戦国楚簡研究会

中国古代思想史の再検討  戦国楚簡研究会

荊門・荊州 学術調査

荊門・荊州 学術調査 戦国楚簡研究会

2005年8月29日〜9月3日、戦国楚簡研究会は、中国湖北省の荊門・荊州を中心とする学術調査を行いました。このページでは、その調査で得られた最新情報をお伝えします。

中国湖北省 荊門・荊州 学術調査報告

調査旅程の概要】【荊門市博物館】【紀山古墓群】【紀南城址】【荊州博物館

調査旅程の概要


湖北省
 2005年8月29日から9月3日にかけて、
戦国楚簡研究会は湖北省荊門市を中心に、
  1. 郭店楚簡を収蔵する荊門市博物館
  2. 郭店一号楚墓を含む紀山古墓群
  3. 楚の都「紀南城」址
  4. 張家山漢簡などを収蔵する荊州博物館
を主な対象とした学術調査を行った。

2001年以来、本研究会は、上海博物館の訪問、大阪大学における国際シンポジウムの開催、台湾大学や北京・清華大学において開催された国際シンポジウムへの参加など、国際的な学術交流を積極的に進めてきた。今回の学術調査は、本研究会のメンバーを中心とする共同研究「戦国楚簡の総合的研究」(代表者・湯浅邦弘)が科学研究費基盤研究B(2005年度〜2008年度)に採択されたことを受けて実施したものである。


湖北省荊門・荊州付近

◆行程


車中の様子
8月29日 関西国際空港に集合。上海・浦東国際空港へ。上海泊。
8月30日 上海・虹橋空港から湖北省・宜昌空港へ。
宜昌から荊州を経由して荊門へ(高速道路を利用)。荊門泊。
8月31日 午前、荊門市博物館を訪問。
午後、紀山古墓群を調査。荊門泊。
9月 1日 午前、紀南城址を視察、午後、荊州博物館を訪問。荊門泊。
9月 2日 荊門から荊州を経由して宜昌へ(高速道路を利用)、
更に宜昌空港から上海・虹橋空港へ。上海泊。
9月 3日 午前、上海博物館訪問。上海・浦東国際空港から
関西国際空港へ。関西国際空港にて解散。

◆参加者


写真1 参加メンバー

参加者は、本研究会設立時からのメンバーである浅野裕一(東北大学大学院)・湯浅邦弘(大阪大学大学院)・福田哲之(島根大学)・竹田健二(同)・菅本大二(梅花女子大学)の五名に加えて、渡邉英幸(日本学術振興会特別研究員)・通訳の郭丹(島根大学大学院教育学研究科在学中)の合計七名である。この他、湖北省における調査にのみ、北京・清華大学に留学中の福田一也が現地で合流して同行した。

湖北省での移動手段には専用マイクロバスを利用、中国国内での全行程に同行するスルーガイド、湖北省でのスポットガイドと併せて、予め旅行社を通じて手配した。
天候にも恵まれたおかげで、すべての調査活動が概ね円滑に行われ、満足すべき充実した成果を収めることができた。それぞれの詳細については、下記の「荊門市博物館」「紀山古墓群」「紀南城址」「荊州博物館」の項を参照されたい。

なお、本研究会のメンバーは、四年前からほぼ毎年上海を訪れている(SARSが流行した2003年を除く)。毎回上海博物館を訪問し、故 馬承源氏をはじめ、陳佩芬氏・濮茅左氏ら博物館の研究者と面談を重ね、上博楚簡に関する情報を積極的に収集してきた。今回も上海博物館を訪問したのだが、日程の都合で最終日の半日しか時間が確保できず、博物館の関係者と会うこともできなかった。今回は特筆すべき新たな情報はない。

本研究会の浅野・福田哲之らが初めて上海博物館を訪問したのは、『上海博物館蔵戦国楚竹書』第一分冊が刊行される前の2001年8月であった。その時には博物館側の御厚意により、上博楚簡を実見する機会を得たが、中国歴代書法館において展示されていた上博楚簡の拡大写真パネルからも貴重な情報を得ることができた。今回の訪問では、せめて書法館の展示から情報が得られないかと期待したが、楚簡に関する展示そのものが一点もなかった。上海博物館のより積極的な資料展示を望みたい。

(竹田健二)

荊門市博物館(2005年8月31日午前10時〜12時訪問)


写真 2 荊門市博物館

8月31日午前9時45分、宿泊先のホテル(荊門市の鳳凰花苑酒店)から専用マイクロバスで荊門市博物館(写真2)に向かった。約十分あまりで到着。

博物館は、荊門市内の繁華街象山大道の北端にあり、建物は、古式ゆかしい伝統的建築物で統一されていた。一九八四年の創建であるが、その後、1984〜85年にかけて、荊門付近の道路建設に伴い数百座の墳墓が発見され、また86〜87年にかけて、包山楚墓など八十座の墓群が発見されるなど、荊門市博物館は一躍脚光を浴びることとなった。さらに、1993〜94年にかけて、盗掘を発端とする紀山古墓群の調査が進められたことから、1993年に急遽新館が増設された。さらに、1993年秋に発見された郭店楚簡の整理・研究を推進するため、2000年4月には「郭店楚簡研究中心」が併設された。現在、敷地面積は約一万平方メートル、職員数は七十人余、収蔵品は、国家一級文物六十余点を含む一万二千点にのぼるという。

同博物館では、まず館長の翟信斌先生ならびに「郭店楚簡研究中心」主任の崔仁義先生の挨拶を受けた。ここで、今回の旅行団の団長・浅野裕一教授から、関係著書の寄贈が行われた。その後、崔先生が館内を詳しく説明して下さった。

まず包山楚墓の展示室を見学。包山楚墓の棺椁や出土品を実見し、また包山楚墓および他の紀山古墓群の位置関係などを展示パネルによって確認した。次に、「珍宝館」と記された展示室に入った。ここでは、郭店一号楚墓から出土した竹簡のレプリカ(原寸大)が整然と展示されていた。『老子』『太一生水』『成之聞之』『魯穆公問子思』『尊徳義』など、これまで釈読を重ねてきた竹簡が展示室いっぱいに陳列されている様子は圧巻であった。


写真3
郭店楚簡の原簡を調査

その後、別室に招かれた我々は、いよいよ郭店楚簡の実物(原簡)を拝見した(写真3)。今回閲覧を許されたのは、『太一生水』『魯穆公問子思』『語叢三』『語叢四』の竹簡計四本である。いずれも薬液入りの試験管の中に収められていた。これまで、写真版でしか見られなかった竹簡の実物を目にし、特に竹簡の形態や文字の様子、また、写真版では示されたことのない竹簡の側面や背面の状態を直接把握できたことは大きな収穫であった。

また、館内には、郭店楚墓の墓葬年代について、「武漢地質学院測値中心」による証明書「同位素分析成果報告単」が掲示されていた(写真4)。それによれば、郭店一号楚墓の「棺木」の炭素14の測定値が「2340+-170年」であり、その測定の基準年は、国際標準年である「1950年」であると明示されていた。すなわち、この測定数値によれば、郭店楚墓の造営時期は、紀元前390年頃(+-170年)となり、例えば、近隣の包山楚墓(竹簡に記された紀年から紀元前316年の造営であることが判明している)などに比べてやや古い時期の造営である可能性が高いということになる。この点は、これまで日本に伝えられたことのない極めて貴重な情報である。

従来、戦国楚簡の研究において、上博楚簡は炭素14の測定値が公表されているものの出土地が特定されておらず、一方、郭店楚簡については他の多くの副葬品の考古学的編年から紀元前三百年頃という見解が示されているものの、炭素14の測定値が公表されていない、という状況にあった。このことが、戦国楚簡研究に対して二の足を踏む研究者がいるという原因の一つにもなっていたと思われる。


(クリックで拡大)

写真4
炭素14の測定値

ところが、荊門市博物館には、1994年7月付けの炭素14の測定値が明示されているのである。この証明書は以前から館内に掲示されていたのか、それとも近年初めて掲示されるようになったのかは分からないが、いずれにしても、これまで同館を訪問した研究者からは伝えられなかった新情報である。

さらに、郭店楚簡と上博楚簡との関係についても重要な解説を聞くことができた。上博楚簡は盗掘された後、香港の古玩市場に流出していたものを上海博物館蔵が購得したものであるが、盗掘された地点は明らかにされていない。ところが、出土地点について郭店楚墓と同じく湖北省であるとの噂は以前から伝えられていた。この点について質問したところ、崔仁義先生より、明確なことは言えないものの、双方の竹簡に付着していた土の質が類似しており、また、竹簡の字体が極めてよく似ていることから、上博楚簡の出土地も、同じく紀山古墓群内である可能性が高いとの教示を得た。この点も、上博楚簡の資料的性格を考える際の重要な情報である。
二時間ほどの訪問ではあったが、多くの学術的情報を得ることができ、我々にとってはきわめて貴重な体験となった。

(湯浅邦弘)

紀山古墓群(2005年8月31日午後1時半〜午後5時半調査)


写真5 大薛家窪

荊門市博物館の見学を終え、昼食をとった後、崔仁義先生の案内で紀山古墓群に向かった。紀山古墓群は、荊門市の南約50km、荊州の北約10kmの地点にあり、荊門と荊州を結ぶ「襄荊高速道路」の西側に位置する。総面積は約百平方キロメートルという広大な一帯である。墓群は現在、「白龍崗」「張家崗」「郭店崗」など二十四の墓地の名称によって整理されているが、今回我々が調査したのは、この内の「大薛家窪」「尖山」「郭店」の三箇所であった。
まず「大薛家窪」(写真5)は、一号墓・二号墓という比較的大きな主墓と、四行十列に排列された陪葬墓からなる。これらは現在、ともに雑木に覆われた小高い丘となっており、我々はやや息を切らしながら一号墓・二号墓および陪葬墓の一つに登った。この二号墓と陪葬墓の間には祭壇があり、またその東側には五段からなる台階も築かれていて、もとは人工的に整備された完成度の高い墓地であったとの印象を得た。崔先生の説明では、おそらく楚王の墓ではないかとのことであった。


写真6 尖山墓地

次に「尖山」墓地は(写真6)、現在農地となっている平地に、まさに突出した丘状を呈していた。「尖山」墓地は全体では百十二の墓群から構成されているとのことであったが、我々はその内、胡麻の苗が密集して植えられている高さ約6メートルの封土に登った。ここからは紀山古墓群の様子が良く眺められ、これらの墓群が日当たりの良い丘陵地に形成されている状況を実感することができた。丘状に見える盛り土は、すべて古墓の封土であり、その総数は確認されているものだけでも三百を超えるという。春秋戦国時代の楚の都「郢」の墓陵地として重要な場所だったのであろう。

最後に実見したのは、念願の郭店一号楚墓である(写真 7)。郭店一号楚墓は右の「大薛家窪」「尖山」の南東約四〜五kmの地点に位置し、右の二つの墓地が今も小高い丘として封土を残しているのに対して、農家の裏の全く平坦な場所にあった。 これは、長年にわたって農民が耕作用に封土を削り取ったためであるとのことであった。それにより、古墓の存在が分かり、盗掘にあって郭店楚簡の発見に至った訳である。郭店一号楚墓は、1993年10月の発掘調査の後、土が埋め戻され、現在は、かつての墓坑の上に高さ約30cmのコンクリートの囲いが施されていた(写真 8)。

 

写真7 郭店一号楚墓            写真8 郭店一号楚墓のコンクリートの囲い

郭店一号楚墓は、墓坑の深さが約七メートル、墓坑・墓道の幅は約九メートル、墓棺は一棺。それほど大きな墓ではない。当時の礼制から推して、恐らく楚の「士」クラスの墓であったと考えられている。今は、このコンクリートの囲いによってその当時を偲ぶ他はない。
ここで我々が少し心を痛めたのは、紀山古墓群の保存や顕彰の状態である。「大薛家窪」には、付近の農家に小さなカメラ付きのアンテナが一本立てられていた。それは、盗掘を防ぐための監視用のアンテナであるとのことであったが、広大な紀山古墓群全体を監視するには不十分であるように感じた。また、「大薛家窪」「尖山」墓地への入り口が公道から比較的近いところにあるのに対して、郭店一号楚墓までは車一台がやっと通れる程の細い一本の農道が通っているのみであり、途中、案内表示などはまったくない。また墓は、うっそうとした雑木林に覆われていて、墓の東側に「郭店一号墓」という小さな墓標が立てられているのみであった。郭店楚簡の重要性に比して粗末な扱いのように感じられ、残念な印象が拭えなかった。

ちなみに紀山古墓群は、1996年に「国家級文物保護単位」に指定されている。

(湯浅邦弘)

紀南城址(2005年9月1日午前10時半〜12時調査)

9月1日、快晴。朝9時30分、チャーターしたマイクロバスに乗り込み、荊門のホテルを出発して高速道路を南下、紀南城に向かう。楚の都「郢」の城址である紀南城は、先秦史を勉強する身として、一度は訪れておかねばならない場所の一つである。

紀南城はかつての沙市、現在は荊州市の行政区域内に含まれており、江陵県城から北に約5キロメートルほど離れた場所に位置する(地図1)。付近には、西北の八嶺山や北の紀山に代表される楚の古墓群が無数に分布しており、包山楚簡が出土した荊門包山二号墓は北に約十五キロメートル、天星観一号墓は東に約20キロメートル離れた地にある。

紀南城遺跡は、1961年に国家重点文物保護単位に指定され、北壁と南壁にそれぞれ郭沫若の手になる「楚紀南故城」の石碑が建てられている。城壁は南北約3.5キロメートル、東西約4キロメートル、四隅がコーナーカットされたいびつな長方形を呈している(地図2)。南壁東部は南側に張り出して凸部を形成しており、凸部の西よりの部分には城壁の切れ目があって、南の大門の跡と考えられている。凸部の北側に位置する松柏区の西部には内城壁の跡が発見されており、さらに考古学的調査により、外城郭南門から北に向かって、大規模な建物の台基が連なっているのが確認されている。これは南北に連なる宮殿区域の中心軸線であるという。

紀南城がいつから楚の都城であったのかは、はっきりしない。大城壁が築かれた時期は、C14年代測定などによって、春秋時代の後期から戦国時代の前期の間と考えられている。実は、この紀南城が本当に楚の都「郢」であったのかという点についても、一部に異論が存在している。しかし楚史研究の専家である谷口満氏は、戦国時代の出土文字資料の分析によって、この紀南城こそが「郢」と呼ばれる楚の都城に該当することを論証しており、少なくとも春秋後期から戦国時代にかけて、この紀南城が楚都「郢」であったことは間違いないであろう。また、宮殿区域内の台基の中には、一部で春秋中期にさかのぼる遺構も発見されており、仮に大城壁が建築された時期が春秋後期以降であるとしても、それ以前からこの地に楚の都城が存在していた可能性は高いという。文献史料では、『春秋左氏伝』文公十四年(前613年)と昭公二十三年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」と見えており、後者の記事があるいは大城壁の建築開始を伝えているのかもしれない。

これに対し、紀南城が廃棄された時期は明瞭である。文献史料に見える秦頃襄王の二十年(前278年)の白起による「抜郢」の時期に、楚が紀南城を廃棄したことが、考古学的にも裏付けられている。この時期を境に、周辺の墓葬のうち中ランク以上の楚墓が姿を消す一方で、秦人の墓葬が確認されるようになるという。この事象は、秦軍の占領により、楚の貴族層がこの一帯から駆逐されるとともに、秦人の入植が開始された事実を意味するものでなければならない。要するに紀南城は、春秋時代の後期から戦国時代の後期に至るまでの約二百年間、楚の中心地として機能し続けていたと考えられる。

私たちが訪れた地点は、紀南城の大城壁の東南に当たる部分である。東側の城壁を削るように南北に走る襄沙公路に面して前述の石碑が建てられていた(写真9)。石碑の背後には西に向かって、城壁がなだらかなマウンドを形成している(写真10)。これに沿って西に歩くこと数分、城壁に大きな空隙が確認でき(写真11)、空隙の向こう側の城壁が北に屈曲し、城壁上には小高い台基が残されていた(写真12)。楚の南大門の跡と、大門に面した「烽火台」の跡である。私たちは烽火台に上り、北に向かった城壁がさらに西向きにほぼ九十度の角度で屈曲しているのを目にすることができた(写真13)。この屈曲部が紀南城南城壁の凸部の西端であり、これより北側が、紀南城の宮城区域である。もちろん私たちには、内城を囲む城壁も、宮殿区を南北に走る中軸線の跡も、確認できなかった。その後さらに二十分ほど、ゆっくりと南城壁上を歩いてみたが(写真14)、城壁の西端はいまだ見えない。あらためて紀南城の大きさを実感する。

本来ならば、このまま城壁をずっと歩きたいところであった。しかし、一行の次の訪問予定もあり、移動や食事の時間を考慮すると、紀南城訪問は一時間半ほどで切り上げざるを得なかった。まことに残念ではあるが、ふたたび訪問することを期し、マイクロバスに乗り込み、紀南城を後にした。

写真9
紀南城の石碑(南城壁)
写真10
紀南城南城壁の突出部
(東から西に向かって)
写真11
南城壁の空隙
(大門の跡)
写真12
烽火台跡
(北から南に向かって)
写真13
南城壁突出部の屈曲
(烽火台より北に向かって)
写真14
南城壁
(東から西に向かって)

(参考文献)

  • 郭徳維『楚都紀南城復原研究』文物出版社、2000年
  • 徐少華「郭店一号楚墓年代析論」『江漢考古』2005年第一期
  • 谷口満「楚国の都城」『長江文明U─諸流域の文化─』勉誠社、日中文化研究、第十号、1996年
  • 谷口満「再論楚郢都的地望問題─紀南城是否春秋時期的郢都?」『楚文化研究論集』第六集、湖北教育出版社、2005年

(渡邉英幸)

荊州博物館(9月1日午後1時40分〜4時訪問)


写真15 陳列大楼     写真16 荊州出土簡牘文字展(展示室入口)

荊州博物館は1958年に建てられ、陳列大楼・文物保管大楼・珍品館・協公楼や唐の開元年間に創建された開元観などの建築物からなり、建築総面積約三万平方メートル、展示総面積約四千平方メートル、展示文物三千余件という大規模な博物館である。

荊州博物館の歴史文物陳列展覧は、以下の七つの専題によって構成されている。
 1)江漢平原原始文化展
 2)江漢平原楚漢文化展
 3)伝世文物展
 4)荊州出土簡牘文字展
 5)荊州鳳凰山一六八号漢墓展
 6)古代漆器精品展
 7)古代絲織品展

このうち1)から4)の四室は陳列大楼(写真15)にあり、5)から7)の三室は中庭の池に面した珍品館にある。以下、簡牘資料にかかわる4)荊州出土簡牘文字展(写真16・17)、5)荊州鳳凰山一六八号漢墓展(写真18)の展示内容を報告する。

(一)荊州出土簡牘文字展

写真17 荊州出土簡牘文字展(展示風景)

この展示室で中心的な位置をしめるのが、1983年から84年にかけて出土した張家山二四七号漢墓竹簡である。「二年律令」「奏讞書」「算数書」「蓋廬」「引書」「脈書」の一部が、それぞれ名称を記したラベルを付して、四台の展示ケースのなかに展示されていた。竹簡は一簡ずつガラス板にはさんで密封した状態で並べられており、竹簡の状態や筆跡、篇綴痕などから原簡と見なされる。張家山漢簡以外では、1992年出土の高台十八号漢墓木牘(原簡)、1992年出土の周家台三十号秦墓竹簡「綫図」(原簡)、1978年出土の天星観一号楚墓竹簡(複製)の一部が展示されていた。

ここでわが国でもとくに関心の高い、張家山漢簡「二年律令」について、原簡の現状を少し詳しく報告しておこう。

「二年律令」の竹簡はガラスケースの中に十八簡が展示してあった。メモをもとに『張家山漢墓竹簡[二四七号墓]』(文物出版社、2001年)の番号と照合すると、右から、439・76・488・329・427・435・483・86・90・474・75・97・434・494・345・71・208・64の順にランダムに排列されていた。ちなみにこうした展示方式は、他の竹簡においても同様であった。 原簡を実見して感じたことは、竹簡の劣化がかなり進行していることであった。保存整理が行われてほどなく撮影されたと見なされる『張家山漢墓竹簡[二四七号墓]』の図版においても、すでに竹簡の損傷や文字の薄れが見られたわけであるが、出土から二十一年を経て、竹簡の断裂や歪曲が顕著となり、墨の脱色も進行しているように見うけられた。例えば、86・329・435・439などの竹簡には図版に見られない亀裂が生じ、329・435はそれが文字にも及んでいた。また、427には下部の「其」字と「二」字との間に新たな断裂が見られた。さらに488は図版においても墨色が薄く判読しにくい部分があったが、現状ではほとんど文字の痕跡を認めがたいほどに薄れていた。

出土・公表後における簡牘の保存管理の問題については、すでに敦煌漢簡・居延漢簡との関連から、大庭脩先生が指摘しておられる(『大英図書館蔵 敦煌漢簡』〈同朋舎、1990年〉序言・解説編「むすび」参照)。現在、陸続と発見・公表される新出土簡牘の研究に追われる状況であるが、同時に中国各地の博物館や研究所などに所蔵される大量の簡牘の保存・管理をどのように進めていくかについても、対応が急がれる課題であることをあらためて痛感した。

(二)荊州鳳凰山一六八号漢墓展

写真18 荊州鳳凰山一六八号漢墓展

 鳳凰山一六八号漢墓は1975年に発掘され、墓主である男性の湿屍体の発見が大きなな話題となったが、簡牘・文書用具・漆器など貴重な副葬品も数多く出土している。

展示品のなかの文字資料として、まず注目されるのは竹牘である。竹牘は、約23cmの輪切りにした竹を縦に割き、表側を五面に面取りして、四行に墨書されており、内容は生前の「江陵丞」から死後の「地下丞」へあてた墓主の身分証明書、いわゆる「冥土へのパスポート」と呼ばれるものである。保存状態はきわめてよく、長脚体の点画を交えた変化に富む草隷の文字の鮮明さに思わず目を見張った。なお類似の形式をもつ竹牘の例は包山楚簡にもあるが、こちらは副葬品の車馬にかかわる内容であり、両者の性格は異なっている。

その他の文字資料としては、墓主の口の中に含まれていた姓か名と見なされる「遂」字を陰刻した玉印、正面・背面に計量の不正を罰する条文、側面に「□黄律」の文字が書かれた天秤衡杆が展示されていた。

また、文字資料と密接な関係をもつ資料として、毛筆・筆套・墨(顆粒)・石硯・研墨石・無字木牘・削刀の文書用具一式の展示も注目された。文字を記した簡牘とともに、これらの文書用具を詳細に観察することができ、現在では把握し難い当時の文字書写の実態を知る上で、きわめて有意義であった。

(福田哲之)