬと いふ様な、不幸な目に遭遇いたしたのです。此失意の頃に、ポツ /\かきしるし置きましたのが、此東雅の原本で、其頃は右の次 第ゆへ、見たい本も取出して見る事が出來なかつたと申します。 それ故此書の不充分な事に關しては、白石も東雅自序に又安積 澹泊に與ふる書などにも、いひて居ります。さてそれを半年程 後に、白石が小石川へ引越しましてから、和名抄の順になほした ので、現今われ/\の見る事の出來るものは、此後に訂正したも のであります。

此窮厄の際の著述著、此參考書に冨まぬ時に書きあげた白石の 學説が、却りて此上もなき結搆な書物なので、一層白石の眞相を 示して、われ/\に尊敬の念を増さしめるのであります。

今私が東雅序論の中で、白石のおもな意見を箇條だてしてお話 しますれば。
第壹 白石は言に種類のある事を認めます。白石は申します に、(東雅には刊本がありませぬ故、正しく丁數をかゝげかねます のは遺憾であります)

天下の言には、古言あり、今言あり、其古今の間において、又其 方言あり、方言の中に亦各雅言あり俗言あり、古言とは太古 より近古に至るまで、其世々の人のいひし所の語言なり、今 言とは近世の人いふ所の語言なり、只今五方の人の語言、各 同じからざる所あるのみにはあらず、古の時といへども、亦 各其世にありて、五方の語言同じからざりし、猶今のごとく、 古もまた中土東西南北の人のごとき、其人には雅なるあり 俗なるあり、大やうはよき人のいふ所は雅言あり、いやしき がいふ所は俗言にあらざるものすくなし、それが中古言の 猶遺れる、今の人のいふ所にはあらねど、其語の解すべきあ り解すべからざるあり、また今の人のいふ所の、もとこれ古 言に出でし、其解釋を得ざれば義明らかなるべからざるも 少からず、爾雅の書に釋詁釋言などいふあるは、古言今言其 異あるを解きて、人をして知らしむるを釋詁といひ、古今の 間四方の言の能く通ずる事なきを解きて、人をして知らし むるを釋言といふ、千載の下に生れて、千載の上に通じ、一方 の内にありて四方の外に達しなむ、難からざる事いふべか らず、我東方の古言のごときは、幸に今先達の人の訓釋、なほ 傳はれるものともなきにあらず。
此上にて白石が爾雅を襲へる事は事實であります。しかも爾 雅を咀嚼して、これを日本語研究に適用いたしました手並は當 時の他の學者に鑑みますれば、感服の外ありませぬ。

第二 白石は語源解釋法に一定見を有ちて居りました。白石 は語源を取調べる事につき、前に申しました通り、此千載の下に 生れて、千載の上に事を論ずるのは、最も困難な事には相違ない が、しかし幸に先達の人々の訓詁なとが傳はり居る故、此等の上 より追究すれば、多少本義を知ることは出來ると申しました。 そこで白石は先づ、
  舊事記 古事記 日本紀 姓氏録
  古語拾遺 風土記 萬葉集
等の上に材料を求め、猶これらの上より洩れた所を論じようと いふには、類を推し例に傚ひて、其義を求むべしと申し、猶それで も解すべからざるものは、強て其説をつくべからずと斷言いた しました。

東雅を御覧になります皆様は、義不詳と申す語が大層多く用ゐ られて居る事を、御認めになりませう。その通り白石は、自分で あやしいと思ふ所は、嚴格に區域をたてゝ、敢て他の語源論者の やうに、當推量を下しませぬ。そのわからないとした所が、一番 よくわかつて居た所であります、良心をもつた學者の仕事は、皆 此様なものであります。

かく注意に注意を致しても、それでもあやまる事があるのは、恕 すべき事で、假令ば白石の語源解釋の一々の塲合のやうなもの ゝ上には、私なども服しかねる事どもが時々あります。しかし それはそれ、大體の上では白石の見識は、誠に健全なものである と申さねばなりませぬ。これは白石の前後に出た、それ所か、こ の明治の大御世に居る、幾個の語源論者を見るにつけ、殊に感を 惹く事が深いのです。

第三 白石は言に通ず、先づ須く世を論ずべしといふ説を有ち て居りました。此上に於て、白石の申した事は實に空前であら うと存じます。白石は先づ、

舊事記古事記日本紀等の書に見へし太古の語言の如きも、 其書撰出の代の人のいふ所をもてしるされしと見へし事 もあれど、神名人名はた歌詞のごときは、古よりいひつぎし まゝなるものとぞ見ゆる、
と申して古書の言語中に既に新古の差別がありますのを認め、 かくて其後この日本語が、幾轉變を致しました事を論述致し まして、
古をさる事やゝ遠うして、海外の人のゆきかよふ事ありし よりこのかた、それらの語言相雑はれりと見えし事ありて、 韓地の諸國本朝に服屬せし後に及びては、彼土の人等此處 に來れるのみにもあらず、彼國に置れし官府を知りて、其政 を掌れる本朝の人にも多かりし程に、これかれの方言相雑 はらざるを得べからず
と申して、第一に三韓語が日本語に接しました事を申し、次に
六經の學の傳はれるより後、百済の博士等各其學をもて來 り仕ふまつれる、代々に絶えず、秦漢隷楷の書體を取用ひ、我 國の古文廢せしに至りては、古語の如きも或は其言廢れ、或 は其義隠れて、我東方の俗言大に變ぜし事の如にこそ見え けれ
と申して、第二に漢學が日本語に及ぼせる影響の概畧を陳べ、續い
それより後佛氏の書また傳はれる、梵語のごときも其教と 共に行はれ、其後また禪教の來れる、宋元の代々の方言をも て、我國の俗言となせしもの少からず
と申して、第三に梵語並に宋元の音が日本語中に侵入し來りし事 を認め、そして最後に、
近世に及びては、西南洋の蕃語も俗用行はれしありけり
とて、玻璃をビードロといひ、毛布をトロメントといふ、致塊花を ローザーといひ、石竹をアンジャペルといひ、燈架をカンテラと いひ、鎖紐をポタンといひ、身に近き衣をジバンといふ事などを 掲げて居ります。さてかやうに段々申してまゐりまして斷案 を下しますに
されば我國太古の初より今世に至るまで、五方雅俗の言、風 と共に移り、俗と共に易れるのみにあらず、海外諸國の方言 のごとき、また相混じぬと見えたり、凡は人の言における、そ のいふ所として其義あらずといふものなし、又其義を取れ る所のごときも、世の俗尚のある所に随ひて、其趣亦各同じ からず、今のことばの義を取れる、例を推して古のことばに 解しなむ、實に其義に合ぬべしとはおもはれず、上古おのづ から上古の俗あり、中古おのづから中古の俗あり、近古おの づから近古の俗あり、これよりして後世を遞にして、おの /\其世の俗ありて、すべて其尚ぶ所同じからず、されば古 今の言に相通じなむ、まづ其世を論ずべき事なりとはいふ 也、
と申します、實に見事な意見ではありませぬか。しかし白石の 眼光は、此大勢にばかりでなく、又極く緻密な方言の事にも及び ました。その言葉に
我師ののたまひしは、我年十二三の時に、貞徳のいひし事あ るなり、其幼き比ほひまでは、京の人の物いひ今のごとくに はあらず、今の人のいふ處は多くは尾張の國の方言相雑れ る也、これは信長、秀吉の二代うちつゞきて、天下の事しりた まひしによれるなり、又近きほどは三河國の方言の移り來 れるあり、といひしとのたまひしなり、この事によりて思ふ に、貞徳の幼き比ほひの京の人のことばといふも、又ふるき むかしの京の人のことばといふも、またふるきむかしの京 の人いひし處のみにもあらず、足利殿の代のほど、東國の方 言相まじはらぬ事をも得べからず、すべて古今の言その代 々の俗尚によりて、うつりかはれる事、また皆これらの事の 如くなるべし、
とあります、此に至りましては、われ/\はたゞ嘆服の外ありま せぬ。

しかし以上申し述べました白石の説、即ち言を論ずるまづ須く 世を論ずべしと申す説には、今日の學問から申せば、必ずしも一 致致しがたい。それハ外でもなく、世を論ずる先づ須く言を 論ぜよといふ事も、均しく眞理であるといふ事であります。な るほど歴史的時代の研究貧料に富みて居ます時には、白石のや うに論ずる事も出來ませうが、しかし古記録を得るに困難の塲 合、たゞしは全く無い塲合などには、われ/\は言語の上より其 世を論ずるより外手段がないのであります。その一番好き例 はアリヤン人種の古代開化が研究された事で、これは言語學が 殊に十九世紀の世間に、其結果を示したのであります。此事は 甚だ永くなりますから、別に述ぶる事と致し、私はたゞ此白石の 金玉の陳述に對し、猶其裡面には他の見方があるのを、忘れては ならぬ事だけ申上げておきます。

第四 白石の聲音論 白石は和漢洋の聲音を論じて、東方の言 ほど聲音の少ないのはなく、西方の言ほど聲音の多いのはなく、 そして中土が其中途に居ると申します。たとへて言へば、東方 の言は初春に啼く鶯の、初のうちはなほ澁りて啼きますものゝ、 春が半立ちますと、だん/\滑になつて、春の暮るゝ頃には、百千 宛囀の音のあるやうで、中土の音は喬木に遷れる鶯の音、西方の音 は流鶯の音の如きものだと申します。其故に西方諸國では、一 體音韻の學を尊んで、文字のやうなものはさほど氣に留めませ ぬ故、たつた三十餘字を結付けて、天下の音を盡します故、従つて 其聲音も多くなければなりませぬが、之れに反して中土の如き は、其尊ぶ處文字にあります故、音韻の學などは到底西方のもの に及びませぬ、特に我が東方の如きは、其尊ぶ處言詞の間にあり ます故、文字、音韻等の學問は、尊ぶ處ではないと申します。かく 申して白石は断案を下して申しますに、我が東方の音の少きは、 其聲音のなきにはあらず、則ちこれは天地發聲の音にして、天下 の音を合せて其中にあらず、と云ふものなしと申します。併し 私は不幸にも此の點では白石、まして宣長初め其他の人々とは、 一致いたしかねます、私は日本語は天下で一番よい言語だとは 確信いたしますが、夫は私の本國のことばであるからで、所謂英 國人は英語、佛國人は佛語を以て一番よいことばといたすのと 同じであります。併し學問上より超然的に、また比較的に論じ ますときには、それ/\見様がかはることで、此點では諸先輩の 説に反對することが多いのであります。たとへばこゝに云ふ 天地發聲の音とか、天下の音が皆其中にあるとか云ふことは何 を本として云はるゝことか、私にはとんと解りかねます、此點で は他日、日本音韻論を著しますつもり故、其時まで何も控へて置 きます。

さうは申しますものゝ、白石も

凡そ言詞の間、聲音の相成る所にあらずといふものなし、我 國古今の言に相通じなむ、音韻の學にあらずして、また他に もとむべしともおもはれず
と申します。従つて白石が轉音の上の見識も、誠に見事なのが ありまして、
我國古今の言、其聲音の轉ぜし殊に多かり、その變を盡さん には、悉く擧べからず、其大略のごときは、五方の音同じから ざるによりて轉ぜしと見へしあり、五音の文相離れるによ りて、轉ぜしとみえしあり
と申し、そして音を軽重により、清濁と清濁相半とにより、緩急に より唇舌牙齒喉とにより、或は二合三合等の上により、種々に轉 化するものと認めます。

序でに東音譜のことを附け加へて申しあげ置きますが、此上で は白石は發聲(今日云ふ子音のこと、)送聲(今日云ふ長母音、)餘聲(今 日云ふ半音(ハルプズチツメ))、收聲(nmng等)入聲(ptk)清濁(gzbd)軽重(p)など を充分明かに識別して思ります。

猶一つ序でに申し上げて置きますが、此の声音變化の上では、貝 原益軒と白石との意見が、互に衝突して居りますので、日本釋名 にあります益軒の、和語を説く猶謎を説くが如しとの説、及び語 源解釋の八要訣等は、東雅に於てきびしき攻撃を蒙りました。
此上には餘程おもしろいことも澤山ありますが、餘り岐路に入る 恐れがあります故、こゝには唯其旨だけを申して置きます。

第五 白石は言と詞との區別をいたしました。白石の申しま すに

言といひ詞といふ義をもよくわきまふべき事なり、音發爲 言言之爲文爲詞とも見へたり、先達の説に發語之詞也とい ひ、詞助也助詞也、などいひし皆これ詞なり
と申し、さて第一に太古の言の如きは、其音單出して則ち言とな りし多かりと云ひ、第二に或は之れを云はんとしてまづ其聲の 發して其語を起しぬるありと云ひ、第三に或は其言の餘音ある 之を詞とも、助詞とも云ひ、又其初めに彼言あるによりて此言の 出來しか如き、其詞を得て彼言の轉ぜしが如きも少からずと云 ひ、第四に或は彼と此との言を合せて、其言となれるには、彼此二 つの言の相合ふ處を助けし詞あるを、中の助詞とも又やすめ字 などとも云ひしなりとも申します。かやうにして白石の眼に は、語根、接頭語、接尾語、或は接中語などのあらましの観念もあつ た事がわかります。

第六 白石は漢學の跋扈を述べて、日本語の爲に其萎靡不振を 嘆息いたしました。白石は

古語拾遺に、書契已來、浮華競興、顧問故實、靡識根源といひし 誠に然なり
と申して、猶語をつき
我國の古言其義隠れ失せし事、漢字行はれて古文廢せしに よれる多しとこそ見たれ、
と申します。實にあつぱれなる見識と申すより外ありませぬ。 千何百年と云ふ間、眠り來て誰も餘りに注意いたさずに居りま した、漢字並に漢學に對し、白石は正しく我が日本語の廢滅を歸 しましたのであります。此の考は爾來東滿、眞淵、宣長、篤胤等に よりて、熱心に主張いたされましたが、併し其看破は既に白石に 於て之を見ると申してよからうと存じます。

白石は右の通り、漢文が我が日本の古語保存を妨げた事跡を論 じ、さて申しますに、

細かにこれを論じなむには、此語と彼字と主客の分なき事 あたはず、我國の言、太古の初よりいひ嗣しごときは即主な り、海外の言の、こときは即客なり、漢字盛に行はれしに至て は、其義をあはせてかれに隨はずといふものあらず、これよ りして後客つひに主となりて、主また客となるにいたれり、 古言の義猶今も遺れるものあるは、亦その幸にぞありける
とあります。此の白石の言葉を聞き、此上に深く覚悟する處の ない人は、一の國家を知らざる者でありませう。ある耶蘇教徒 或はコスモポリタン主義の人はいざ知らず、苟も一の國體より 云へば、かく其自國の言語が勢力を失ふと云ふことは、いかにも口 惜き次第であります。其口惜き次第をば、我々は千數百年來の 迷夢により、壓制に慣れて、遂に今日まで、此間幾多のマータイヤ があつたにもかゝはらず、自由の身とはなれぬのであります。 白石は此の悲をまづなした人であると思ふときは、我々は坐ろ に白石を思ひでて、なつかしく感ずるのであります。白石は漢 學者でありました、併し此點では所謂主客の別を知て居た漢學 者であつたと申してよからうと存じます。さりながら制度を 支那風にしようと致したのは、彼の一生の過ちであります。併 しそれが人の弱みであります、其弱みを弱みとして、そして其の 眞價を賞揚するのが、我々の務であらうと存じます。

其他東雅に於て申しますことは、白石の漢音考、韓語考、或は梵語 考、漢字、和字考等ありますが、ながくなる故こゝには畧します。 東雅の序論にありますことは大底右のやうなものであります が、次に東音譜にては白石は、東音の研究及び其書き現はし方を 論じて居ります。其一端は前條聲音論の處に申して置きまし たが、其書き現はし方は、琴譜に依つたと白石自身は申しますが、 私はどうも和蘭人の手から教はつたものではないかと思ます。 それは東音譜凡例の中に、

美昔遇和蘭人、獲観其國字、因請以其字寫東方音韻、圖第一行 喉音五字、止是一音一字、其他字皆一合三合、必取喉音之字、以 合其體、即是方密之所謂外國喉音特多者耳、因知五音皆統于 宮、亦以見此圖之妙
の一節があるによつてもわからうと存じます。それはまづど うあるにいたせ、白石はまさしく、此點では宣長の先縦者で、字音 のことは頗る研究をいたしたのであります。白石が支那の文 字の數多くあることを認めまして、其原因を論じましたのに、
中國之書本于象、以形兼聲、故字多而音少、外國之書由於音、以 聲兼形、故音多而字少、
とありますのは實に名言で此點ではかれが音標字(ホノグラフ) と意標字(イデォグラフ)との別を知つて居たことがわかります。 又其兩者の優劣に關しても、
 五方之音、本非文字之可該、音託於字、不如音托於音之近
と申した處から見れば、大概は其意見のあつた處が察せられま す。此點では白石は或は假名の會、或は羅馬字會論者の先蹤者 であつたといはれますかもしれませぬ。

語源論者、或は音韻學者としての白石は先づざつと以上に述べ ました故、是よりは文字學者としての白石のことにつき一言い たさうと思ひます。同文通考は編纂の年月を詳にいたしませ ぬが、新井白蛾が之を刊行いたしましたのは、寶暦十年のことで、 丁度白石の死後三十五六年目であります。此書物は啻に假名 のみでなく、漢字の製作にまで論究いたしたもので、假名研究の 上では、信友又は篤胤の先蹤者であつたのであります。其論じ 方は、初めに支那文字の沿革を説き、次に日本に神代文字のあつ たことを説き、假名といふものは右の二つより發達して來たと いふことを示し、そして最後に、日本で用ゐて居る漢字の用ゐ方 について評論をしたのであります。一々の塲合を擧げ、又其上 にある白石の見識や、或は其論理の誤謬等を批評いたしますこ とは、是亦時間を要しますこと故、私はこゝに述べませぬ。

最後に申し述べて置かうと存じますのは、古史通采覧異言西洋紀聞とについてゞあります。古史通では白石が、非凡の卓 見を以て古史を斷じ、高天原を上天に求めませんで、之を地上の 常陸の國多訶郡にいたし、神といふものを靈妙不思議なるもの といたさずに、一箇の人間であるといたすやうに、すべて白石は 神代記を、已れの待つ普通の道理に訴へて、説き去りましたので あります。私は此白石の説には容易に賛成はいたしませぬ、併 しながら其説き方にいたりましては、又は其時代の思想から離 れて一見識を立てました點にいたりましては、白石に同感を表 します。次に西洋紀聞采覧異言の二書は、我國の西洋學發達史 の上には、非常に重要なもので、此上からして第一我々は十七世 紀間に於ける日本の世界に對する観念を見ることが出來、第二 には其書中にある様々の西洋語が、間接に日本の文明史研究の 資料となることであります。たとへば其時分にわかつて居つ た世界の地理、云ひかへて見れば、欧羅巴、亞非利加、利未亞、亞細亞、 南北亜米利加等の各國の首府とか、産物とか或は宗教とか制度 とかの一般は、其上でよくわかります。或は言葉の點で申せば、 デンマルクの下で大砲のことを説きます處には、ムシカトン、ム シケツト、カノン、ペストル等の語が列擧してあるやうなもので あります。

以上は白石が言語學に關して、抱きました意見の一理に過ぎま せぬ。それはまことに不完全千萬ではありますが、併しこの不 完全千萬の研究すらが、今日まで何人の手によりても、又何處に てもなされなかつたことを御承知になりますときは、何卒充分 の御憐察を願ひ、且今一層深き研究の、他日諸君の手より出んこ とを希望いたす外ありませぬ。世上では白石の言語學に對し ていたしましたことを、よく存じて居るものがなく、或る語學者 でさへが、自石はそんな人とは思はなんだと申したことであり ます、恰も或る英人が、植物學者としてのみのゲーテを知つて居 つて、其ファウストのことを聞いて、大層驚いたといふ話によく似 て居ます、笑ふべしと申すよりは、寧ろ悲しむべき至りと申さね ばなりませぬ。

以上述べました處を御覧になりますと、いかに白石が卓越なる 思考力に富み、いかに其八方睨み的なる經驗を有ち、かた/\い かに緻密該博なる統計力を備へて居つたかに、驚かなければな りませぬ。しかも其事業は宣長の玉の緒や、春庭の八衢などの やうに、餅屋が餅屋の仕事をいたしたのとは違ひ、唯其片手間仕 事であつたこと、其老後の氣散じ業であつたことなどを思ひま すときは、我々は眞面目に其欠點に立入つて、嚴密の批評をいた すのを屑しといたしませぬ。もと誤り多きが至當であるべき のに、反つて其結果は大體の上では、専門家のものより卓越して 居るからであります。

併しながら、白石の言語學上の意見は幾多の點より破れなけれ ばならなかつたのです、破れるといふよりは、寧ろ補はれなければ ならなかつたのです。その點は白石以後の、國語學史に出で來 る大家に依つて研究せられました。とりつめて言へば、白石以 來の國語學史は、勿論間接には相違なきも、白石其人の學説の批 評であるともいはれます。

強ひて私に白石の短處であつた處を申せといふならば、
第一 白石の語原上の研究が、益軒の釋名と同じく、主として名 詞の上にばかり止り、動詞及びてにをはの上に及ばなかつたこ とであります。之はいかにも残りをしきことで、若し此點 を白石が今少し考へましたなら、一層完全な學説を得たことで ありませう。此點で眞淵とか成章とか、宣長とか春庭とかいふ ものが、後に其名をなしたのであります。併し惜いことには、此 の後の和學者には、白石だけの博き、深き、眼光はなかつたのです。

第二 白石は歴史的研究法には充分着眼いたしましたが、勿論 是だけでも彼の契沖の假字遣ひと同じやうにエポツクメーキ ングとか、バーンブレツヘンドとか云はるゝ價値は充分ありま すけれども、併し其言語の本體に立入つて、論究をいたさなかつ たのは、いかにも我々に物足らぬ感を起させます。いかにして 言語は存在するか、何故に語根、語尾の差が生じて來るか、何故に 轉音が出來るのか、清濁軽重はいかに起つて來るか、抑も音其者 は何であるか、其音に件ふ意義といふものは、いかに變じ行くも のであるか、或は文字はいかなる官能を有つて居るか、などいふ 組み入つた點までは、白石は論じませんでした。それ故白石の 説には、發明が少くはありませぬが、併し其發明は大體事物の結 果を振ひあげて出た論定で、其源因に立入つて論定した確説で はないのです。それ故事物の實相を喝彼する上では、あかぬ心 地のせられることが屡々あります。後に橘守郭とか、又は高橋 残夢などが、熱心に一音一義説を唱へましたのも、決して理由の ないことではありませぬ、彼等は此點で白石よりは一歩上に進 みました、少くとも一歩上に進まうと期したのであります。

第三 白石が、其先輩であつた契沖のやうに、假字遣ひの上の論 者であつたといふことを、我々が認めかねるのも、一の殘りをし きことであります。白石は契沖の著書を知つて居りましたか、 又は知りませんでしたか、之は一の疑問でありますが、なんにい たせ白石は、文字よりも、假名遣ひよりも、言語の方を一層學んだ ことゝ思はれます。其言語の上でも只名詞だけの研究をした ので動詞或はてにをはなどに論及いたしませぬのでした故、ま だ假名遣ひに論及する遑がなかつたのだと申せば、それは強ち に酷論いたすべきでもありませぬ。餅屋でない餅屋には、兎角 此類の欠點は免れがたいのであります。

かやうな批評は、まづなくてもよいことゝして、つまる處日本語 は白石に對して感謝いたさねばならぬのであります。なぜと いふに、日本語は白石に於て、一人の知己を見出した故でありま す。白石は日本語の爲めに考へ、日本語の爲めに其病弊を洞察 いたしました。若しもライブニッツが羅甸語や佛蘭西語を以 て、幾多の著述をいたしましたにも拘はらず、遂に獨逸語の恩人 であるといふことを、否定いたしかねますなら、同時に白石も亦 日本語の恩人であるといふことを、否定いたしかねるでありま せう。可愛想と思ふ一片の芳心を抱いてくれる人であれば、其人 は既に知己であるのであります、恩人であるのであります。             (明治二十八年二月史學會に於て)