あなたには美しいものを見て思索に耽った経験があるでしょうか。古代より人々は様々な見方で「美」を捉えてきました。また、多くの哲学者が「美」について言及しています。ここでは、歴史を追ってどのように「美」が考えられてきたのかを概観してみようと思います。
今日では"art"という言葉は「芸術」をあらわしますが、本来は「技術」をあらわすものでありました。古代ギリシャにおいても「テクネー」とよばれる様々な技術がありました。「医術」や「弁論術」などもこれに含まれ、また「芸術」も「自然模倣の技術」として「テクネー」の中の一つに数えられていました。つまり、我々の周りの自然を「あるがままに」「本物そっくりに」表現することを目指す技術だと考えられていました。
哲学者のアリストテレスは、この自然模倣は人間の本能であって、たとえ醜いものであっても、それが真に迫って表現されたならば、人々を感動させることができると語っています。(1 - p.8)そうした芸術家の神技ともいえる迫真の表現については、ゼウクシスとパラシオスの絵画の話や彫刻家ピュグマリオンの伝説等々、また日本においても同様の話がいくつも存在しています。
さて、古代ギリシャの「美」を語る上で一人、重要な人物がいます。イデア論を唱えたプラトンがその人物です。 彼にとっての「美」とはなんであったのでしょうか。
『饗宴』で、プラトンは、美のイデアについて印象的に述べている。(中略)すなわち、エロースこそ美しいものへの愛である。美しいものへの愛は、美しい恋人への愛ではじまり、それから、あらゆる肉体的形姿の美しさに、さらに、魂の美しさに高まり、そして、最後には美それ自体というイデアを見る。(2 - p.???)つまり、美(のイデア)は、人間が求める究極の理想と一つのものであるという考えなのです。プラトンは、『パイドン』に至って、イデア論上の基本的な区別を得ることになります。
すなわち、一方に美のイデア、他方に美しいものがある。美のイデアは単一であり、永遠であり、不滅である。美しいものは多数あり、移ろいやすく、感覚的事物である。(2 - p.???)この、プラトンの言う絶対無二の「美(のイデア)」を感覚的対象(見たり聴いたりする対象)の中に見出した時、我々はそれを「美しいもの」だと思うのである。
一般に中世においては、芸術は死んでいたとされています。
[「ルネッサンス」の語源である]「リナシタ」という言葉を最初に唱えたヴァザーリによれば、古代において美術はすでに最高の段階に到達していたのだとされています。ところがこれに対して中世は、古代世界に侵入してその優れた文化を根こそぎ破壊した野蛮なゴート族の粗野な趣味が雑草のようにはびこった、堕落した芸術の時代だとみなされたのです。(1 - p.11)中世の芸術が再評価されるのは18世紀後半になってからです。
歴史の教科書などでは「近代」の始まりを、(中略)ルネサンスからと見るのが一般的なようです。ですがすでに触れたように、ヴァザーリによって説かれたリナシタという考えには、先行する中世に対しては、自分たちが生きる優位性が述べられていますが、その手本とした古代までを超え出ていくという意識は認められません。ルネサンスは基本的に古代精神の再生と復興を目指したにとどまっていたと言っていいでしょう。(1 - p.18)1687年に始まった「古代人近代人優劣比較論争」、いわゆる「新旧論争」を経てようやく、芸術における近代性の自覚、つまり古代に対する近代の独自性が自覚されるようになりました。そして、この「新旧論争」はそのまま、近代派と古典派の対立の図式を生み出しました。
ここでの古代派、あるいは古典主義者の主張は、古代を絶対の規範としたルネサンス以[ママ]の伝統を受け継ぐものです。ルネサンスの古典主義の理論は、なおそれ自体としては実用的で実践的な傾向を示すものであり、(中略)。古典主義の芸術観が芸術論なり美学としての形を整えてくるのが、この十七世紀のフランスのアカデミーにおいてです。そしてその理論的な基盤となったのが、デカルトをその始まりとする近代の合理主義の哲学でした。(1 - p.19)
デカルトが『方法序説』で説いた「わたしは考える。ゆえにわたしは存在する(cogito ergo sum)」という命題を知らない人はないでしょう。この「コギト(考えるわたし)」という、もはや何人とも疑いえない究極の真実に立ってデカルトは、世界を合理的に再構築しようと試みました。これによって近代の科学や芸術は、中世以来の宗教的な呪縛や迷妄から解き放たれることとなったのです(1 - p.19)
デカルトの合理主義の精神は、何よりも明晰で判明な観念を重視します。その体系からは、理屈に合わない曖昧なものは全て退けられます。例えば人間の想像力や感情が生み出すものは、デカルトが尊重する理性の立場からするならば、気まぐれな低級な精神がもたらす不明晰な表象に過ぎないと見なされます。想像力や感情が否定されるところに、果たして芸術が成立することができるのでしょうか。そこで人々の間で言われはじめたのが、もはや理屈や言葉では説明することのできない、芸術における「いわく言い難いもの le je-ne-sais-quoi 」の存在でした。(中略)
つまり「いわく言い難いもの」とは「非合理的」なものです。ですが非合理と不合理を混同してはなりません。非合理とは理屈で説明できないものであり、不合理とは理屈に合わないもののことです。フランスの合理主義はその立場を徹底するために、不合理も非合理もこれをひとまとめにして放り出してしまったような気がします。(1 - pp.20-21)
この「いわく言い難いもの」に最初に注目したフランスの哲学者が、「人間は考える葦である」という言葉で有名な『パンセ』を残したパスカルだといいます。パスカルはまた、流体の圧力伝播に関わる「パスカルの法則」を発見した自然科学者であり、またすぐれた数学者でもありました。その合理主義精神で貫かれたパスカルが理屈では説明できないものとして挙げているのが、神への信仰の問題でした。(1 - p.21)
フランスの哲学、そして美学あるいは芸術論を特質づけているのは、何よりも合理主義の精神であることには間違いありません。しかしそうしたデカルト以来の合理主義の伝統の中で、一度は退けられた非合理的なもの、「いわく言い難いもの」が改めてその意味が問い直され、拾い上げられてくるところに、その後のフランスの、そして近代の美学の展開を跡付けることができるように思われます。(同上)
「哲学の世紀」と呼ばれた十七世紀の哲学思想には、大きく分けて二つの潮流があったと言うことができます。そのひとつが大陸の合理主義の哲学の流れであり、もうひとつがドーヴァー海峡を挟んで大陸と向かい合うイギリスで展開した経験主義の哲学の流れです。(中略)ヒュームによって代表されるイギリスの経験論の哲学は、目で見ることのできる、手で触れることのできる事実、つまり経験を重視します。(中略)デカルトが万人に共通する「考えるわたし」から議論を始めたとすれば、イギリスの経験論美学は「感動するわたし」という個々の体験の分析から始まります。美しいものや芸術に寄せる感動は「趣味」体験と呼ばれました。(1 - pp.21-22)
[英語で「There is no accounting for tastes. (趣味について説明することはできない)」という諺がありますが、]この「趣味について説明することはできない」という諺を、カントは『判断力批判』の「趣味の弁証法」という箇所で、次のように言い換えています。「(美的)趣味については論争することは出来ないが、これを争うことは出来る」と。説明することが出来ない、あるいは論争することが出来ないという事は、言葉で言い表すことが出来ないということ、つまり趣味というものは「いわく言い難い」ものだと言うことです。(1 - p.22)
参考文献等 |
1) 神林恒道 大阪大学文学部講義「美学概論」講義メモ 2000年 2) 久野昭 訳 「プラトン」 1972-04-20第1版第1刷 東京; 理想社 |