時間とは何か?? いかにそれを捉えるか??

哲学・思想文化学専修4年    池田進一  Sept.20.2001 
〈時間〉と言う言葉を辞書でひくと以下のように書いてある。
(1)とき (ア)時刻と時刻の間の経過(イ)時刻
(2)[物理学]自然界の諸変化の過程を示す共通尺度。以前の時間の単位には、地球の一自転を24時間とする平均太陽時を用いていたが地球の自転速度は年々遅れているので現在の国際単位には、原始時計による秒が用いられている。
  我々が普通の意味であたりまえに用いている〈時間〉とはこういうことである。私がここで考えてみたいのは、このような時間の概念とはまったく別のものである。
  フランスにH・ベルクソン(1859〜1941)という哲学者がいる。フランス哲学史のなかで、ほとんどデカルト以来といってよい超メジャーな存在であり、ノーベル賞まで取っている彼であるが、その主著『時間と自由』のなかで時間概念の検討を行なっている。
  ベルクソンは二種類の時間があると考える。
  例えばアナログ時計が表すような時間は時間に等間隔の刻みをほどこしている。だが、ベルクソンは、時間に刻みなどあるのだろうかと考える。むしろ、等間隔に刻むことができるというのは空間や物質の性質、「もの」的な性格なのではないだろうか。だとすれば、時計が刻む時間とは、実は、「空間化された時間」でしかない。だから、「本来の」時間とは、そうした空間的な要素を一切排除したような純粋な時間の流れ、本来的な時間、空間化されない時間、質的な強度を持つ時間であり、それは本来「意識に直接与えられたもの」(『時間と自由』の元のタイトル)である。即ち「純粋持続」に他ならない。それは分割することも、固定することもできないものである。つまりベルクソンは時間の本来あるべき姿とは、空間とは共通点のない「純粋持続」であり、物理学的時間とは空間化された時間に過ぎない考えたのである。『時間と自由』のなかでも何度も(しかも批判的に)、「空間に投影された時間」という言葉を用いている。これはつまり、時間は質そのものであり、均等に計測されるような量ではないということである。この場合均等に計測されるような量とは「空間」のことである。
  何がいいたいかというと、ベルクソンの考えでは時間には、「空間化された時間」と「純粋な本来の時間」とがあるということである。すなわち、前者が「過去」であり、後者は「将来(未来)」である。過去とはすでに過ぎ去り、決定され固定された時間であり、分割可能であるに対して、現在から未来への時間は「流れ」として未決定の状態にある。そしてここで彼が考える時間とは、後者の時間であり、純粋な時間の時間の流れ、すなわち「純粋持続」なのである。
  さて次にこれらをどうとらえていくかということである。時間には上述したように「空間化された時間」と「純粋な本来の時間」があるといったが、ベルクソンによると、空間の本質を対象とするのが自然科学であり、時間の本質を対象とするのが哲学である。先にも書いた通り純粋持続は、分割することも、固定することもできないものである。我々はそれを分析することはできない。我々はそれを直観するのである。分析は科学の仕事であって、哲学のやるべき仕事は直観に他ならないのである。分析による方法は「自然」を静止の状態においてとらえることである。分析は概念を操作する(用いる)ことによってのみ,働かせうる。概念とは事物・現象に命名する,その結果にほかならない。観測される(見えてくる)現象や事物に「ことば」を与えることによって,自然(現象・事物)を「その動きを止めた状態で」とらえるのが,自然科学の方法である。こうして「科学」は事物と事物の関係をとらえて,それを記号(概念)によって記述する。外からの自然の認識は、現象・事物に記号を与えて、記号の間の関係を明らかにするのみである。このような方法による認識は,いくら対象の真の姿をとらえたと称してはみても,いわば対象の「影」の形を見ているにすぎない。そのとき,哲学すなわちものの本質をとらえるための形而上学が,ものの真の姿,真の実在を知るための学問として登場する。 では,そのとき哲学(形而上学)は,いかようにして真の実在をとらえようとするのか。それは分析を通してではない。ではどのように?ベルクソンは真の実在(この場合は持続)を知るのは「直観」によってのみだ,という。 私が腕を上げる。私はそれを知っている。腕を上げたその動きを外から(自然科学の目で)見て,「腕が上がった」その事実を記述することはできる。しかしそれは,あくまで"動いている"相においてではなく,分析という(動きを静止の状態においてしか記述しえない)方法によって,「概然的に」しか記述することができない。 科学が自然をとらえる仕方は,このようにことば(および記号)によって,現象を分節的に区分けし命名することを通して,「概然的に」(およそ,そのようなこととして)知ることにすぎない,とベルクソンは言う。 ベルクソンにおいて,直観こそが事実と合一する方法である。直観によってのみ事実の本質に触れることができる。存在の本質は,直観すなわち意識に直接に与えられる仕方によってのみとらえられる。
 では,直観がとらえる実在の真の姿とは何か。 自然(現象・事物)を知るための科学的認識は,変化を,事物の広がりを量的に把握するのに対し,直接に内観される(意識に直接与えられる,直観される)当のものは量的なものではなく,質的なものである。
 つまり,科学的認識は「流れる時間」を「時計」によって量的に記述する。しかし,そこで計量される時間は,実は(人によって作られた構造物である)時計の針の指し示す「空間」の位置の差を量的に記述するにとどまる。したがって,時計の指し示すものは,直接に流れる時間ではない。これは「時計に時間はない」ということでもある。流れた時間の跡付けである「時計の時間」は,真の時間ではなく「空間」にすぎない。
 このように空間的なものとまったく区別されるものが「時間」であり,ベルクソンはそれを「純粋持続」と名づける(それは「意識(純粋意識)」でもある)。  もちろんベルクソンのこの時間概念に反する考え方も存在する。以下ではその例を少し考えてみたい。
  G・バシュラール(1884〜1962)というフランス人哲学者がいる(彼個人の人生というか歴史も非常に興味深いものであるが)が、彼はベルクソンの純粋持続に意義を唱える。彼からすれば、ベルクソンが時間を「持続」として考えたことは決定的であり、同時に決定的に間違っている。なぜならバシュラールにとっての時間の本質とは、持続、すなわち流れではなく、その切断としての「瞬間」にあるからである。これはキュルケゴールが時間を永遠の断続としての瞬間におけるものとして考えたことと似通っているように思う。キュルケゴールの解釈では、そのような瞬間の何らかの連続が時間であるのではなくその瞬間が一回限りの断続的非連続であることの自覚の場こそが、真の時間ということになる。現在と永遠のこのような絶対の断絶が、瞬間であり、またこれこそが真の時間であると彼は主張するのである。
  話をバシュラールに戻そう。ベルクソンは、時間から極力空間的要素を排除して、純粋な時間を直観しようとした。だがバシュラールは、そうしてベルクソンが見出した「持続=流れ」とはまだ空間化される要素を含んでいるのではないかと考える。むしろ時間とはそうした水平に流れるのではなく、垂直に突出する「瞬間=切断」なのだとバシュラールは考える。つまりバシュラールは、ベルクソン以上に空間的要素を排除して時間を純粋化し、極限的な時間としての「瞬間」を見出すのである。フランス哲学界の巨人といっていいベルクソンは、非常に大きな影響力を持ったが、悲しいかな彼の後継者はほとんど現れなかった。むしろベルクソン以後のフランスの哲学者は、ベルクソン標的とすることから自らのの歩みを始めることとなる。その代表にして初期の者がバシュラールなのである。
  ベルクソンは哲学の仕事は直観であるという。純粋時速は純粋である以上、いかなる夾雑物も含まず、したがって直観も極めて単純なものでなければならない。彼は「哲学的直観」を論じた講演のなかでいっている(『思想と動くもの』(岩波文庫)収録)。「哲学の本質は単純の精神であります。・・・哲学するということは単純な行為なのです」。さてここに木村 敏(1931〜)という学者がいる。彼は精神病理学を専門とする医学者であるが、同時に時間や自己などについても研究する哲学者でもある。彼はこう考える。果たしてそんな純粋なものが実感できるのだろうか??ベルクソンのいう「純粋持続」なんのとっかかりもない。我々に実感できない純粋な時間というベルクソンの考えは、ある意味で徹底していながら、同時に我々に時間の実感を与えてくれないという意味では不徹底なのではないだろうか。そこで彼は考える。ベルクソンの純粋な持続とは、一種の病的な状態なのではないだろうか。
 確かにベルクソンは、時間を「もの」(物質)ではなく、「こと」(作用)として取り出したのだと言える。しかし、全く純粋な「こと」を我々は捉えることができない。それは理念ではあっても、自然な実感を与えてくれない。精神病者はむしろそうした抽象的な時間に苦しんでいるのである。むしろ、「こと」はある種の「もの」性との関わりのなかで「不純」となることが必要なのではないだろうか。という風に論理を進めていくのである。これは非常におもしろい考え方であるように思う。
  さて最後に余談になってしまうが、上述した二種の時間とは全く異なる時間もあげておきたい。それはアリゾナ州北部に住むネイティブアメリカンでホーピー族と言う部族の話である。彼らの言語体系のなかには過去・現在・未来に該当する言葉がないのだという。彼らにとっての世界は「開示されたもの」と「開示するもの」の二つの有り様しかない。過去の事象と現在の事象は区別されずに「開示されたもの」と言う言い方でひとくくりにされる。未来に起こることと、目に見えない心のなかで起こることは、未分化の状態のままで「開示する(される)もの」と呼ばれる。
  つまり彼らにとって、世界とはすでに時間を超越して「在る」もの、たとえていえばすでに「書かれてある本」のようなものなのかもしれない。世界はすでに開かれて読まれた頁とこれから開かれて読まれる頁の二種類にわかれるが、本そのものはすでにあるのである。
  
参考文献  
        『思想と動くもの』ベルクソン(著)河野与一(翻訳) 岩波書店
        『時間と自由』ベルクソン(著)平井啓之(翻訳) 白水社        
        『瞬間の直観』ガストン・バシュラール(著) 紀伊国屋書店
       『愛をひっかけるための釘』中島らも(著) 集英社文庫
参考HP
         対戦型哲学史  または  来るべき哲学史のためのプログラム  または  哲学者魂
                http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hasuda/philofight.html

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