フランス国立東洋言語文化大学・大阪大学 国際共同シンポジウム

モノと文献でわかる古代・わからない古代

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日本皇陵にみる唐朝の模範とその放棄

フランソワ・マセ(イナルコ名誉教授)

葬儀および私たちが最も近づきやすいものとして残っている墓という観点から見ると、古墳時代の終わりと有史時代の初めは非常に複雑な状況を呈している。

一方では大きな墳墓や特に前方後円墳は稀少となり、ついには消滅してしまう。この最後の時期には多くの方形の墓、ついで幾つかの八角形の墓が見られるようになる。しかしとりわけ8世紀はじめには高松塚のような墓に小規模ながらも質の高い中国の模範の影響が認められる。この現象は宮廷における急速な中国化によって十分に説明できる。生活のほとんどあらゆる領域が急激に変容し、中国の模範に意図的に追随しようとしていたときに、墓だけが例外となる理由はなかった。ところが驚いたことに、中国の影響をもはや強調するまでもない藤原京や平城京のような新しい都を建設したときに、埋葬の手本がそれに追随していないのだ。

7世紀初頭から9世紀の中頃にかけて引き続き中国に赴いた遣唐使たちは、唐の君主たちの大きな陵墓に感銘を受けたにちがいないのに、日本側にいかなる対抗意識も引き起こさなかった。それどころか天皇家で継承されてきた大きな墓はついには完全に消失してしまい、平安京の創始者である桓武天皇の墓の正確な位置さえ分からないほどなのだ。

中国の社会管理モデルが大きな墳墓の造営を支えていた社会組織の消滅をもたらしたと推測することは可能である。ところが、中国モデルは少なくとも同じくらい壮麗な葬儀の例を示していた。だがそのような葬儀が知られることはなかった。問題となるのは墓だけではなく、死者たちの管理の仕方である。古代に関する日本の碑文は、中国の手本に従ったことで知られる社会としては信じがたいほどに貧しい。君主たちについては、元明天皇のための45文字ほどの墓碑銘が伝えられているだけだ。このたった一つの例だけで墓碑について語ることは困難である。墓誌も8世紀以前に遡ることはほとんどなく、10点も越えないくらいなのだ。


フランソワ・マセ:ソルボンヌ大学で歴史学の修士号を取得後、Inalcoで日本語を学修。パリ第3大学で国家博士号取得。日本政府給費生として京都大学へ留学。松山大学講師、Inalco准教授、教授を経て現在名誉教授。『古代日本における死と葬儀』、『古事記神話の構造』その他論文多数。