A04日本班エッセイ集
−調査の現場から−


 奈良田調査から
       小林 隆 (語彙班、東北大学大学院、2002.4.30)

 八重山竹富町の危機言語の百年
       加治工真市 (沖縄先島班、沖縄県立芸術大学、2002.4.12)

 上中町のこと
       大和シゲミ (アクセント班、2002.2.11)

 秋田県由利郡鳥海町でのフィールドワーク
         日高水穂 (文法班、秋田大学教育文化学部、2001.12.25)

 日本人の手をはなれた日本語 (台湾)
       簡 月真 (海外日本語班、大阪大学大学院、2001.12.15)

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 奈良田調査から

 私の所属する語彙班は、全国にわたる分布を把握するために通信法を選んだ。だから、隣地調査をしていないので「現地」というものがない。強いて言えば、調査票を発送した2000市町村すべてが現地にあたる。しかし、それを紹介しても現地情報ということにならないから、ここではかつて私が経験した調査、中でも奈良田での調査について記すことでこのコラムの責を果たすことにしたい。
 さて、方向を表す格助詞「サ」は東北方言の代名詞として有名であり、詳しい解説はいらないだろう。1992年から1994年にかけての私は、この形式の歴史的展開を探るために、全国の何ヶ所かで隣地調査を行っていた。記述調査には、一箇所に腰を据えてその地域の言語をトータルに記録するものと、特定の問題について複数の地点を掘り下げるものとがあるが、このときの調査は後者で、とにかく「サ」に関わることを集中的に聞いて歩いた。「サ」の源流は、今では敬称になってしまった「さま(様)」に格助詞の「に」や「へ」が加わった複合形式で、中央古典語で盛んに使用されたものである。この原型から東北方言の「サ」に至る変容(今流行の「文法化」 grammaticalization)の過程が、全国の方言にきれいに投影されている。そうした通時的仮説に基づいて、九州や関東、東北の各地を訪問した。山梨県南巨摩郡早川町奈良田もそのひとつである。
 全国には秘境と称される地域が数多くあるが、奈良田もそのような形容がぴったりの場所である。ただ、直前に訪れた秋山郷に比べ、集落一帯に平地がかなり開けていることや、そこに至る道路がずっと整備されていることもあって、秋山郷ほど秘境という印象は受けなかった。もっとも、最寄りのJR身延駅からはバスで早川(富士川の支流)を遡ること1時間40分もの道程である。かなりの山奥であることは容易に想像されるだろう。
 奈良田はかつて45戸もあったそうだが、私の調査当時ですでに20戸ばかりに減っていた。その後1998年に調査に入った篠崎晃一(本研究の分担者)の報告では住人は38人で、うち60歳以上が7割近くを占めるという。整備された道路と上で書いたが、これはダムや発電所の建設に伴ったもので、戦後のそうした開発が村の変貌を促したのである。変わりゆく奈良田の姿については、篠崎・荻野(1999)「消えゆく方言の島・奈良田の現在」『日本語学』18-13をご覧になるとよい。
 奈良田は「方言の島」と呼ばれるだけあって、学界では古くから注目されてきた。奈良田の調査といえばまず名前が挙がるのが『秘境・奈良田』(山梨ふるさと文庫)の著者深沢正志さんである。深沢さんは数多くの調査の案内役をつとめられ、自らも方言話者として応対されたが、1999年に亡くなった。その後、どなたが調査の協力者として適任か、1回しか奈良田を訪れたことのない私には残念ながらよくわからない。
 さて、奈良田の調査で、私は「サ」の意味の広がりに注目していた。東北方言の「サ」は、共通語の格助詞「に」の領域で大きく意味を発達させているが、奈良田の「サ」はまだ変化の初期段階に留まっていると予想したからである。最初にお会いした話者Mさん(1921年生まれ)にはこの観点から質問した。案の定、「サ」の意味は未発達で共通語の「へ」に近いものだった。しかし、どうしても腑に落ちない点が残った。「家サ行く」は言えるが「山サ行く」はだめ、「東京サ行く」はよいが「湯島サ行く」はあまり使わない、とMさんは言うのだ。それも何度か尋ねているうちに回答がゆれてくる不安定な状況だった。いずれも移動の目標を示す文脈だから、サが使えるなら全部使えてよいはずなのに、である。
 宿に帰ってから、町の施設『奈良田の里』の温泉に出かけた。趣のあるいい湯だったが、浴槽で足をすべらせ他の客の失笑と同情をかった。12月の雪がちらつく中を宿に戻り、炬燵にあたりながら調査の疑問点を考えた。ふと、これは意味の問題ではなく、形態の問題なのではないかとひらめいた。サに前接する名詞末尾の音によって、サの使用が決まってくるという可能性である。
 翌日は、『奈良田の里』の作業場へKさん(1917年生まれ)、Tさん(1920年生まれ)夫妻を尋ねた。もちろん前夜思いつきの仮説もぶつけてみた。結果は、「東京」「公民館」「家」など末尾が特殊拍や連母音の場合に限って「サ」が使用されることが明らかになり、仮説は当たった。意味にのみとらわれていたために見えなかった真理が、発想を変えることで急に目の前に立ち現れたという感じであった。思いがけず味わった調査の醍醐味に、胸がわくわくしたのを覚えている。
 通時的に見れば、「サ」の使用が音環境に支配される状況は過渡的なもので、いずれそのような制限から解放され、純粋に意味的な条件で使用されるに至るものと推定される。Kさん、Tさんが明確で、より若いMさんにゆれが見られたのは、すでにそのような変化が始まっていたのかもしれない。
 それにしても、共通語化の波が山奥の村々にも押し寄せる今日、「サ」自体がいつまで生き延びられるかわからない。引き続き奈良田で「サ」の文法化について観察していくことは、もはや望めないであろう。このように、方言の成立を解き明かす数々の手がかりが、全国で急速に消え去ろうとしている。そのすんでのところで奈良田を訪問できたのは私にとってはもちろん、当地の「サ」にとっても幸運だったのではないかという気がする。
 

小林 隆


 八重山竹富町の危機言語の百年

 沖縄本島と宮古島の間には、約300kmの黒潮の大河が流れており、古来人々の自由な往来の妨げとなっていた。宮古島と八重山の間にも約100kmの黒潮が流れており、これが宮古と八重山の人々の交流を阻害してきた。
 つまり、沖縄本島方言と両先島方言は、容易に渡ることのできない黒潮の大河によって分割され、さらに宮古諸方言と八重山諸方言が独自に発達し、形成されてきたと言うことができる。人と人との自由な交流を阻害するのが海であるから、宮古方言圏は、宮古本島を中心にして、そこから海を隔てて離れる距離によって方言差が大きくなるし、八重山方言圏においても、石垣島を中心にして、そこから海を隔てて離れる距離により方言差が大きくなると概括的に記述することができる。与那国方言の特性も石垣島より隔絶した孤島において、独自の変化を遂げたすえに八重山諸方言とかけ離れた姿を示すようになったのである。出発形は、多くの場合、八重山方言に認められる。波照間方言も同様である。
 かくて八重山郡竹富町を形成する島々には、たとえば竹富島においては竹富方言、黒島においては黒島方言、小浜島においては小浜方言、新城島(上地、下地)においては新城方言、西表島東部の古見村においては古見方言、西表島西部の祖納村、干立村においては祖納方言、舟浮村においては舟浮方言、網取村においては網取方言、鳩間島においては鳩間島方言、波照間島においては波照間方言が形成されたが、現在のところ、新城島の住民は石垣島その他へ移住して島は牧場となり、廃村となっている。網取村も1971年には廃村となっている。従って両方言は、かつての村の在所においては聞くことができない。
 しかし、1956(昭和31)年頃においては、上記の島々、村々においては、明治中期に設置された小学校が存続しており、方言も安定的に話されていた。
 1956年当時、この地域においては、「危機言語の問題」は認められなかった。むしろ、明治以降、沖縄県民に対する皇民化政策の一環としての言語教育(標準語励行運動)が重視された時代であって、方言撲滅運動が叫ばれた時代の国語教育の延長上で日々の教育が推進された時代でもあった。いったい何時頃から言語の転移が進行して八重山方言全体が危機に瀕するようになったのだろうか。特に人口の少ない島々、村々の方言においては、何が決定要因となったのだろうか。ここでは竹富町の方言について考えてみることにする。
 「八重山喜舎場家資料47」(『竹富町史だより』第19号)によると、沖縄県設置(明治12年、1879)後の八重山における近代的学校教育は、明治14年(1881)に設置された石垣南小学校に始まり、順次与那国簡易小学校(明治18年)、石垣南小学校白保分校(明治23)、同川平分校(明治23)、同西表分校(明治23)が設置され、校名を簡易小学校と称されたという。明治25年には大川尋常小学校の竹富分校、明治26年には黒島分校、明治27年には波照間分校、明治28年には宮良分校、そして明治29年には鳩間分校、新城分校、そして明治31年に崎山分校、伊原間分校、明治36年に名蔵分校と桴海分校が設置されたという(『創立百周年記念誌 波涛を越えて』竹富町立鳩間島小学校)。
 八重山竹富町の一般民衆においては、この学校教育の開始こそが非琉球語(いわゆる標準語)との接触の第一歩といえるであろう。明治20年代当時、八重山地方には人頭税制が施行されており、人々は自由に島々を往来することができないばかりか、農奴のように地方役人の監視の下に労働管理されていたという。生涯を通じて限られた島の生活空間だけで生活したから、島の言葉(方言)でもって人生観や価値観が形成されたのである。因みに当時の竹富町の一般民衆の人生観や言語情況を、明治41年に八重山島司中馬孝吉に進達された「沿革誌写 黒島小学校」(『竹富町史だより』第19号)より拾って示すことにする。
 明治14年、15年頃の黒島は、「・・・明治維新後四民平等ヲ唱ヘラレ、士農工商ノ別ナク何レモ修学セザルベカラザル時勢ニ遭遇セルモ平民ハ教育不可能ト堅ク自ラ之ヲ信ジ,只ダ作業ニ従事スレバ其目的達セリト思フモノノミニテ学問ニ志スモノ殆ンドナキ有様ナリシガ、明治十四,五ノ両年間,当黒島吏員首里大屋子喜舎場永祥氏奨励ノ下ニ、当地平民ノ子弟十余名ヲ村番所ニ集メ目差浦崎賢冨、筆者崎山永喬ヲシテ朱文公家訓ノ読方ヲ授ケシム。是レ実ニ古来当地平民ニ読書ヲ授ケシ発端ナリト云フベシ。・・・」という情況であった。これは明治政府による国民皆教育政策の下に推進された学校教育以前の情況である。当時の授業内容は、先ず「朱文公家訓ノ読方」から始まって、それが終わると「イロハ仮名を授ケ」たというが、生徒にとって、それは「僧侶ノ御教(「お経」筆者注)ト同様」であって、「士族平民男女大概無学ニテ成長」したものだという。この地域のこの時代においては、「方言に対する標準語の干渉」は、皆無と言ってよいだろう。
 明治26年5月には「明治聖代ノ恩沢残ル隈ナク,都鄙貴賎ノ区別ナク教化僻陬ニ普及シ」て大川尋常小学校黒島分校が設置され、「男児童三十四名ヲ集メ普通教育ノ初歩を授ケ」たが、これが「是レ当地人民ガ普通教育ヲ均シク受クルヲ得タル嚆矢ナリ」という。34名の児童が標準語に接する機会を得たことになる。標準語を話す教師から組織的,計画的な教育を受けるようになった。そして明治27年には大試験が施行され、応試生21名中及第生が18名いたというから、児童の中に標準語が浸透しつつあったと言うことができよう。同年の入学者数は,男児14名,女児2名、計16名あったという。
 明治28年には,入学児童数35名(男児13名,女児22名)となり、一時的に女児の入学者が男児より増える結果となったが、これは決して女子教育に対する住民意識の高揚を示すものではない。この年に、学校側は児童の結髪を旧慣の悪しき風俗と断じ、父兄と相談して「悉皆断髪セシメ」たという。旧来の風俗は日本国民として相応しいものではないと断じているのである。積極的に皇民化教育を推進する教師の姿が見えてくる。
 明治29年には「就学児童ノ数モ年々増加シ校舎狭隘を告ゲ」たので、石垣島の字新川旧学舎を譲り受けて黒島分校の校舎を改築したという。明治政府の推進する国民皆教育政策の効果が現れはじめた。校舎改築を要するほどに住民は教育に対して一定の意識の高揚を見せるようになってきたといえるであろう。
 そして明治30年の大試験には、男児32名、女児16名の応試者が出たが、その中より男児7名のみ第一回の「率先卒業者」となることができたという。翌明治31年には5名の男児が卒業しているが、女児の卒業生はまだみられない。児童らは就学はするものの、まだ率先して卒業する者が少なかったようである。義務的に就学する児童の多い時代ではあったが、標準語に接する機会は確実に増加していたのである。
 明治32年には「就学児童ノ数年々歳々増加ヲ見ルニ至ルモ、旧藩来因襲ノ久シキ人民中、平民ハ修学スベキモノニアラズトノ彼等ノ迷夢今ニ覚醒セズ。普通教育ノ恩沢ニ浴シナガラ之ヲ悟リ得ズ。ヤヤモスレバ就学ヲ忌避スル蒙昧ノ父兄多ク縦(「終」か。筆者注)ニ無届欠席ヲナサシメ、殊ニ旧慣ノ節句ナトニハ,好機会トシテ欠席者多ク為ニ授業充分ナラズ、督促スレバ、父兄ハ言ヲ左右ニシテ其効ヲ奏セズ、厳重に督促シ、或ハ懇々説論スルモ糠ニ釘ノ調子ニテ,一、二日ハ五、六十名ノ出席者ヲ見ルモ日ヲ経ルニ従ヒ僅カ数日ニシテ半数以上ノ欠席者ヲ見ルコト多キハ父兄ノ向学心薄弱ナルコト実ニ悠然ノ至ニテ、児童ヲ教育スルヨリモ却リテ蒙昧ノ父兄ヲ督促スル教師ノ困難ヲ思フベキナリ」とあり、学校教育現場をとりまく社会環境が活写されている。
 明治33年の黒島の総戸数129戸,総人口が671名(男289名、女382名)、学齢児童111名(男44名,女67名)で出席率が52,4%であるから、上記の教師の悩みも理解できる。これは黒島だけの特殊情況でなく、当時の離島村落における一般的情況と考えてよいであろう。黒島は石垣島に近いだけに、まだましな情況であったと言えるかも知れない。
 ところで、村の人口671名中、111名の学齢児童があったということは、総人口の約6分の1に相当する人が教育を受け、標準語に接したことを意味する。全く同じ条件で10年経過したと仮定すると、明治33年の入学者が92名,同34年の100名、同35年の106名,同36年の105名,同37年の101名、同38年の101名、同39年の99名,同40年の106名、同41年の98名が統計上に認められるから、村の総人口を越える約1000名の人々が
標準語による教育を受け、標準語を理解し、話すことが出来たことになる。こうして標準語は次第に住民の中に浸透していったのである。
 明治36年1月16日には「新税法実施記念祝賀会ニ付休ム」とある。住民を苦しめた悪税(人頭税)が廃止され,人々は塗炭の苦しみから解放された。休校して新税法実施を祝うほどに住民にとって重大な事件であった。明治35年の卒業式には「君ガ世」が斉唱され、「教育勅語」が奉読された。明治37年には日露戦争画の幻燈会が学校で開催され、「人山ヲ築キ実ニ盛況」であったという。明治38年11月25日には「日露戦争凱旋祝賀会」が開催され、日本国民としての自覚ができあがったものと考えられる。
 日本国民としての自覚は形成されたにしても当時は「明治40年4月,従来ノ卒業児童ヲ通観スルニ、当地ハ遠僻ノ地ニテ社会ノ刺激ヲ受クルコト少キ故ニヤ、卒業後ハ義務教育ハ終レリ,最早,学問修養ノ必要何処ニカアル、専心家業ニ従事スレバ事足レリトナシ、一向修養復習ノ念起ラズ、四年間ノ学業ハ年ヲ経ルニ従ヒ、漸次忘却スルモ敢テ顧ミザルモノゝ如シ・・・」の状態であった。
 大正期の資料が欠落しているので明確なことはわからないが、おそらく明治末期の情況が続いていたものと推定される。安定した村落構造に支えられ、島々,村々の方言はゆるぎないものとして語られていた。方言という言語体系に一定の影響を与え始めるのは、昭和12年の「日支事変勃発」により標準語励行運動が起こったことであろう。明治31年に徴兵令が実施され、それに基づいて兵役についた県出身兵士が十分に標準語を理解できなかったことが職務遂行上問題となったことと,沖縄県出身者の外国移民が、移住地において、ことば(沖縄方言)の問題で差別扱いを受けたということなどが背景にあって、昭和15年の県治方針の一つとして「標準語励行運動」が挙県的運動として展開されたといわれている。このことが昭和15年に日本民芸協会と沖縄県学務課との間に「方言論争」(標準語論争とも)を巻き起こす原因となったのである。学校教育の現場には「標準語励行運動」がストレートに持ち込まれ,方言匡正のために「方言札」なるものが用いられるようになった。一種の「恐怖教育」が一般化するようになったのである。
 終戦後は米軍政府による英語教育重視政策が推進された。昭和24年頃のできごとだった。石垣島より高速舟艇に乗った米人とその通訳とおぼしき人(石垣の人か?)が鳩間島に乗り込んできて、小学校に村人を集め,突然英会話の講習会を始めた。何かの催し物を期待して集まった村人は、初めて耳にする英語の発音に戸惑い,吹き出す始末であった。通訳は最前列の老婆に指名して発音するよう指示したが、老婆の笑いは止まらなかった。たまりかねた通訳が教鞭で老婆の肩を打った。しかし老婆の笑いは止まらなかった。通訳はさらに老婆の肩を打った。それを廊下で見ていたO氏が猛然と批判した。村人から尊敬されている老婆を衆人環視の前で鞭打つとは許せないという主旨であった。通訳氏は,遠方より英語を教えるために来たと抗弁した。しかし、O氏は、貴方が勝手にやってきて勝手に教えているだけだ。村人が要請したことではないと主張した。筆者は米人の反応を恐れたが、米人はあっさりとO氏の主張を認めて帰った。鳩間出身者の中で、標準語を駆使して中央の人と互角に論争できる人がいたことに大きな感銘を受けた。そのことは今もって忘れることができない。標準語を自由に使える人は例外的な存在であったのである。
 また、終戦直後,米軍政府当局より琉球方言による教科書編纂の要請があったという。直接に要請を受けられた、故琉球大学教授仲宗根政善氏の直話によると、琉球方言の研究が十分に進んでいないこと、琉球方言による各領域の科学的表現が困難であるとの理由で要請を断られたとのことであった。これは、結果的には異民族支配下の沖縄で、植民地教育から沖縄の教育を救ったものと考えられる。
 昭和26年の学習指導要領国語科編は、民主々義教育の定着を目指して「話す」「聞く」の領域を重視するようになった。それを受けて沖縄の各地では「標準語励行」が戦前教育の延長線上で実施され、「方言札」も活用された。人前で臆することなく自分の考えを述べることができるようになることが目標であった。沖縄の子は能力はあるが、発表力,表現力が不足しているという評価を克服する教育が要求されていた。昭和26年4月に示された鳩間小学校の「学年の努力目標」の一つに、「・・・四,訓練 朝の自習の奨励,標準語の励行・・・」がある。当時の学校現場が方言使用に如何に悩まされていたかを知ることのできる記録である(「創立百周年記念誌 波涛を越えて」竹富町立鳩間小学校)。
 当時の鳩間島の日常生活は、すべて鳩間方言でなされており、伝統的な「ものの見方,考え方,感じ方」も方言によって伝えられた。喜びも,悲しみも,親子の情愛も,朋友との語らいも、生活の知恵の授受も、祭祀運営のあり方も、村人としての生き方も、すべて鳩間方言に乗せて伝えられた。従って学校生活においても、授業時以外は方言を使用していたのである。島では,学校と郵便局にラジオが各一台と新聞が各一部あるのみであったから、外部からの情報は週2便の定期船によって石垣島からもたらされた。新しい文化情報は、正に海面を這うようにして島に伝えられたのである。海によって隔絶された島社会は自己完結構造を有していたから、島独自の半農半漁の文化を形成するようになった。稲作を中心とした農業は、稲の成育過程に従って1年の時のサイクルをスタッカートし、その節々に神への祈りや感謝及び予祝の祭祀を配置したから、人々は強く土地に縛りつけられていた。島社会の時の流れは非常にゆっくり流れたから、社会的変化もゆっくりと進行した。
 八重山の島社会に大きな変化をもたらすのは、日本政府の高度経済成長政策による若者の離島現象である。中学卒業生が金の卵と称されて本土へ集団就職することが盛んになってきた。若者が島から流出すると島の社会構造に大きな変化をもたらすようになった。島は過疎化が進み,老人の島となった。因みに昭和33年から平成7年までの島々の人口の推移を沖縄県の「離島関係資料」によって示すと次のようになる。

昭和30年 昭和35年 昭和40年 昭和45年 昭和50年 昭和55年 昭和60年 平成2年 平成7年
竹富   1054    798    480    336    352    356    308    273    262
西表   4027   3498   3287   2302   1515   1538   1641   1711   1887
小浜   1054    934    825    560    410    456    488    503    486
黒島   1242   1052    675    433    280    215    221    209    193
新城(上)    135    110    62    15     9     5     6     3
鳩間    567    432    220    69    33    36    70    54    45
波照間   1322   1422   1323   1064    855    760    721    689    596
与那国   5269   4701   3671   2913   2155   2119   2054   1833   1801

                                    (沖縄県企画開発部地域・離島振興局による)

 上記の資料によると、昭和40年から45年にかけて,離島の人口が半減または三分の一に減少していて、注目すべき時期であることを示している。
 この時期に島を離れた若者達が他府県、他市町村で他郷出身者と新家庭を営むようになると新家庭では方言によるコミュニケーションは不可能となり、結局標準語に頼らざるを得なくなる。親子の間においても方言は意思疎通のための手段とはなり得ず,新家庭においては言語の転移(Language Shift)が完了する。
 島社会においても人口の激減に伴い,方言を受け継ぐべき人口の再生産が極度に落ち込むようになった。伝統的方言は,島出身の両親が築いた新家庭において、代々受け継がれてきたものである。そのサイクルの歯車が人口激減によって作動しなくなると、島出身者以外の人と新家庭を築くようになり、島を離れた人々と同じ情況を示すようになる。
 昭和31年頃鳩間小学校では附属幼稚園が開設されるようになり、4・5歳児が標準語に接するようになった。家庭においても父母や祖父母が標準語で子や孫に語りかけるようになり、方言はコミュニケーションの舞台から忘れ去られ、ここでも言語転移が進行するようになるのである。それ以後,完全に方言を失った世代が増加し,過疎地の島や村の方言は「危機に瀕した言語」となった。丁度その頃(昭和43年)、NHK(沖縄放送協会)が沖縄本島一円の放送を開始し、昭和47年にはNHKが八重山,宮古にカラー放送を開始した。沖縄の本土復帰の年である。昭和47年以後に誕生した子供は、生まれた時からNHKから流れる標準語を聞いて育った。彼らは標準語に対して、以前の子供らのような違和感を感じない。その意味でも昭和47年は、沖縄のランゲージシフトを考える上で象徴的な年といえよう。

加治工 真市


  上中町のこと

 本棚に『若狭街道熊川宿』と題する小冊子があって、昨年の夏に上中町(福井県遠敷郡)の教育委員会を訪ねたときにいただいたものだが、取り出して手に取ると表紙が空から見た上中町の写真になっている。細長い谷の町である上中町には北川という美しい川が流れていて、空からその北川の上流を見遣る感じでその写真は撮られている。低くなだらかで穏やかな山々が上中町を優しく包んで守っているように見える。

 小冊子の第1頁には「御食国(みけつくに)若狭」とある。御食国というのは、天皇の食料を献上する国のこと。この美しく住み良い土地にははるかな昔から人々が豊かに暮らしてきたらしい。藤原・平城京から出土している木簡には、若狭から送られた塩や魚や貝などの荷札が多く発見されているとのこと。若狭の国名の由来については次のようなことが書かれている。「そもそも、若狭の国名の由来とは、日本書紀に見えますが、膳臣余磯(かしわでのおみあれし)が履中天皇に御酒を献じたところ、その盃に時ならぬ桜の花びらが舞い落ちました。天皇はこれを大層めずらしく、また天下泰平の印としてお喜びになり、余磯には「稚桜部臣(わかさくらべのおみ)」という号を授けられました。この「稚桜」をもって、余磯の領有するこの地が「若狭」となったとは、国学者伴信友の説であります。誠に美しい語源解釈と申せましょう。」 本当に。上中町にはこの美しい語源解釈がとてもよく似合うと思う。

 大阪方面から上中町へは、経路・乗り換え検索ソフト「駅すぱあと」が教えてくれない秘密?の行き方がある。JR大阪から近江今津行きの新快速で終点の近江今津まで行き、そこから小浜行きのJRバスに乗り上中で降りるというのが、いちばん早くて安い方法である。JRで敦賀まで行って小浜線に乗り換え上中まで行くという手もあるが遠回りで連絡が悪く料金も高い。

 上中町を初めて訪れたのは93年の夏である。大学のゼミで行われた方言調査旅行に私も参加したのだった。二人一組になって調査地点へ向かう道を歩いているときに、青々とした田んぼの稲に風が吹き渡っていくのや用水路を美しい澄んだ水がさらさらと流れていくのを見て、「心が洗われるようだ」と後輩が言っていたのを思い出す。カナカナやミンミンのような都会では聴けない蝉の声も心にしみ入るようであった。

 上中町のアクセントの研究をその後も続けることになったのは、93年の調査テープの聞き取りをやっていたときに、珍しい音調に気が付いたからである。京都方言などで高起式無核型(高く始まって下がり目がないタイプ)に相当する語の語頭にかなりはっきりとした下降が現れる話者が少なからずあった。高い拍をHで、低い拍をLで表すことにすると、次のようであった。

            京都    上中
   サカナ     HHH    HLL
   トモダチ    HHHH   HLLL

 その後、私は単身上中町に赴き、この音調が言い間違いなどでなく繰り返し現れる音調であることを確認したが、その正体についてはそれ以後も長いこと謎であった。

 上では、各拍の高さをHかLかの2段階で表したが、各拍の高さを仮に3段階で高い方から3・2・1と表すことにすると、上中方言では「魚」と「朝日」は次のような音調をとる。

   サカナ 322
   アサヒ 321

逆(サカナを321で言ったり、アサヒを322で言ったりすること)は不可である。これに気が付くのにどれだけの時間がかかったことだろう! 京都方言などでは322と321の違いは音韻的な違いではなく、どちらも同じ一つの音韻的な型に属する音調だからである。京都方言では、例えばアサヒは322でも321でもどちらでもよい(321の方が普通だが)。ところが、上中方言ではそうではない。上中方言ではこの違いが音韻的な違いとなっている。より長い単語では次のようである(0は1よりさらに低い)。

   トモダチ 3222
   オーカミ 3210

 すなわち、第2拍直後以降の下降の有無が弁別的特徴となっているのである。私はこれに気が付くのに何年もかかってしまった。何とものんびりしている。

 インフォーマントのYさんは、大正2年生まれで上中町に生え抜きの方である。Yさんでなければ、私の研究は挫折してしまっていたと思う。この方言の音調の重要な違いに気付くまでは、とにかくYさんの発音を聞いて、真似をして、自分の発音で合っているかどうかを尋ねる作業をひたすら繰り返した。Yさんは根気よくこの退屈な作業に付き合ってくださった。また、私の発音に対して「合ってる」「違う」をいつでもはっきりと判断してくださった。音調に対する感覚の鋭さと目下の者への思いやりと、ほんとうに私の研究はYさんがいてくださらなければ成立しなかっただろう。

 上中町のアクセントの研究を通じて、私はほんとうにたくさんのいろいろなものを学ぶことが出来た。巡り合わせに心から感謝する。

大和 シゲミ


 日本人の手をはなれた日本語(台湾)

   A:五百円?
   B:百五十円.
   A:うん,ん,これで.
   B:これ,使ったことあるでしょう?
   A:えー,これ,あの小さいんだ,あれ.買ったの.これ,やっぱりここで買ったよ.
   B:田植えもう済んだ?
   A:田植えやってない.もう,籾安いから.まけに干ばつせー.
     (田植えやってない。お米が安い。おまけに干ばつだから.)


 70代の男性同士による対話である.一見何の変哲もない会話であるが,収録された場所は,日本のどこでもなく,台湾という国である.
 日本がかつて約50年間にわたって統治した台湾では,現在でも,母語を異にする人々の間において,日本語がリンガフランカ(共通語)として用いられているのである.その話者の多くは65歳以上の人で,母語はアミ語・アタヤル語・パイワン語・ブヌン語・ルカイ語・プユマ語・サイシャット語・ツォウ語・ヤミ語・ビン南語・客家語などさまざまである.

 冒頭の発話例に登場したAさんはアミ語母語話者,Bさんはビン南語母語話者である.いずれも北京語があまり話せず,お互い,相手の母語もわからないため,店でのやりとりや世間話はすべて日本語で行う.筆者がはじめてその店を訪ねた時,ちょうど4,5人の客が買物に来ており,日本語が飛び交っていた.一瞬まるで日本にいるかのような錯覚に陥った.

 Bさんは約40年前に台湾の南部から,アミ族が多く住んでいる現在の村(東部の花蓮県)に移住した.日本語は公学校(6年)を出たあとほとんど使っていなかったが,移住してから10数年ぶりに使うようになった.客とのやりとりのため,日本語を毎日のように話している.そういう環境の中で,店を手伝うことが多かった長女(50代)も日本語を自然習得したという.

 Bさんの店を拠点に,この地でのフィールドワークが展開されている.1987年に戒厳令が解除されるまでの長期間にわたって,国民に言論の自由が与えられていなかったといった歴史的な背景もあり,多くの人は「調査」ということに敏感であり,「録音」に対してはなおさら抵抗を感じる.しかし,Bさん(75歳)とその奥様のCさん(70歳)の理解と協力を得て,多くのインフォーマントと接することができた.最近になって,冷ややかに見ていた近所の人たちまでも自発的に協力を申し出てきてくれたのである.

 村では過疎化が進み,一人暮らしのお年寄りが多い.足が弱くていつも一人でしょざいなくテレビをボーと眺めているアミ族のおばあちゃんDさん(89歳)もその一人である.はじめて会った時,たいへんに警戒心が強く,厳しい顔をしていた.しかし,かつての学校生活を語っているうちに,笑顔が戻ってきた.いつのまにかCさんと二人で桃太郎を歌いだしたではないか.少女のようにその頬は淡いピンク色になっていた.

 ある日曜日のことである.挨拶に行くと,Dさんの家族が帰ってきていた.私がおばあちゃんと日本語で話していると,お孫さんが尊敬の眼差しでおばあちゃんを見つめていた.北京語に弱く,いくらか時代に遅れ気味のおばあちゃんが外国語をこんなに巧みに使いこなせたんだと感心していたようである.

 かつての言語政策の偏りで,若者は台湾の歴史を知らない.祖父母とはことばさえ通じないのだから,20世紀を歩んできたその祖父母のことは知るよしもない.実は,台湾生まれ台湾育ちの私も日本語を通じてはじめて,アミ族や客家のお年寄りと話すことができ,本に載っていない台湾の歴史を生の声で学ぶことができたのである.

 今頃は,あの店で日本語が飛び交っているだろう.おじいちゃん,おばあちゃんみんな元気にしているかなあ.「あんたと話をしていると,おばあちゃんの病気はみんな逃げてしまったよ」というおばあちゃんのことばを思い出しつつ,熱心に協力してくれたおじいちゃん,おばあちゃんに,どのようにお返しすればよいかと考える私である.

(簡 月真、大阪大学大学院)