ゆふだすき 川上眉山

(一)

いや、驚いたよ君、何ものほほんで歩いて居た
譯ぢゃなかッたが、不意に横ッ手から、
「あら、まァ、梅原さんぢゃァありませんの。」
と甲の高い、調子の走ッた、化生(けしゃう)の者の叫び聲
だ。何者と振返ッて見ると、銀鼠(ぎんねづ)の頭巾を深く
黒のコートに羽衣ショール、犇(ひし)と鎧(よろ)ッて居るの
だから、正味は解らなかッたが、しゃなりとし
た姿から最う、只者ではない。見たやうだが、
思出せないで居ると、向うは馴れ/\しく、
「まァ、お珍らしいぢゃァありませんか。」
と近く、ぱッちりとした涼しい眼でぢッと見る。
此方は少なからず狼狽(まごつ)いた形、變な調子で
「失禮だが誰方だッたか……。」
「あら、お忘れなすッたの。實が無いのねえ。
私は彼の下谷の若狹屋に居ました時分……。」
「むゝ、今ちゃんか。」
「おほゝゝゝ、昔の名を仰有ると恥かしうござ
んすわ。」
「や、然うだッたかい。様子が變ッて了ッたか
ら、すッかり見違へたよ。」
啻に様子ばかりぢゃない、何から何まで變ッて
了ッたのだから、見違へる方が至當(もッとも)だ。僕がそ
れや、彼の時には君にも苦い異見を喰ッたが、
お笑ひ草さ、例の小房ね、彼女と一つ家に抱妓(かゝへ)
で居た、其時分は小今と言ッた女だ。
古い談話(はなし)で、何しろ最う一昔前、今ぢゃ夢さへ
も見た事がない。跡形もなく忘れて居たのが不
意に這麼(こんな)出幕になッたので、何だか妙な心持に
なッたが、併し恁(か)う廻遇ッた處で、何うの恁
うのといふ仲ぢゃないのだから、其儘別れる氣
で、當座の挨拶をして居ると、
「矢張し氣が差したんですね。今日は朝ッか
ら、何だか嬉しい事が有るやうな心持がしてな
らなかッたんですが、此處で突如(だしぬけ)にお目に掛ら
れようとは思ひもしませんでしたわ。本當に何
年振でせう。でも思ひは届くものですねえ。」
と恁(か)うだ。妙な事を言ふとは思ッたが、寄らず
障らず、
「いや全く此處で遇はうとは思掛けなかッた
よ。不思議な處で珍らしい人に遇ッたもんだね。」
と言ッて、別に人目もなかッたから、
「今ぢゃ何處の奥様だね。」
と態と言ッた。すると譯もなく笑出して、
「おほゝゝゝ、這麼(こんな)で奥様に見えますかね。生
憎と未だ獨り者よ。」
「はて、何う間違ッたのだ。其様子で獨り者な
ぞとは、勿體なさ過ぎて本當にされないぢゃな
いか。」
「まァ、いゝやうな事を仰有ること。それは
ね、相手は降るほど有りは有りますけれども
ね……。」
「ふむ、餘りお高いんで……。」
「とでもして置きませうか。未だ御存じない中
は、何とでも言ッて置けますからね。おほゝゝ
ほ、まァ、それはそれとして、あの不意に、這麼(こんな)事
を言ふのも何ですけれど、實は貴方には、種々(いろ/\)
とお談話(はなし)もしお願ひもしたい事が前から有るの
ですが、何うでせう御迷惑でも一寸、宅へお
寄りなすッて下さる譯には参りますまいか。あ
の、つい此先なんですが。」
「え、家へ。」
と何だか様子が知れぬから、流石に少し躊躇し
た。それと見て取ッたか直ぐに、
「なに些少(ちッと)もお心遣ひの要るやうな家ぢゃあ
りませんの。外にお差合ひも何もありませ
ん。貴方、本當に、後生ですが……。」
「だが私に何の用だね。」
「まァ、那様(そんな)事を仰有らないで、お馴染甲斐に
一寸ねえ、あら、何を考へて居らッしゃるの。」
「なにそりゃ、幸ひ用もないんだから、寄るに
は寄ッても可いがね……。」
と少しは好奇心も先に立ッた。相手は舌を置か
せず、
「まァ、有難い事。本當に、這麼(こんな)嬉しい事はあり
ませんわ。何しろ路中(みちなか)でお談話(はなし)も出來ません。
それぢゃ御案内を致しませう。さァ入らしッて
下さいまし。」
といそ/\先に立つ。何だか譯が解らない。
少々魅(つま)まれの姿ぢゃあッたが、丁度身體は明い
て居たし、内々面白づくが手傳ッて、何も談話(はなし)
の種位の氣で、一處に出掛けたと思ひたまへ。
何でも五六町、只(と)有る新開へ入ッて、二度ばか
り曲ッたと思ふと、未だ眞新らしい門構への、
庭を小廣く、手の入ッた植込を越して、奥に氣
の利いた二階家が見える。其處だ。表の標札に
大川いま。
見た處で恁(か)ういふ向きの住居とは思はれぬ。そ
れも案外だ。さては被圍(かこはれ)だな。と早合點に見渡
した途端、
「此處でございますよ。本當に汚穢(むさくる)しい處で。」
「や、恐入ッた。大方,這麼(こんな)仕末だらうとは思ッ
たが、大分いゝ者を捉まへて居るね。」
「あら那様(そんな)のぢゃァないのですよ。これでも今
度、自分で買ッて入つたですよ。」
「ふむ、自分で、と言ふと?」
「おほゝゝ、まァ、お話申しますからお入りな
すッて。」
潜門(くゞり)を開けると、花崗(みかげ)の短冊石に、左右を敷松
葉、掃除が届いて、塵一つない。
ばら/\と出迎へに來た十三ばかりの小婢(こをんな)と、
三十一二の見苦しからぬ女中、
「お歸りなさいまし。」
續いて、
「お歸りなさいまし。」
此方は心易げに、輕く、
「はい只今、あの、お客様をお連申したよ。」
と振返ッて僕に、
「さァ、何うぞ此方へ。」
少々處か、いよ/\魅(つま)されの姿になッて來た。
玄關、中の間、座敷の模様、今く不相應な普請
の態(さま)に、猶更不思議立ッて兎もあれ導かれる
まゝに座に潜くと、やがて上の物を脱捨てゝ來
たお今は、座敷へ入るから既(はや)走込むやうにし
て、
「本當に能く入らしッて下すッた事。いゝえね
え、這麼(こんな)時が何うかしたら來る事があるだらう
かと當にしないやうにしてもつい當にして居た
のですが、恁(か)うして思掛けなく來て戴かれる
事にならうとは、全く思ッて居ませんでしたの。
貴方は御存じありますまいけれど、私最う、這
麼(こんな)嬉しい事はありませんわ。」
見ると裁下(たちおろ)しの黒縮緬の羽織に、深川鼠の縞
御召(しまおめし)の小袖、銀杏返(いてふがへ)しに薄化粧して、年は三つ四
つも若く、何處となく垢抜けのしたのに、昔の
影を残しては居るが、見馴れた其頃の俤とは、
さながら別の人のやうに變ッて居る。
何れにしても腑に落ちないので、
「併し私には何だか全(まる)で了解(のみこ)めないね。」
「おや何がえ。」
とお今は先づ徴笑みながら聞く。
「何がと言ッて、何から何まで解らないづくめ
だ。第一まァお今さんの今の身からして全(まる)で讀
めないね。」
「おほゝゝ、まァ何に見えませう。」ていぬし
「然うさね、萬更堅氣でもなしと言ッた處で此
の體だらう。そりゃ主のあるには決まッちゃァ
居るが……。」
「あら、先刻も獨り者だと言ッたぢゃありませ
んか。」
「むゝ、然う言はれると猶の事だ。何だか野
暮の事を聞くやうだが、全體今何をしてお出だ
ね。」
「遊んで居ますのさ。御覧の通りで。」
「はてね、そして、」
「それッきりなの。何も有りはしませんわ。」
「さァいよ/\解らないね。」かゐ
「何もむつかしい事は有りはしますまい。兎に
角,恁(か)うして暮して居るんですもの。これでも御
覧なさるよりは生帳面ですよ。そりゃァ泥水
上りにしちゃ可哀想な位で。おほゝゝゝ。」
「解らない、矢張り解らない。」
「おほゝゝ、大層氣になさるのねえ、居心がお
悪いやうなら申しますがね、正(しゃう)は最う後家さん
で……。」やうもごけ
「むゝ、少し當りが付き出したね。」
「今ぢゃ元の素人ですの。お差障りはないので
すから、其處だけは御安心なすッて下さい。お
ほゝゝゝ。」
「なに然ういふ譯なら、有ッた處で仔細は
ない。むゝ、それぢゃ疾うに足を洗ッて了ッた
のだね。併し折角然うなつたに、餘り早い別れ
やうぢゃないかね。今の若さに何といふ事だら
う。様子は知らないが、お氣の毒の事だね。」
「はい、まァ然う仰有られて見れば那様(そんな)もので
すけれど、なに然うまで思合ッた仲ぢゃな
し、言はゞお互ひの便利で同棲(いッしょ)になッた人なん
です。いゝ鹽梅に仕事が當ッて、めき/\儲け
たのを其儘殘して行ッてくれたのですから、
お蔭は、充分に受けて居ますがね、なに亡く
なる時にも、外にくれて遣る先もないから、残
らず貴様に譲ッて遣る。無理に俺ん處へ來た埋
合せに、これから浮氣の仕放題をしろ、何うせ
又、濡れ手で掴んだ泡沫錢(あぶくぜに)だ。遣へるだけ面白
く遣つて見ろ。と恁(か)う言ッて逝ッた位なんで
す。一昨年ですよ。臺湾熱でね、急に取られて
了ッたのです。貴方、私は私は臺湾までも流れて
行ッたんですよ。此方へ舞戻ッて來たのはつい
此頃の事です。」
「それぢゃ其迄の間には、随分面白い芝居も打
ッた事だらうね。」
「はァ、そりゃ種々(いろ/\)の風にも吹かれましたよ。
相應の苦勞もしましたわ。何しろ最う十年越し
ですからね。」
「むゝ、譯のありたけ仕盡してかね。」
「おほゝゝ、飛んだお綱ですね、なに、氣の利
いた事は一つだッて有りゃしませんよ。御覧な
さい。未だに恁(か)う遣ッて一人ぼッちで居る位で
すもの。」
「では最う跡釜(あとがま)を探して居るといふのかね。」
「いえ最う其方は澤山ですから……。」
「當分お休みかね。」
「さァ、昨日までは然うでしたがね……。」
「先は請合はれないのかい。や、油断がならな
い。」
「本當に御用心なさいよ。おほゝゝゝ。」
「はゝゝ、なに此方には那様(そんな)心配はないから
安心さ。」
と這麼(こんな)事にはなつたが、全體何で此處へ招かれ
たのか、其方は未だ一向に解らない。僕は只旗
色を見て居たのだ。
(二)
其中に酒が出る。肴は並ぶ。何か手を盡した事
で、一寸は歸れないやうな仕末になッて來た。
それにしても、何を言はれるのか、様子が更に
知れないので、それとなく切ッ掛けを待ッて居
ると、お今は其中に稍改まッた形で、
「まァ、何からお話申しませうね。」
と少し考へて居るやうに見えたが、
「貴方も御存じの通り、以前の商賣にも不向
な位でしたから、這麼(こんな)時に巧く譯なしに出て
來ないから困るんですよ。なにね、厚顔しい段
に掛けちゃァ、相應に場數も踏んで來たんです
から、随分,阿婆摺(あばず)れの氣ぢゃァ居るんですけれ
ど何うかすると地金が出て來るもんですから
ねえ。」
と何か怪しく言悪(いひにく)い様子で、不意に、
「まァ最一つ戴きませう。」
と進んで盃を受けて、其儘,衝(つ)と干した。
此方を見て、笑ひながら、
「何だか酷くむつかしいやうだね。」
「はァ、一寸出やうがないもんですからね。」
「むゝ、全體何の事だい。」
「待て居らッしゃいよ。せかれちゃ猶仕様が
ありませんわ。おほゝゝゝ、何だか生娘のや
うに、極りが悪いから可笑しいぢゃありません
か。」
と言ッて急に投出したやうに、
「馬鹿々々しい、這麼(こんな)事におこついて何うなり
ませう。恁(か)うして焼繼だらけの身體でもッて、
那様(そんな)お人柄な事を言はれた義理ぢゃありません
ね。面倒ですから最う、色を付けないで露出し
に言ッて了ひませう。」
「むゝ、何だ、口上が馬鹿に長いが、全體これ
から何うせうと言ふのだね。」
言ふと事もなげに、
「これから貴方を口説かうと言ふのですよ。」
「なに、口説く?」
「はァ、飛んだお談話(はなし)でせう。」
「然うさね、何う間違ッたか知らないが、此方
にゃとんと支度がないのだから、何とも挨拶の
仕様がないね。」
「ですから取付きやうがないて、這麼(こんな)にうぢ
ついて居るぢゃありませんか。」
「第一口説かれる覺えがないからね。」
「おほゝゝゝ、でも此方に覺えがあるんですも
の。仕様がありませんね。」
「はゝゝ、冗談ぢゃない。調戯(からか)ひやうが些少(ちと)
くど過ぎるね。」
「あれ、本當なんですよ、これでも。」
「最ういゝ加減にしないかい。馬鹿々々しくッ
て談話(はなし)にもならないぢゃないか、いくら火移り
が早いと言ッたからッて、昔は只の見知り越(ごし)、
今の先不意と遇ッて、未だ、久し振りの挨拶さへ
切れない中に、餘り手軽過ぎて、其方の御了
簡方(ごれうけんかた)が積られるやうな談話(はなし)だ。まさかに那様(そんな)安
ッぽいのでも無からうと思ふが、餘り盛付け
られると此方もつい言ひたくならうぢゃないか
ね。」、
と笑ひに紛らしながら、少し突込んで言ッて見
た。聞くと居住居(ゐずまひ)がら、何か冗談でないやうな
風で、
「然うでせう。そちらぢゃ御存じない事ですか
ら、然うお思ひなさるのも御無理はありません。
ですが貴方、此事は、昨日や今日に始まッたのぢ
ゃないのですよ。今になッて這麼(こんな)事を言ふと、
取ッて付けたやうにもお思ひなさるでせう。身
體はさん%\に持崩して了ッて、勝手な時に這
麼(こんな)事を言はれた義理ぢゃないのですけれど、可
哀相だと思ッて下さい。これでもねえ、彼(あ)の時
十六の、未だ何にも知らない時分から、恁(か)うして
思込んで未だ忘れずに居るのです、折がなか
ッたし、縁がなかッたので、打明ける間もなく
ッて居る中に、何うでせう、貴方、最う一昔に
なッて了ひましたわ。」
と何か知らず俯向いた。最う口先ではなくなッ
て來たので、流石に又驚いたが、言はれるほど
猶更に了解(のみこ)めない。
「むゝ、變な、思ひも付かない事になッて來た
ぜ。譯は解らないが兎も角承はらう。今も言ッ
た通り覺えのない事だから、何とも御返事は
出來かねるがね、一體まァ何うしたといふのだ
い。然うまで言ふからにはまさか冗談ではあ
るまいがね。」
「冗談處ですか……冗談なら貴方、もッと氣
の利いた言ひやうが有りますわね。本當に先刻
お目に掛つた時は、あゝ未だ縁が盡きなかッた
かと、心ぢゃそれこそ手を合はさないばッかり
でした。來て下さると仰有ッた時、これを機(しほ)に、
とてもと胸に思ッて居た事を、出來るなら何う
かして、と直ぐに思付きはしましたものの、お
目に掛ッた今日が今日、最う、恁(か)う言出されよ
うとも思ッて居ませんでしたが、餘り長い事胸
に疉(たゝま)ッて居たもんですから、つい堪へられない
で口に出して了ひました。貴方、恁(か)うなると愚(ぐ)
に返ッてねえ、何だかわく/\するばかりで、
思ふ事の十分一も全(まる)で言へませんの。笑ッて下
さい。これで二十六ですよ。おまけに相應に鹽
も踏んで來たのぢゃありませんか、何だか焦れ
ッたくて癇癪が起ッて來さうですわ。」
「だがね、其方ぢゃまァ然うでもあらうがね、
聞く身の此方ぢゃァ全(まる)で初耳だからね、いきな
り然う無暗に浴せ掛けられちゃァ、面喰ふばか
りで全(まる)で仕末が付かないさ。考へなくッても知
れて居る。全(まる)で此方の気も知らないで、だしぬ
けに那様(そんな)事を言出すのは、餘り酔興が強過ぎ
るぢゃないか。」
お今は其儘にぢッと見たが、
「あゝ、貴方は私がほんの浮氣で這麼(こんな)事を言ッ
て居ると思ッて居らッしゃるのですね。」
「よしんば、然うでないにした處がさ。」
「それなら最う少し身を入れて下さるだらう
に、いくら這麼(こんな)身だからと、言ッて、貴方も又餘
りですわ。」
「まァ何方にしろさ、てんで本當にはされない
ぢゃないかね。」
「いゝえ、そりゃ御無理とは言ひませんよ。何
うせそれは然うでせうけれど、些少(ちッと)は、些少(ちッと)だ
けでも此方の氣が知れさうなもんだのに矢張
り思ひやうが足りないのか知ら。」
「むゝ、仰有る事は大分殊勝だがね。」
「貴方、何うしたら可ござんせう。」
「然うさ。まァいゝ加減に笑ッて了ふのだね。」
「まァ、何故然うでせう。最う浮かれてお談話(はなし)
をしては居ない積りですが、まさか底に工みで
もあるやうにはお取りなさいますまい。」
「なに那様(そんな)事より、實は頭から全(まる)で解らない
のだよ。」
「ですから、最初から今初まッた事ぢゃないと
言ッたではありませんか、それでなくて這麼(こんな)事
が、なんぼ何でも遇ッたばかりで言はれるもん
ですか。何の、出來心なら貴方、這麼(こんな)餘計な氣
を揉まないでも、何處にでも好きな者が選取(よりど)り
のやうに轉がッて居ようではありませんか。爲
ようと思ッたら那様(そんな)事に不自由をする身ではあ
りません。」
「勿論然うさ。言ふがものはない。何も物好き
に、這麼(こんな)處へお鉢を廻して來るには當らないと
思ふ。何か以前からとかお言ひだッたが、これ
と取留めた談話(はなし)すらした事のない私に、何うの
恁(か)うのといふそれからして解らないぢゃないか
ね。」
「それですよ、今から言ふと可笑しいやうです
がね、最初お面識(ちかづき)になッた時から、貴方は最う
人の物、手を出す事も出來はしませんでしたし、
羨ましいとは思ッても、那様(そんな)方の氣は出もしま
せんでしたが、忘れもしません彼の房ちゃんの
亡くなッた晩私も見舞ひに行合はして居ました
が、彼の時貴方が枕元で、臨終(いまは)の房ちゃんに
仰有ッたお言葉を聞いてからの事なんです。あ
あ、思合ッたとは言ひながら、恁(か)うまで眞實の
方があるものかと、涙が飜れるやうに眞から身
に染みましたがあれから以來、自分で何うか
したのかと思ふやうに、貴方の事を思はない日は
なかッたのです。それは最う本當に自分でも
抑へきれないで居たのですが、場合が場合で、
それに未だ十六になッたばかりのずぶ子供で居
た時なんでせう、一人で氣ばかり揉んで居る中
に、貴方は最う遠くなッてお了ひなさる、私は
濱の方へ行ッて了ふやうな事になッて、それか
ら、先は自分で自由にならない身で、彼方へ縛
られ、此方へ縛られて、到頭今までお目に掛かれ
なかッたのですもの、覺えが無いと仰有るのも
御至當(ごもッとも)で、此方には又、無理にも強く出られな
い引け身があるのですから、本當に何うしたら
ば、此事が、貴方のお肚に入るやうに出來るだら
うかと、實は先刻からそればッかりに氣を盡
して居るのです。」
「むゝ、まァそれにした處がさ、大抵最う黴
が生へるまで、一途に那様(そんな)事を思ッて居る柄で
もなからうぢゃないか。知らないで言ふのも不
躾だが、それからこれまでには、那様(そんな)事よりは
もッと實のある面白い達入れが何の位あッたか
知れないと思ふがね。」
「はァ、それは最う何も隱すには當らないから
申しますが、随分浮氣も仕盡しましたから思
ッたよりは種々(いろ/\)な目にも遇ひました。けれども
其度に思出されるのは貴方の事ばかり、貴方
だッたら恁(か)うぢゃあるまい、あゝ、這麼(こんな)に焦燥
りながら何故,恁(か)う貴方に遠くばかりなッて行く
事だらうといつも思はない事はないのです。と
恁(か)ういふと何だか、勝手な事を言ッて居るやう
に聞えますが、あゝ何うしたら私の眞の心を
言ッて見る事が出來るでせうねえ。」
變ぢゃないか。これまで類のないのにも隨分出
遇ッたが未だ這麼(こんな)目に遇ッた事はない。冗談
には應答ッて居ながら、先刻から見て居ると、
何も飾ッて居ない確かな影が何處にも動いて居
る。此處に至ッて稍,退避(たじろ)がざるを得ないのだ。
それとはなしに、
「そこで結局、何うせうと言ふのだね。」
「まァ、何をお聞きなさるの。解ッて居るぢゃ
ありませんか。お察しなさいよ。」
と言ッて不意と見て、
「ですが然う言ッたら、嘸(さぞ)厚顔(あつか)ましいやうにお
思ひなさるでせうね。」
「はゝゝ、酷く又其方を遠慮するぢゃないかね。
なァに、今更那様(そんな)事を洗立てした處が仕様が
あるものか。」
「あら、本當に。」
「だが返事には少し狼狽(まごつ)くよ。」
「だからさ、察して下さいと言ふのですわね。」
「まァさ、それにしてもさ、些少(ちッと)は此方の了簡
も見据ゑるが可いぢゃないか。何しろ些少(ちッと)向
不見だぜ。第一那様(そんな)事を言出すには、相手の氣
心を最う少し知ッてからにするが可いぢゃない
か。私が今,甚麼(どんな)に變ッて居るか知りもしない
で、那様(そんな)安價で思切ッて卸して了ッて、飛んだ器
量を下げたら何うするのだ。」
「いゝえ、それは外の人になら、何で這麼(こんな)事を言
ふものですか。貴方にだからこそ何も最う考へ
ないで言ふのですわ。それは私のやうな這麼(こんな)者
ですけれど、誰にもこれまで、此方から手を下
げた事はありはしません。思込んだ弱身といふ
ものは這麼(こんな)者だらうかと、自分ながら口惜し
くもなる位ですもの。いゝえ、正味を言ひます
がね、餘り此方の氣を汲んで下さらないと、實の
處腹が立つやうな氣にもなるのですわ。いゝ
加減最う目は見えないんですからねえ。」
「なに此方だッて浮氣で行くなら文句はない
のだ。二つ返事で、お辭義は不躾、御意は好し
さ、何の事はありゃしないがね、最う那様(そんな)上ず
ッた方は、今ぢゃ全(まる)で氣がなくなッて居るから
ね、一寸融通がむづかしいのさね。なんなら異
見の一つも様子によッちゃァ言ひたい位に、疾
うから質實(ぢみ)になり切ッて居るのだからねえ。」
「それこそ猶更ですわ、私の願ふのも最う、
那様(そんな)空(から)ッ調子で行かれる事ぢゃないんですも
の。」
「ふむ、それも一つ聞いて置かう。」
「はァ、聞いて戴きませう。ですが貴方、私
がねえ、若しか願ひが叶ッたら、此先何うする
とまァ思ッて居らッしゃるの。」
「解るものかね、それが、解る位なら、這麼(こんな)餘計
な口を利いて居るものかね。」
「おほゝゝ、まァ、それから先へ言ふのでした
わね。」
「はゝゝ、何だか獨りで了解(のみこ)んで居るぜ。性が
知れないだけに氣味が悪いね。併し兎も角地道
に聞かう。で何うするといふのだね。」
「聞いて下さい、私はね、假令此思ひが此儘届
いたからと言ッて、全(まる)で其上の慾は何も有りは
しないのです。貴方も勿論最うお一人の身では
お有んなさるまいし、外にお樂みの方もないと
は思ッて居もしません。其中へまァ割込んで、
無理な願ひを押付けにするのですもの、それも
這麼(こんな)身でなかッたなら、何とか取りやうもある
でせうけれど、今更何が言はれませう。貴方、
此場になッて這麼(こんな)事を言ッたら何う又お思ひな
さるかは知りませんが、私はこれまでに、そ
れこそ數ばかりは掛けましたが、眞から思込
んで恁(か)うと言ッたのは、遂に一度ありはしない
のです。貴方の事を思出すのも只それなので、
いつでもねえ、たゞの一日でもいゝから、何う
かして貴方のやうな方に一言優しい事を言はれ
て見たいと、それなのです、今の願ひも只それ
なのです、同棲(いッしょ)にならうの、一人占めにせう
のと、那様(そんな)大それた事を何思ひますものか。様
子が何うの氣前が何うのと、那様(そんな)事も最う通
過ぎた昔で、只最う今迄一度も受けた事のない人の
眞實を、一度は身に受けて見たいばかりな
のです。あゝ何だか理に落ちて、お聞きなさる
のも厭におなりでせう。自分ながらも愚痴ッぽ
くなッて、言ふ事が皆これですもの。平素は
這麼(こんな)私でもないのですが、何うしたのでせう、
何を言ッて居るのか解らないやうな事がありま
すわ。」
ぢッと其儘に眼を着けて居た僕は、其時思はず
知らず、
「最う可い。何も能く解ッた。それほどまでに
思ッて居てくれたとは、聞くまで全く知らなか
ッたよ。併し此私が那様(そんな)に思込で居るほど
の者だか、何うだか、請合ふ事は少しむづかし
い談話(はなし)だ。」
「いゝえそれは最う、何と仰有ッたッて聞くの
ぢゃありません。それでなくッて誰が貴方、下
谷の時から今迄も思續けて居られるものです
か。」
「用心おし、間違ふぜ。」
「えゝ、那様(そんな)事なら何とでも仰有いまし。あゝ
併しまァこれだけ言ッたので安心しました。
百分一でも私の心が通じたと思へば、最う昨
日とは、心持が違ひますからね。さァ最う一ッ
きり息を抜きませう。貴方、お一つ、」
と小盃、銚子を取りながら、
「貴方も併しお變りなすッたのねえ。此頃彼の
土地へは、」
「最う一向さ。なに彼處ばかりぢゃない。然う
いふ方はとんと知らずに居る。」
「何ですねえ。御卑怯な、お隠しなさるだけ罪
が深いわ。」
「はゝゝ、それ處か。此頃は後生願ひだ。だ
から今の談話(はなし)だッて内々珠數を繰ッて聞いて居
た位だ。」
「おほゝゝゝ、那様(そんな)珠數なら、いつでも切ッて
見せますわ。」
「や、恐ろしい。まァ精々お手柔らかに願はう
よ。」
「呆れますね。那様(そんな)風ぢゃァ、全(まる)で本當の事は
仰有いますまいね。」
「何をさ。」
「お佯惚(とぼ)けなさるな。それだから先刻(さっき)も、人が一
生懸命になッて居る傍から、那麼(あんな)事ばかり言
ッて居らしッたのだわ、憎らしい。」
「はゝゝ、那様(そんな)に氣が付いて居るのなら、彼の
時何とか言ッて教へてくれるが可い。此方は何
も知らないから、まごつきながら間の抜けた返
事ばかりして居たのだ。」
「仰有いよ。本當に人の悪い。」
「はゝゝ、這麼(こんな)事ばかり言ッて居れば罪はない
が、何しろ今日は思ひも付かない事で、何だか
恁(か)う、昔の夢を見て居るやうな氣持がする。全く
ね、何處で誰に遇ふか解らないもんだね。」
「其上飛んでもない事を言はれたんですもの。
ですが偶には這麼(こんな)目にもお遇ひなさるのが可
いのですよ。平素の罪滅しにね。」
「はゝゝ、這麼(こんな)罪減しならいくらあッても可い
ね。」
「おほゝゝ、宜しければいくらでも持合はして
居ますから。」
「では腹一杯にまァ頂戴して見ようか。意地
の汚ない處で。」
「那様(そんな)事を仰有ると又持出しますよ。今度は最
う、はぐらかしだけぢゃ聞きゃァしませんか
ら、其積りで些少(ちッと)は御用心をしてお置きなさい
まし。」
「や、又續け打ちか。今度は最う討死だ。」
「巧い事を、何うして手に負へるもんですか。
間際へ行ッたら、又逃げられるは決ッて居ます
わ。」
「なに、いつまでも那様(そんな)逃げを張ッて居られる
ものか。第一,其方様(そちらさま)が承知が出來まいと思ふ
がね。」
「あれ私が最う、何う悶(もが)いたッて仕様があり
ますものか。殘ッて居るのは貴方の御挨拶だけ
ぢゃありませんか。」
「むゝ、それぢゃ若し、聞かなかッたとしたら何
うするね、奇麗に笑ッて了ッてくれるかね。」
「まァ、貴方は那様(そんな)に譯なしに見て居らッしゃ
るの。聞かれなかッたらそれまでで引下れるや
うな、那様(そんな)根の淺いのぢゃないのですよ。貴方、
口でこう言ひますけれど、恁(か)うまで十年越し思
續けて、何う思切る事が出來ませうか。勝手な
やうですが、察して下ださいましと、言ッたのは
それなんです。」
「むゝ、併しこればかりは無理押し付けに出來
る事ぢゃない。何うでも又た聞かれなかッた暁
には……。」
「えゝッ、そ、そんなら貴方は……。」
「なにさ、なにさ、此方は未だ、何とも挨拶を
したのぢゃないぢゃないか。其暁は何うする
と聞いて居るのだ。」
「まァ、那様(そんな)事を聞いて何うなさるんです。」
「可いから考へだけを聞かして貰ひたい。さァ
何うする其時は。」
「なに、然うすりゃ此儘で。」
と無理に徴笑むと見えて、沈んだ影を眼縁(まぶち)に隠
したが、
「死ぬまで片思ひで居るばかりですわね。」
「むゝ。」
と僕は稍行詰ッた形で、思はず目を下にし
た。途端に耳を打ッて、さながら思入ッた
聲音(こわね)に、
「あゝ貴方、本當に最う、何處まで人をお虐め
なさるの。」
時の拍子であッたか何か知らぬが、僕は此時、言
ふ事の出來ぬ心地を覺えた。敢て其,凄婉(せいゑん)の目眦(まなじり)
が、例の蘭燈の下に恐ろしいカを持つ那様(そんな)方の
肌合のものぢゃない。顔を見合せたが、最う冗
談口も利かれない氣になると、調子も妙に變ッ
て、
「可し、お前の心持は充分に腹に入ッた。さァ
それぢゃ、本氣になッて些少(ちッと)話合はう。」
「えッ、本當、」
と聲に迫ッて、躍立つ氣勢(けはひ)に、お今は眼を輝か
したが、何を言ふかと思ふと不意に、
「貴方、今日は最うお歸し申しませんよ。」

   *     *     *
      *     *

事情が通じまいと思ふから、有りの儘を君に話
したのだ。去年の春の事だがね、其處で些少(ちと)妙
だが、久し振で上京して來た君に改めて僕の
妻を紹介する。此室へ連れて來るが、君今言ッ
た女がそれだよ。
待ちたまへ。恐らく僕も娶る筈で居た、桐原家
の令嬢の事を君は必ず何とか言ふだらう。地位
と言ひ、才藝と言ひ、殊に品性の上に何の缺点も
ない彼の人を捨てゝ、何で物好きに這麼(こんな)古物を
拾ッたのか。兎に角にまァ見てくれたまへ。
指には絲道が着いて居るだらう。首に枕胼胝(まくらだこ)も
あるだらうがね、談話(はなし)で想像したやうな女だ
か何うだか、見ての上で聞かうぢゃないか。な
に馬鹿な、何處に酔興で嚊を呼ぶ奴がある
ものか。

岡島昭浩入力
底本『現代日本文学全集 第七編 柳浪・眉山・緑雨集』改造社 昭和4.3.1
ただし、底本ではほぼ総ルビ。
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