2001年 哲学思想文化学専修4年生
井上香奈
私たち人間はもちろんのこと、あらゆる動物は「顔」を所有する。 目、鼻、口、耳といった生きる上で重要な役割を持つ器官が集中する 「顔」は、同時に人間にとっては多数の人々を識別する際の看板的部分となると言えよう。 しかし、「顔」の役割はそれだけにはとどまらないらしい。デカルト主義者アランが『幸福論』 において「微笑というものは、あくび同様身体の深い下の方まで降ってゆき、 次々と喉や肺臓と心臓をゆったりさせるものなのである。医者の薬箱のなかにだって、 こんなにはやく、こんなにうまいぐあいにきく薬はあるまい。一たび微笑がおこると、 肺臓と心臓をゆったりとさせる緊張緩和作用が生じて、 そのために想像力の束縛の苦しみから人間は解放されるのである」 と述べるのがまんざら嘘でないならば、 「顔」というものが起こす表情筋運動が臓器や精神にも 影響を与えうるということが考えられるのである。重要な感覚器官の集中地帯としての「顔」、 その人の人となりを表わし他人との境界線を引く「顔」、そして運動次第で所有する人の体調、 精神状態まで変えてしまう「顔」。以下その重要な部分を失ってしまった人物の独白を辿りながら、 さらに自分の「顔」を持つことについての思索を深めて行きたいと思う。
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阿部公房著『他人の顔』 (新潮文庫)
簡単な内容説明
液体空気の爆発のせいで顔一面に蛭のようなケロイド瘢痕を持つ男がプラスチック製の仮面を作る。 その報告がノート全三冊に記されている。 |
注:仮面完成前は顔に包帯を巻いている。 従って素顔は最初の段階から他人に対して隠された状態にある。
T.≪黒いノート≫
「顔」の選択
いざ好みの顔をとなるとなかなか決めきれず、 結局アンリ・ブランが『顔』において分類した4パターンの中から選択。 その結果美醜という視的要素よりも、性格的特徴で顔を選ぶことになる。 この人物が交換したいのは顔なのか?精神なのか?? それとも両方取り替えて完全に自分を消したいのか???
「一説によれば、《仮面》は単なる補填物であるという以上に、 自分を超越した何かに変身したいという、 すこぶる形而上学的な願望の表現なのだそうである。」
<アンリ・ブランの分類法>
注:もちろん全ての顔がこの4パターンだけにしぼられるという訳ではない。
→結局(三)に決定。
疑問点:顔と精神は本当に一定の相関性を持つのか?
(A1)例えば肖像画は本当にその人の内面性を正確に表わすのか?
(A2)顔という記号がなくては他人との通路は作れないのか?
(B1)声、文字でコミュニケーションを図るだけではダメなのか?
(B2)U.≪白いノート≫
仮面の完成、着用(覆面=包帯との交換)、調和への試み
装着している顔の持ち主であるために「外向的非調和型」になろうとする。
「顔に仮面をかぶった以上は、心にだって、それにふさわしい、 計算しつくされた仮面が必要なのである。」
疑問点:仮面を被った自分は素顔の自分でないと言い切れるだろうか?
(C1 )仮面を被った自分も隠されていた内面性の現われではないだろうか?
(C
2)では一体どこまでが本当の自分でどこまでが偽りの自分と言えるのか?
(C3 )V.≪灰色のノート≫
仮面と素顔の分離、葛藤
素顔を隠すことによって得られる「匿名性」から本人の意思に反して非道徳的行為に走ろうとする。
「どんなに無害な人間の中にだって、仮面に反応できるくらいの犯罪者は、 必ずひそんでいるはずである。」
疑問点:素顔を隠すという点では仮面と同じであるにも関わらず、 なぜ包帯では「匿名性」は得られなかったのか?
(D)≪考察≫
外的世界
仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面
}@ 第一の仮面(プラスチックの仮面)表情化粧覆面アルコール
etc. 表情化粧覆面アルコール etc. } A 第二の仮面(包帯)皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ
}B 素顔(蛭の巣食った顔)内的世界
**********
・・・外的世界(他人)への裏切り
・・・内的世界に限りなく近い層
**********
では、いよいよA〜D群の疑問点に取り組んで行く。 いずれも簡単に解決できる問題ではないので、@仮面、A覆面、B素顔の中から 二つずつをそれぞれ比較することによって、より多様な視点から考察を試みることにする。
仮面
VS 覆面 覆面VS覆面他人の覆面他人の覆面他人の覆面 他人の覆面他人の覆面他人の覆面
↑ ↑ ↑ ↑ ↑↓↑↓↑↓↑
自分の 仮面自分の仮面自分の仮面 自分の覆面 自分の覆面自分の覆面
≪視線の一方通行≫ ≪視線の相互作用≫
注:矢印は視線の方向を示している。また他人は覆面(表情、化粧)を付けているものとする。
@、Aの説明から分かるように、@の仮面は他人を騙すことによって、 自分の素顔を隠しながら相手の顔を見ることができる。その結果、装着側に密かな 「視線の一方通行」が生じる。それに対し、素顔と違う顔を付けていることが公然の事実となる Aの覆面の場合には、自分を完全に隠してしまうことには至らず、やはり自分と同じく表情や化粧と いった覆面を付けた他人と同じ立場から視線を交し合うことになる。
そこで、素顔を隠すという点では仮面と同じであるにも関わらず。 なぜ包帯では「匿名性」は得られなかったのか?
(D) という疑問点。以上の事柄を考慮すると、装着していることが一目瞭然であるという特徴から、 包帯は覆面の部類に入ることが分かる。だが、普通一般に使用される覆面と少し違うのは、 見ている相手にかなりの違和感を感じさせるということである。そのような不気味な覆面を常日頃装着し、 他人の驚愕の視線を浴びつづけていた作中の人物にとって、不細工な包帯の覆面もまた自分自身の 「準・素顔」だったのであり、従って「匿名性」を得るには程遠かったのだと考えられる。それに比べ、 立派に人間の顔として成立し、さらに原型とは大きく異なる顔を持つ仮面は、装着者に「匿名性」を与え、 やがて犯罪への願望を抱かせるに至ったのだと言えよう。
§
2. @第一の仮面/B素顔外的世界
------
キリトリ -------- 仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面 ------キリトリ --------切断↑ ↑ ↑ ↑ 内的世界
皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ
@の説明で示したように、仮面を装着することは外的世界 (他人)へのかなり怠慢且つ卑怯な裏切り行為である。なぜなら自分の素顔を完全に隠すこと (しかも内密に)は外的世界とのコミュニケーションの拒否であり、さらには他人への一方的な視線の 暴力となるからだ。普段私たちが何らかの形で被っている覆面には、 本来の顔を完全に隠すほどの機能がないので、多少なりとも外部に素顔をさらけ出す必要がある。 それだけに、内的自己を外的世界に上手く調和させる努力をしなくてはならないのだ。 しかし、仮面を被った場合はどうであろう?外部との調和を考慮に入れる必要がなくなった結果、 内的自己が野放しの状態になるとは言えないだろうか?
此処で仮面を被った自分は素顔の自分でないと言い切れるだろうか?
(C1)仮面を被った自分も隠されていた内面性の現われではないだろうか?
(C2 ) という疑問。
三島由紀夫の小説に『仮面の告白』という作品がある。 主人公は仮面を被ることによって「匿名性」を獲得し、自らの性癖について赤裸々に告白する。 独白を読んで行くうちに、仮面には顔を隠すという以外に、 本人の社会的立場を隠匿する役目も果たすのだということが分かる。 彼が社会でタブー視されている同性愛を公に公表できたのも、 仮面の持つそういった機能のおかげだと言えよう。よって彼にとって、 仮面を被った顔の方が、むしろ真なる素顔(=内面性)に近いと言う方が相応しいことになる。 さて此処で問題にされているケロイド瘢痕を持つ人物、 実は彼も仮面から同様の効果を得ていると言えよう。 つまり、仮面で自分の顔や社会的立場を隠すことで、 普段は内面にある自己を躊躇なく表に出すことができるのだ。 従って、仮面の人格を演じようとめかしこんだり、痴漢行為を意志したりというのも、 普段抑圧されていた内的自己の願望の現われだと言える。
では一体どこまでが本当の自分でどこまでが偽りの自分と言えるのか?
(C3)以上の通り、他人の顔を被った時でも、決して「偽りの自分」にはならず、 それはそれで隠れていた「本当の自分」だと言うことができれば、 はっきりとした境界線を引くことは難しい。だが、そもそも「偽りの自分」とはどんな自分なのだろうか。 仮面あるいは覆面と言った虚飾に合わせて無理やり内的自己を変えんとする努力の状態を示すのだろうか。 しかし仮面とは言え、装着しているのは、「本当の自分」の意志で選んだものであり、 それらを装着しているという時点で、多少なりとも 「本当の自分」の意志が現われていることは否定できないのではないか。 また、仮面を被った時点で、内的世界と外的世界との接点を自ら断ち切っているわけだから、 わざわざ装着後に自己を消し、仮面の顔を演じるというのは無意味である。 演技は外的世界での役割を意識した上でなされるものであるから。
§
3. A第二の仮面/B素顔外的世界
覆面覆面覆面覆面覆面覆面覆面覆面覆面 →二つの世界の中和
皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ皮フ 内的世界
では最後に、 私たちにとって最も身近な問題の考察。 覆面は内的世界を外的世界に調和させる目的で装着されるのである。 その点で仮面とは違い、多少は内的自己を抑制する必要がある。 もしかするとそういった目的を果たそうとする意志から、 仮面よりもいわゆる「偽りの自分」が出てしまう可能性が圧倒的に高いかもしれない。
顔と精神は本当に一定の相関性を持つのか? (A1)
覆面の施された顔は、仮面以上に内面性を隠匿しうるので、 少なくとも外的世界に示される顔は、精神との一定の相関性を持つとは言い難い。 「顔はその人の心を映す」と言われる一方で、「人を顔で判断してはいけない」と言われる様に、 顔は
TPO によって覆面を交換するという小器用な性質を持つ。従って外部との調和を目指す顔は、 外部に存在する社会の数と同じくらい様々な様相を示すのである。そういう意味で覆面は、 外的世界の方により近い層だと考えられるのだ。例えば肖像画は本当にその人の内面性を正確に表わすのか?
(A2 )しかし、 生きた顔と精神との一定の相関性は断言できないものの、 本人の内面性をある程度把握した上で描かれる肖像画は、また性質が異なると言える。 世界で最も有名な肖像画「モナ・リザ」 の作者レオナルド・ダ・ヴィンチはモデルの内面性を最も的確に表わすことのできる表情として、 「微笑」を選んだのだと言われる。つまり微笑は 「モナ・リザ」のモデルの最も素顔に近い覆面であるのだ。そういうことを考えると、 肖像画から感じられるモデルの内面性は、少なくとも生きた顔より信頼できると考えられる。
顔という記号がなくては他人との通路は作れないのか?
(B1)声、文字でコミュニケーションを図るだけではダメなのか?
(B2)阿部公房氏は『砂漠の思想』の中で 「顔は人間の内と外とをむすぶ表玄関である」と述べている。 つまり、彼にとって「顔」とは、内的世界の自分と外的世界の他人、 人間と人間をつなぐものなのである。また、彼はさらに 「文章は認識の内と外とをむすぶ表玄関である」とも述べている。 つまり、言葉の持つ記号化という機能は、内的世界の認識と外的世界の認識との比較、 合成を可能にするものである。
これらのことから分かるのは、顔に比べて言葉は、 コミュニケーションにおいて、あくまで二次的なものにすぎないということである。 なぜなら一旦思考を通ってから相手に伝えられるという点で、 表情同士ほどの新鮮な生きた交換ができるとは言い難いからだ。 確かに反射的に発せられる言葉だってあるし、逆に思考された上で意図的に作られる表情もある。 だが、互いに途絶えることなく交換される表情には、常に素顔の露出の可能性をはらんでおり、 言葉よりも内面的な部分の交流ができる可能性が高いだろう。
電話や文通、 また今日盛んに行われているメールによる他人との接触も確かに立派なコミュニケーションと言える。 だが、いずれも片方が言葉を伝えている際にもう一方は完全な受け手となってしまう点で、 常に一方通行の交流しか成立しえない。さらに、手紙やメールといった場合は、返答の作成、 伝達までにかなりの思考時間が許されるので、「偽りの自分」を演じることが可能となる。 文通相手やメル友に実際会ってみて、文面のイメージとその人の人格とがかけ離れている場合が多いと 言われるのはそのせいである。これが人間同士の生きた交流と言えるだろうか?
以上の事柄から言葉のみによるコミュニケーションには限界があることが分かる。 それは思考内容を記号化することによってなされ、さらに相手の応答を待つ際に、 数知れない交流の中断を余儀なくされるのである。それに対し、顔の表情は、 こちらが伝え手である時も、受け手である時も、さらにはお互い何も伝えようとしてない時でさえも、 常に休みなく交換される。しかもそれは言葉と違い、思考せずに行うことができるのである。
では最後に仮面に関する中村雄二郎氏の記述でこの考察を終わりにしたいと思う。
「仮面=ペルソナ
* とまったく無関係な真実の顔などというものがいったいあるだろうか。真実の顔とは、 それをとおして人間同士が内面的に響き合い、 心を触れ合うことができるような豊かな多義性をもった顔である以上、 そこにはすでに、積極的な意味での多くの仮面=表情が含まれているのである。 豊かな表情の喪失ということは、決して表面的な問題にとどまるものではない」。*
注:ペルソナとは劇的行動者の仮面を示し、 さらにここでは現実の人間社会において自らの役割行動を果たす仮面をも意味する。従って、 ここでの「仮面」は、社会という外的世界へ向けられたものであり、 私たちが「覆面」と呼ぶものにほぼ等しいと考えてよい。これまで匿名性を持つ「仮面」、外的世界に調和するための「覆面」、内的世界に近い「素顔」、 といった顔の三層について考察してきた。それらを区別する際に注目すべき点とは、 それぞれが位置する外的世界と内的世界との距離だったと言える。 しかし、「本当の自分」と「偽りの自分」との明確な境界線を引くことができないように、 三層の内の「素顔」と「覆面」間に関しては、はっきり境界を設けることが難しいのではなかろうか。 実際肖像画の問題のところで、私たちは「モナ・リザ」 の持つ微笑(=覆面)と「素顔」との境界を引けないことを実感したはずである。 すなわち、「覆面」と「素顔」は表裏一体の関係であり、だからこそ声や文字と 違って他人との生きた交流が、中村氏の言葉では「人間同士が内面的に響き合い、 心を触れ合うこと」ができるのである。
で
は他方、素顔を人工物質で包み隠してしまう 「プラスチックの仮面」の方はどうかと言うと、まさしく 「豊かな表情の喪失」を招きかねないものである。 それを装着した主人公はこの先どうなってしまうのか・・・それは敢えて告げないでおくことにしよう。完
【参考文献一覧表】
「テクスト」
阿部公房『他人の顔』新潮文庫、
2000年。「参考文献」
阿部公房『他人の顔』新潮文庫
, 2000年。アラン『幸福論』宗左近訳、現代教養文庫、
1988年。阿部公房『砂漠の思想』講談社文芸文庫、
1997年。中村雄二郎『魔女ランダ考』岩波書店(同時代ライブラリー)、
1997年。