キリスト教は没落したのか?

現代の日本は宗教性に欠けるというのは、しばしば云われる事である。正月には日本古来の神々を祀る社に参り、クリスチャンでもないのにイエス・キリストの降誕祭を祝い、結婚式には十字架の許で誓い、死ねば仏として供養される、とは聞きあきた皮肉である。最近では特に若者がというわけでもなく、無宗教者が多いのではないか。仏教や神道やキリスト教などの宗教は、多くの人にとっては信仰とかいった精神的な支えであると云うよりは、日常生活における季節の行事・文化的習慣となっている。教育の内容に関する改革が声高に唱えられる中に、宗教的精神を養う教育の必要性を訴えるものがあるが、そのような主張をする人は恐らく、現代は精神的に貧しく、それを豊かにするには宗教的な教育である、と考えているということだろう。今や、神やその類いを信じない人は多くなった。もちろん諸宗教が日々信者を獲得しているのも事実であるし、新興宗教も盛んである。しかしやはり、100年程以前までの時代とくらべて、全体的に見て宗教を信仰する人は減っている。無宗教者が多いというのは日本にだけ見られる事なのだろうか。例えばアメリカなどでは、初詣や七五三がクリスマスに紛れて同じ様に行われるということはないだろうが、それは信仰にもとづいた行事と云うよりは寧ろ文化的習慣の問題であり、単にアメリカには神道や仏教が広まらなかったから諸宗教の行事の混合が起こらなかったというだけで、そういった事を取り上げて、日本ではとりわけ信仰を持たない人が多い、と云うことはできない。人が宗教から離れてゆくのは現代では何処にでも見られる状況である様に思う。
なぜ宗教から離れてゆくのか。西洋では近代科学の発展が伝統的なキリスト教的世界観を破壊したと云われる。科学によって多くの事が明らかにされるにつれ、人々の神への依存が薄れたということである。世界が宗教的に説明されるのではなく科学的に説明されるようになって、実際的でない論理に人はもはや頼らなくなったという事である。キリスト教は現在に至るまで、西洋の文化の重要な基盤となってきたものである。単に宗教として人々のよりどころとなり、思想に影響を与えまた支配して来たばかりでなく、広く深く社会に浸透することによって、社会規範や倫理、また文学や美術という芸術にも、多くのものを与えてきた。
さて、無宗教者の多い現在において、キリスト教は滅びたのか、あるいはいまだ生き残るものがあるのか。滅びたとすればそれは何故、どの様にしてなのか。
 

2 初期のキリスト教

まずキリスト教について、それが成立した当初どのようなものであったのかを、『キリスト教概論』(浅野順一編 創文社)に見てみる。

2−1 イエス

2−1−1 イエスの終末論

世の終わりに神が諸々の悪に対して最終的な審判を行い、そしてその後、神が世界を支配する、という終末思想は、紀元前後のユダヤ教にも広まっていた。イエスの終末思想は、もちろんユダヤ教の終末思想と無関係ではないが、違った特徴がある。一つは、ユダヤ教に見られる民族主義的色彩がまったく見られないことである。ユダヤ教における神との契約は、あくまでも神と神の選民であるユダヤ民族との契約であった。だがこれは決定的な違いとは言えない。決定的な第二の違いは終末の近さである。ユダヤ教では終末は、まだある程度先の事であったのに対し、イエスには終末とその後の神の支配は、まさに直面するものであり、彼は自身を終わりのしるしと理解していた。

2−1−2イエスの律法論

契約は聖書の宗教の基本的な性格である。契約によって、神との関係はおたがいの主体的な決断と責任によるものとされた。シナイ山でモーセは契約が結ばれるとともに律法を与えられたが、この契約は、最初からヤハウェとモーゼの率いるイスラエルの民との関係が存続する条件として、倫理的な律法を含んでいた。モーセの十戒の前半の4つは宗教的な、後半の6つは倫理的な内容である。神の恩恵にもとづいて設定される契約は律法を条項として含み、両者はおたがいに対して責任を負う関係なのである。
イエスは、パリサイ派が形式的に律法の規定を守る事にあくせくとして、その結果かえって神の意志に徹底的に服従することをおこたっている点を批判した。パリサイ派は、神の意志は律法に具現されているので、神の意志は律法を通してのみ知りうると考えたのだが、イエスは、神の意志は律法の個々の規定を越えて把握されるとし、その神の意志とは愛の要求であるとした。神への愛と隣人への愛が律法の成就であり総括であると彼は説く。神の意志を条文に固定する事は不可能であると考えたのである。
 

2−2 イエスの死後

イエスの死後、弟子達ははじめは自分達をユダヤ教の一派と理解していた様である。しかし、一方でキリストの十字架と復活とを中心とする信仰が確立し、他方では教会(=信者の集団)内に異邦人の数が増えるにつれ、彼等がユダヤ教から離れて独自の宗教となってゆくのは当然の成行きであった。
イエス死後の初代教会の終末観では、しばらくは終末は時間的な意味でも近いと理解されていた。また終わりの時にイエスが再び来るという再臨の思想は恐らくイエスの死を経験した初代教会で生まれた新しい待望であろう。しかし次第に、終末が時間的に近いという期待は裏切られ、終末への期待に微妙な変化が生じる。ヘレニズムの影響の強い教団では終末はすでに起こったとされ、ヨハネ福音書では終末思想の持つ時間性は全く消され、現在における神の意志への服従に決定的重要さが与えられている。
イエスの死後エルサレムで初代キリスト教の中心となったいわゆるエルサレム教会の指導者達の律法に対する態度は、指導者達が特にユダヤ教的教養の持主であったとは見受けられないため、律法の条項を忠実に守るパリサイ人のような考え方を、もともと彼等は身に着けていなかっただろうと思われ、したがって、彼等に律法問題に関する確固とした独自の見解があったとは考えにくい。
初代教会の信仰の核心はそのキリスト信仰にある。弟子達が、地上のイエスを師と仰ぐ段階から、彼を自分達の信仰の対象、イエスが救世主キリストであると考える段階へ移行した時点に、キリスト教信仰の成立の時点を想定できるとされる。原始キリスト教はキリストの十字架の死(人々の罪をあがなう為にイエスが十字架上で死んだ事)と復活(=再臨)の信仰を中心に成立した。
 

2−3ローマ帝国時代

ローマ帝国に統一をもたらしたのはストア哲学であったといわれる。宇宙の一切は世界理性(ロゴス)に従って起こり、これに即して生きることのみが幸福に至る道であり、人種・階級・性別と云った他の一切の区別はどうでもよいことと教えるこの哲学は、広大な領土を掌握していた帝国最盛期に生きるコスモポリタンにとって極めて魅力的な思想であった。しかしその理想主義的・楽観主義的一元論は、その後の極めて悲観的な時代に生きる人々の心をもはや捕らえる事が出来なくなった。
三世紀の皇帝達は、ローマに固有な国家宗教や当時の軍人達の中に最も深く浸透していた新興宗教を、彼等皇帝自身と結びつける事によって国家の統一理念にかかげようとこころみた。その新興宗教の一つに新プラトン主義があった。これによると至高者は、「一者」としての「神性」で、この一者から神性が流出・下降する道程に諸々の宇宙・世界現象が包摂される。一者から遠く離れてこの世に生きる人間はその本質が神性である事を知り、倫理的努力ないしは宗教的恍惚によってこの世を脱し、あの一者に帰還しなければならない。多くの場合、この一者が皇帝とみなされるか、あるいは一者への帰還の道を備える「救済者」「最高神官」と皇帝をみなしたのである。このような思想体系の中においては、皇帝礼拝・皇帝崇拝を拒否しない限り、帝国内の諸々の宗教は認められていた。彼等はこの世や人間の肉体の救済ではなく、霊魂の救済を徹頭徹尾求めた。この様なギリシャ的後期プラトン的二元論の立場を最も徹底させたのが、グノーシス宗教である。
キリスト教は相対的なこの世のものが絶対化される事を、つまり一切の偶像崇拝を厳しくしりぞける一元的一神教という性質をユダヤ教からうけついだ。それゆえ、もう一つの一神教である皇帝礼拝と両立することができない。ディオクレティアヌス帝までの諸皇帝は国家をあげてキリスト教の迫害を行ったが、キリスト教が根絶される事はなく、そして逆にコンスタンティヌス帝以降はローマ帝国の統一理念をキリスト教に求めることになる。
 

2−4グノーシス的キリスト教

グノーシス的キリスト教は、ヘレニズム的キリスト教の傾向が、ギリシャ的環境によって助長された結果成立したものと思われる。グノーシス的現象の特徴は三点ある。
    1. 人間の本来の自己(霊魂)と至高者(純粋霊魂)は実体的に一つである事の認識(グノーシス)、これはプラトン的自己認識に類似する。
    2. 宇宙と人間は絶対的に相対立する二つの実体(精神と物質、霊魂と肉体)から成立する、このような絶対的・実体的二元論はそれが実体的である限りギリシャ的−プラトン的であるが、それが絶対的である限りペルシャ的−ゾロアスター的である。
    3. 人間は自力によってではなく、至高者からつかわされる啓示者・救済者によってのみ自己を認識して救済される、この啓示者の概念はユダヤ教的キリスト教的である。
以上によって、グノーシス的宗教現象をギリシャ的・ペルシャ的・ユダヤ的要素をあわせもった一つの宗教混淆現象としてみなす事ができるであろう。
 

3 19世紀の思想家にとってのキリスト教

上述の様な、およそ2000年前に成立したキリスト教は、では近代以降の思想家達にとってどの様に捉えられたのか、どの様なものになっていたのか。同様に『キリスト教概論』を、また3−2に関しては『ニーチェ入門』(竹田青嗣著 ちくま書房)を手引きとして以下に見てみる。

3−1 シュライエルマッハー、キルケゴール、リチュル

ドイツの神学者・哲学者にシュライエルマッハー(1768〜1834)がいる。彼は近代主義神学の父といわれているが、近代主義とは、科学の成果と調和的な思想形成をする自由主義のうちでも、その思想が宗教改革によるキリスト教理解から本質的に外れていないと考えるものである。シュライエルマッハーは、自分の信仰の体験を科学的に観察分析するという体験主義と言える方法をとり、近代科学の成果と対話しながら自分の信仰の本質が何処に存在するかを探っていった。
デンマークの宗教的思想家であるキルケゴール(1813〜1855)にとっての神は、まず何よりも人格的な存在であり、人間の罪を真剣に問題にし、それに対して怒りをもって自分を表現する神であった。彼にとっては、信仰は人格的な決断によって成り立つものであり、神と人間との人格的な責任関係としてキリスト教を考えている。ヘーゲル哲学がキリスト教の理解に適用される場合には、人間が自由に歴史を作り上げているのではなく歴史は法則すなわち神の意志・摂理にもとづいて展開するものとなる。当然そこではキリスト教を信じようとする人間の自由な決断はほとんど意味の無いものになってしまう。このような点から、彼はヘーゲル哲学を批判した。
また彼は、自然科学の様に観察する事にその本領があり、その観察の対象に生命を賭けなくても認識可能な真理の次元と、生命を賭けなければ認識出来ないような真理の次元とが存在する事を見抜いた。
ドイツの神学者で近代主義者であるリチュル(1822〜1889)は、イエスは神の意志に徹底的に服従して地上における自分の召命を成就し、自分の中に神との新しい関係を創始したばかりでなくイエスと交わる教会の人々にもその新しい関係を与える、そういう意味でイエスは信者にとって神の価値を持つ存在である、と解釈した。彼にとっては、宗教は人類の生存のための戦いから生まれたものであり、人間が自然の束縛から逃れるための手段であった。またリチュルにとっては、キリスト者の自由とは人間が自然の束縛から自由になり自然を倫理的に支配できる様になる事を意味した。
シュライエルマッハーに欠けているものは、人格的な聖なる意志である神の前での人間の罪人であるという実感から来る恐れとおののきであり、そう簡単に神に依存出来ないとの意識である。リチュルに欠けているものは、歴史が文化的に進歩してゆくことが同時に必ずしも倫理的な進歩ではないということの、また、人間は文化の進歩をも隣人を傷付けたり殺害したりするために用いる程の罪人であるということの認識である。この罪人の実感こそ、キルケゴール等が深く把握していたものである。

組織や慣習や宗教的信仰が歴史上の進歩・発展を経過して今日の状態になったものだという考えや自然淘汰の考えは、ダーウィンが進化論によって初めて世に問うたというものではないが、思想史においては、近代以降とりわけて進化論は、歴史が時代が経つにつれて進歩して行くという、歴史についての楽天主義となった。
聖書の物語はその物語が作られたり書き記されたりした当時の世界についての考え方が影響されているとし、聖書の物語をその時代の思想に根差したものとして理解しようとするのが高等批評である。他方、そういう理解の仕方は、キリスト教の本質をそこなうものであると考え、むしろ聖書は科学的思想と矛盾しても文字通り率直に信じられなければならないと主張するのが根本主義者(ファンダメタリスト)である。
歴史という問題は、キリスト教の世界において19世紀の後半あたりから大きな問題として取り上げられている。それは一つには、歴史が進歩するという信仰から起こって来た歴史への興味である。 

3−2 ニーチェ

現在のヨーロッパの「人間の理想」の原型を作ったのは云うまでもなくキリスト教である。キリスト教の人間観の本質は「ニヒリズム」(つまり虚無への意志)にほかならない。その理由は、キリスト教の思想がその根本に「ルサンチマン」(弱者の反感)の本性をかくしもっているからである。次にこの「ニヒリズム」の本質は、その後のヨーロッパの一切の思想つまり近代哲学や近代科学にそのまま受け継がれている。近代哲学や近代科学がこのキリスト教の致命的欠陥を自覚出来なかったからである。そして最後に、近代的な思惟がキリスト教の欠陥をそのまま受け継いだ事によって、ヨーロッパに非常に根の深い「ニヒリズム」の諸形態(無神論・懐疑主義・相対主義・デカダン等)が顕在化し始めている。
現在のニヒリスティックな諸形態は、近代哲学が主張して来た「道徳」、「認識」、「真理」といった観念が最早その権威を保てなくなった事から来ている。これら近代的な諸理念の権威失墜(=ニヒリズム)の理由は何か。それはその源流としてのキリスト教の本質から来ている。キリスト教の信仰が崩壊した為にニヒリズムが現れたのではなく、キリスト教それ自身の本質が「ニヒリズム」なのであり、現在それが顕在化しているにほかならないのである。
近代に入るやいなや、いたるところで神の死の徴候があらわになる。自然科学の新しい知見が、それ迄絶対視されていたキリスト教世界像を徐々に覆してゆく事になり、今日の哲学者、科学者、合理主義者、無神論者達は、もはや信仰を持たず厳密な「認識者」たろうとする。確かに彼等はキリスト教とその神の国の信仰に反対したが、実は彼等もまた「新しい信仰」を持っており、近代哲学や近代科学に於ける「真理への意志」(正しい認識へのあくなき追求)というものがそれである。世界像としての、また道徳としてのキリスト教は没落したが、この近代の「真理への意志」は「禁欲主義的理想」という本質をそのまま保持しているのである。
人間は苦悩から世界に意味を探し求める。そこで人々は世界の目的や真理というものを見出し、その確実性を誠実に、キリスト教によってつちかわれた誠実さを持って、追求してきた。そしてこの真理への飽くなき誠実が、ついには世界はその背後に何も持ってはいないということの発見にまで行き着くことになるのである。 このようにして現れたニヒリズムを、これまでキリスト教を基盤に作り上げられてきた一切の価値を転倒させることによって、ニーチェは克服してゆこうと考えた。 
 

自分の力のおよばないものに対して、人は畏怖を覚える。そういう時に、自分達人間を越えたところに居る何か凄いものに、人間の力の及ばないものに対しても力を発揮出来る何か凄いものに対して祈る。宗教というのものは大体がそのようにして発生したのではないかと思う。さてしかし現代では、そのような神に祈ったりするまでもなく人間の力をあてに出来る事が大いに増えた。それは人間の進歩の成果である。
キリスト教は没落したのか。確かに今日の人々は神をそれほど信じていない。どうしようもなく困った時に神様仏様と祈ったりする事はあっても、それも大して真摯で切実な祈りとは言えない。神の存在というものが信じ難いのである。キリスト教や宗教に限らず、何か超越的なもの、絶対的なもの、普遍的なものを我々の思考は想定し、その様な想定は人間のあたりまえの思考方法であるのだろう。仮構能力を人間はいたるところで発揮している。
超越的なもの、絶対的なもの、普遍的なものを信じられなくなったのは、人間にとって哀しむべきことなのだろうか、精神が貧しくなったということなのだろうか。そのようなものを想定し追求するのは、あまりに現実のものを軽視している様に思われる。精神と身体を別物の様に云うのも、これと同じく実際のものの軽視だろう。このような二元論的なものの考え方は当り前のように口にされている。知性あるいは心・感情が人類を他の生物から特別なものにしている、といった事が云われ、精神的なものに重きが置かれ、より価値があると、人々は思いがちではないだろうか。それは精神が豊かであると云うよりは、身体を見過ごした、偏狭な考え方であると思われてならない。

想像の翼を広げる事によって、両腕を振り回しても辿り着けない自在の天空へまで飛んで行ってしまったために、そこへ行けない肉体を不自由なものと、牢獄とさえ、人は思うようになる。現状を不自由だとか不幸だとかネガティヴにとらえる事は、より良い状態を想像する事によって比較的たやすく、陥りやすい。より良い状況を想像出来る事は、向上心につながるが、他方で現状の否定にもなる。 叶わない希求について、それが本来叶うものであったのに叶わなくなってしまったものと考える。強い希求がそれを叶うべきもの・叶うはずのものと考えてしまったのである。「叶って欲しい」と「叶うべきである」との混同、「こうなりたい」と「こうあるべきである」そして更には「本来こうであった」との混同・転化は様々な局面でしばしば起こる。
より良いものを求める傾向が人間にはあるのだろう。もっとも、良いものをと言っても、人間の求めるものにこそ良いという形容が与えられるのだろうが。そのように何か求めるものがありそれを実現しようとするが、何もかもが叶うわけではなく、苦しい状況から逃れようと努力しても改善されない、その時にはそれが何故かと考える。一体何の所為なのかと考える。そしてここに、罪とそれに対する罰の考えが適用され、自分の今のこれほど苦しい状況は、罰であるとするに至る。自分は何か罪を犯したために、今この様な罰を受け苦境にあるのだ、と考えるのである。一体どのような罪を犯したのか、そう考えた時、自分が直接犯したものではなく自分達の父祖の犯した罪、最初の人類の犯した罪、原罪というものに人々は思い至ったのである。
自分達が罪人であるという意識は何処から来たものなのか。原罪という考えは何処から来たのか。苦しい現状の説明として、この苦しさを妥当なものとするには、この苦しさを何か罪の報いと考えなければならなかったのである。
何か罪とされるものがあるなら、その補集合として罪ではないものがある(少なくとも想定はされている)はずである。罪というレッテルを貼る事によって、また犯罪抑制装置としての刑罰の様に、罰を設ける事によってその行為を避けさせようとするのであるから、それをしないで存在し得る事が考えられているはずである。人間は堕罪したと言う事の背後には、人間が本来は罪の無いものであったという考えがある。しかも蛇に唆されたとするあたりに、いかにも外からの働きかけで罪を犯したのであり、そのような行為に及んだのは本来的な性質によるのではないという、責任転嫁の様なものが見える。
ニーチェはキリスト教を不毛なものと言った。それは一つには、キリスト教が決して実現しないものを理想として掲げているからではないのか。実際に見て・経験して知ったのではなく推論の展開によって見付けたものを理想にしているのである。理想を持つのは悪い事ではない。推論の展開も無価値ではない。だがそれによって、実際にあるもの・現実のものの重さや意味を希薄にするのは危険ではないだろうか。
さて、現在、世界中でキリスト教は尚、廃れきってはいないが、いずれ人々がキリスト教の不毛さに気付き信徒は絶滅し、キリスト教は歴史にのみ残る過去のものになってしまうのだろうか。キリスト教がこれほどまでに、人々を惹き付けて来たのは何の故にであったのだろう。強力な神の理想だろうか、超越的存在への経験的あるいは論理的確信だろうか、それとも、人々はそんなにも現世で苦しみ過ぎ、現世での幸福よりは寧ろ来世での幸福を求める程に弱りきってしまうのだろうか。あるいはもしかしたら、キリスト教的理想が人々の目にはこのうえなく美しいものとして映ったからかも知れない。キリスト教の構造とその功罪、キリスト教が人類にもたらしたものについて考えてみるのは重要なことである。


参考文献
『キリスト教概論』 浅野順一編 創文社
『ニーチェ入門』 竹田青嗣 ちくま書房

関連サイト紹介
歴史の哲学 :歴史主義についての論説。
ドイツ哲学・思想上智大学 ドイツ語学科のページ。 ドイツ哲学史の概観。
哲学の劇場 :哲学的書物の書評、哲学史、現象学について。
アリアドネ :人文科学全般のリンク集。 哲学・現代思想
The Howard and Edna Hong Kierkegaard Library :キルケゴールについての資料を収集・保管している図書館。(英語)
日本語でアクセスする(日独英語)ニーチェ・リソース青森中央学院大学哲学講師の鈴木克成氏の作成。

H13.09.25作成/哲学・思想文化学専修3年(H11入学)/生島弘子