自由とはなにか

1.自由の意味
 
 「自由」、それは非常に魅力的な響きをもつ言葉だ。私たちはたびたびある種の憧れと期待に満ちた声色で発音する。「自由」の二文字は街中のいたるところに氾濫し、私たちの目に触れない日はないといってもいいほどだ。しかし、「自由」とは実際のところなんなのかということになると、それに解答を与えることはかなり困難であるだろう。それがいったいどういうことを意味するのか、あるいは自分は自由であるといえるのか、そんな疑問を抱いた経験があなたにはないだろうか。
 もし仮に、「私は自由です」などと唐突に他人から打ち明けられたなら、あなたはきっと面喰ってしまうだろう。それは当たり前のことである。「私は自由です」、これだけでは彼がいったいどういう意味で自由であるといえるのか、それは普通相手には理解できない。彼が打ち明けている内容は、実は驚くほどわずかでしかないのである。「私は空腹です」という文ならば、おそらく唯一の意味を持ち、あなたにもその意味がよく理解できるだろう。それに対して「私は自由です」は様々な解釈を可能にし、相手を混乱させてしまう。「自由」とは私たちによく知られているようでいて、実にあいまいな言葉なのである。
 一般的に、「自由」という言葉の持つ概念は消極的なものであるといえる。つまり、なにかが「ある」ということではなくて、なにかが「ない」ことをいい表しているのである。たとえば力学で自由落下といえば、これは物体が落ちるとき引力以外のどんな力も加わらないことであり、落下に際して外からの障害がなにもないことを意味している。同じように人間の行動に関しても、一般的には、自由であるということは外的な障害や拘束、強制などの条件がないことであり、「・・・からの自由」という言葉で表すことができる。だから「なにから」自由なのかということによって、それぞれの場合に用いられる「自由」という言葉の意味がはっきり決まることになる。人間は様々な自然的あるいは社会的な条件のもとで生活しているから、そうした条件のすべてから自由であることはできない。だから絶対的な自由ということはありえない。それで人間に関して「自由」ということがいわれる場合、なにか特定の条件から自由であるかないかということが問題になるわけである。そのため条件しだいで人間の自由には様々な意味があることになるのであり、「自由」という言葉の使用は常に相対的なものであるのだ。

2.意志の自由という問題
 
 私たちは社会の一員として、自分自身の判断に基づいて自由に行動できる主体であるとされている。そうでなければ個人の主体性や責任というものが失われてしまう。しかし他方で私たちは普段よく、思い通りにゆかない、不自由だということを口にする。人生はままならぬばかりでなく、ほんのちょっとした習慣を変えることすら容易ではない。また私たちの欲求や感情は、そのほとんどが自分で自由に生じさせうるものではなくて、なんらかの外からの要因によって与えられるものであり、自分でも不可解な欲求や感情に苦しめられることさえある。
 私たちには純粋に自由な意志や判断などというものが本当にあるのだろうか。たとえば囚人が様々な障害をもろともせずに脱獄に成功するとすれば、その行為は外的な条件から逃れているという意味で自由であるといえるだろう。しかしここで問題としたい自由は、脱獄を決意するかそれとも別の道を選ぶかという自由、つまり善をも悪をもなしうる自由である。そのような自由が認められなければ、そもそも善悪というものは存在しえないだろう。しかしよく考えてみると、私たちの行為は私たちの性格が決定しているともいえ、またその性格が両親から受け継いだ遺伝的素質や育った環境の作用によって決定されているのだとすれば、私たちが自由な意志で行為を選択したつもりでいても、果たしてそれを本当に自由であるといえるのだろうかという疑問も生じる。
 人間の行動または意志に実際に自由が存在するかどうかというこの問題は、古来の大きな哲学の問題のひとつである。これは、人間の意志は原因・結果の必然的な系列に縛られている(決定論)のか、それとも自分から原因・結果の系列をはじめることができるのかという問題であるといい表すことができる。

3.問題の発生と決定論

 自由意志の問題が思想の中心的な課題として現れたのは、中世キリスト教神学においてのことであり、それは「神の予知」と「人間の自由」の両立可能性という問題として定式化された。すなわち、一方で創造神の摂理(絶対的な神の意志)という観念を受け入れ、神の全知と全能を前提とするならば、人間の自由意志の存在は否定されざるをえないように思われる。しかし他方では、人間に自由意志が欠けているとすれば、悪というものの存在に関して人間は単にその機縁をなすにすぎず、その真の起源は神自身のうちにあるとされねばならないだろう。しかし単に神が悪の存在を許容するだけでなく自らそれを生み出したとするような信仰箇条を受け入れることは、明らかに全知全能への信仰に反する。ここにおいて、悪に対する人間の責任をどう基礎づけるか、自由意志という概念を神の全知全能とどう両立させるかということが、アウグスティヌス(354〜430)ら当時のキリスト教神学者たちの緊急の課題となったのである。
 この問題は近世においても受け継がれ、さらにはやがて世界の決定性をもたらすものが神の摂理から自然必然性の概念へと移行せられて、まったく同じ問題構造をもって問われることになる。ここで神学における予定説の代役を果たすのが決定論と呼ばれる理論である。
 一口に決定論といっても様々あるが、それは簡単にいってしまうと、宇宙において生ずるあらゆる事柄は、人間の行為や意志決定を含め、原理的に予言可能である(すなわち因果性によって決定されている)とする説である。このような説は多くが機械論的自然観(精神と物体の二元論を受け入れ、自然を機械的なものとみなす科学的な自然観)に基づく経験論の立場によるもので、自然界のあらゆる事象が自然法則という必然に従うように、人間も必然性(因果性)の頚木から逃れうるものではないと考えるのである(ホッブズ 1588〜1679 がその代表)。

4.決定論と自由

 私たちは道徳的な責任の根底に「他行為可能性」とでもいうべきものを置いている。つまり人がある行為を行ったときに、その人はそれとは「別の行為を行うこともできた」という意味での自由を有することが、行為の責任を問いうる根拠であると考えられている。もしも世界の経過がすべてなんらかの仕方であらかじめ決定されているのであれば、私たち人間も世界のうちに存在している限り、最終的に自分自身の身体を支配することができず、いかなる人間の行為に対してもその責任を問うことが不可能になるように思われる。しかし私たちが自分のいかなる行為に対しても責任を負う必要がなく、また他人のいかなる行為に対しても責任を問うことができないというような思想は、到底受け入れられるものではない。それでここに決定論と自由の両立可能性という問題が生じたのである。
 『リヴァイアサン』の著者、ホッブズは機械論的・決定論的世界観に基づいて「意志の自由」という概念を退ける。彼が認めるのは意志と行為との間における「外的障害の欠如」としての自由の概念である。ホッブズにとっては、人間の行為において「必然性」と「自由」とは次のような意味において、すなわち、ある行為が生じたとき、その行為の原因は「直前の欲望」である意志であり、この意志はまた他の原因によって引き起こされ、このようにして原因の系列は第一原因たる神にまでさかのぼることができるが、しかし行為が意志された通りの行為である限りにおいては、それは自由になされた行為と呼びうる、という意味で両立可能とされるのである。
 またホッブズに続くロック(1632〜1704、主著は『人間悟性論』)は、そもそも意志の自由を問うことは適切ではなく、「人間が自由かどうか」を問うべきであるとした。彼によれば「意志」とは「自分自身の行動について思惟し、ある行動をしたりしなかったりすることを選択する能力」のことであり、これに対して「自由」とは「ある特定の行動を行うかどうかを意志したのに応じて、その行動を行ったりやめたりするところの、人間がもつ能力」である。つまり自由とは意志の選択に応じてそれを現実化しうる「能力」であり、それゆえに選択の能力である意志そのものに対して自由を帰することは不合理であると考えるのである。こうしてロックもまた「意志の自由」という概念を否認する。
 しかしながら、こうした自由意志否定論には問題点もある。すなわち、意志に対してなんらかの規定根拠の存在を認めるならば、意志それ自体がそうした規定根拠の連鎖の中の一項としてあることになり、意志によって生じた行為の責任を行為者に帰することは不合理であるように思われる。また、先に述べた自由という言葉の意味からすると、ある人間が自由であるかどうかを問うことは、当の人間がなにから自由もしくは不自由であるかに応じて、限りなく多数の異なる問いのどれかを問うことであるから、自由を人間の能力であると考え、「意志」ではなく「人間」が自由かどうかを問うべきであるとする主張にも疑問が生じる。
 決定論的世界観のもとで意志の自由を否定しつつ、人間の行為の責任を問うことの正当性を主張する者としては、他にヒューム(1711〜1776)らがおり、このような仕方で決定論と自由の両立を図る議論は現代においても続いている(ムーア 1873〜1958 ら)が、ここでそれらを詳しく述べることは避ける。

5.自由と道徳  カントの問題把握

 現象界における因果の鎖の一環として見れば、私たちの行為は必然という様相で記述可能ではあるが、それに対して実際の行為者の視点から見れば、常に他の行為も可能であったと思えるものである。しかし決定論的な立場とは正反対に、仮に意志がいかなる規定根拠もなしに働くというところに自由の意味を求めるとしても、このときには意志によって生じた行為はまったくの偶然性に委ねられ、決定論的立場におけるのと同様に責任の根拠を問うことは合理的な根拠を失ってしまうだろう。
 このような両者の相克・矛盾を調停し、この両立可能論に一定の解決をもたらす試みのひとつとして、ここでカント(1724〜1804)の問題把握を紹介したい。彼の試みは、意志の自由の有無だけでなく因果性にも深い関心を寄せたものとして、近代における決定論と自由の両立可能論の系譜のひとつの頂点をなすとされている。
 カントは人間の認識能力に制限を加え、世界を二分している。すなわち、認識可能な「現象」(からなる現象界)と認識不可能な「物自体」(からなる可想界)とへの世界の二分である。その上で彼は彼の主著『純粋理性批判』において次のアンティノミー(二律背反)を私たちに提示する。
 定立・・・自然法則に従う因果性は世界の諸現象を生起させうる唯一の原理であるとはいえない。
 反定立・・・いかなる自由も存在しない。世界における一切は、自然法則にしたがってのみ生起する。
 このアンティノミーに関する彼の解決が上に挙げた世界の二分なのである。すなわちこれは、決定論は現象界において成り立つが、しかし可想界では成り立たないことを意味している。世界内のその他の存在と同じく、個々の人間存在もその在り方として現象的な在り方と物自体的な在り方との両面を有する。それゆえにカントは同一人物の意志に関して、それは自然因果の支配下にある、と述べうると同時に、それは自然因果から自由である、とも述べうる。というのは、人間は現象としては因果性によって決定されるが、超感性的で可想的な在り方においては(物自体としては)、因果性によって決定されないからである。
 カントによれば、可想的存在としての人間に関してはいかなる認識も私たちは有することができない。だから可想的存在としての人間が自由意志を有することを理論的根拠に基づいて主張することは不可能であり、自由意志がなにゆえに可能であるかは私たちの認識能力を超えた問題である。しかし、その可能性を矛盾なく思考しうるという事実はきわめて重要である。というのは、もしこの事実が存在しなければ、道徳意識の本性をその根拠とするいかなる論証も私たちを説得する力を持ちえなくなるからである。
 以上から導き出されるカントの結論のひとつは、彼の道徳哲学(これは自由意志を必然の帰結として含む)と彼の自然哲学(決定論を必然の帰結として含む)とは互いに矛盾しあうことなくそれぞれの固有の法則に従いつつ自らを展開しうるということである。
 カントのこの自由は、『実践理性批判』において、道徳法則の意識を通じて、単にそれを「考える」ことが自然因果性と矛盾しないという論理的可能性だけではなく、客観的な実在性を与えられることになる。すなわち「自律」としての自由がそれである。
 カントの見解によれば、意志作用や自由に基づく行為を、欲求・欲望・衝動・傾向性などに還元することは不可能である。なぜなら、それは因果的に規定された自然必然性に他ならず、それらに基づく行為が自由であるとはいっても、こうした感性的衝動による意志規定を含む自由概念によっては、人間の人間としての行為の独自性が見出されえないからである。カントは行為の原理としてはただ、理性による意志の自己規定という「意志の自律としての自由」のみを認めたのである。これは近代の自然科学の隆盛にともなって生じた決定論との調停において、さもなければ自然の出来事へと還元されてしまわざるをえない「人間的行為」という概念を救おうとする試みの、ひとつの当然の帰結であったのかもしれない。
 カントにおいては、道徳的な行為が理性的であり、理性的行為のみが自由である。この行為は道徳的な理性の「要請」として表現され、この行為の自由は保証されているとカントはいう。現象界における因果律に対して、この理性自身は自律的な道徳法則に従うがゆえに自由なのである。つまり「自分の意志の格率が普遍的なそれになるように行為すべし」という純粋に内的な「要請」に従う点にこそ自由の根拠が認められることになる。


 カントの問題把握にも、例えば道徳的に悪しき行為は自由ではないことになるがゆえに、人の悪しき行為については非難しえぬのか、というような議論の余地はいくらもあるだろう。しかしこの文章の目的は自由に関する代表的な思想を概観し紹介することにあるので、これ以上深くその中に入り込むことはやめておく。
 自由の問題は、社会の一員として生きる私たちにとって、切実な問題であり、避けて通ることのできない問題であると思う。特に学校や家庭でも束縛を感じることの多い若いあなたにとっては、時折頭を悩ます問題であるかもしれない。そんなときは、先生や親、または本の中に書かれてあることを鵜呑みにするのではなくて、一度自分自身で解答を試みてもらいたい。そうすることがあなたにとって、きっとよい方向に働くと思う。ここに書いたまとまりと熟考に欠ける文章が、そのきっかけになればいいのだけど・・・。

参考文献  『自由―哲学的分析―』(M.クランストン著 小松茂男訳 岩波新書)
        『カントと自由の問題』(新田孝彦著 北海道大学図書刊行会)
        『純粋理性批判』(上・中・下 I .カント著 篠田英雄訳 岩波文庫)
        『実践理性批判』(I .カント著 波多野精一、宮本和吉訳 岩波文庫)