自己と他者とは

1.はじめの私 ひとつの私

私は、何によって成り立っているのだろうか。 何、簡単な事だ。私とは、手があって、足があって頭があって胸がある。 内部に目を向ければ、心臓やら肺やら脳やら肝臓がある。 私とはそういうものだ。と答えられるかもしれない。 確かに、私を構成している因子はそういった・・部品であるかもしれない。 しかし、部品は部品でしかない。 それが正しいならば、そういった部品がバラバラ殺人よろしく 分割されて配置されていても、私であるはずだ。 もし、それが・私だ。と胸をはっていえるならそれでよい。 しかし私には納得できない。 ある宗教家、あるいは科学者はこう答えるかもしれない。 私とは、肉体と精神であり、さらにその関係は不可分であると。 ならば問う。 私が、肉体と精神であり、かつ合一ならば、なぜ言葉の上とはいえ、 ・・肉体と・・精神とに分離しているのだと。 あるいは、こうも言えるだろう。 肉体と精神が合一ならば、その接合部、例えば脳は、精神の中心。 かつ、神経細胞の巨大な集合であろう。 ならば、その境界線はどこにある? 肉体の次元、精神の次元の切れ目はいったいどこにあるというのだ? そして。 不可分であるならばその境界線はどちらの世界に属しているのだ? もし、それらをひっくるめて私であるというならば、それでよい。 しかし私には納得できない。 つまりはだ。 手であれ、足であれ。肉体であれ、精神であれ。自分の部品から考えていくから おかしいのだ。 逆向きに考える。 いま、ここにあるものを・私と定義しよう。 ならば、その構成要素が手であり、足である。 また、見方を変えれば、肉体と精神もその中に属している。 これならば、じつにすっきりいくではないか。 つまり私にとってそういった私のまわりに転がっているガラクタ は十分条件であっても、必要条件ではない。 それらは私を定義するためのものではなく私が定義されたことに よって在るのだ。 私の先に定義されたものは何もなく、私を定義することによって 個々の雑多な要素が定義されていったからだ。

2.私 と 在るもの

こうして私は定義され、うまれた。 私を構成するとされていたものどもも、 あたかも以前からそこにあったかのように「私の構成要素」として定義された。 だが、まだ問題がある。 私が定義されたとき、いまここに私があるのは明らかになったのだが、私とは独立しているような、 例えば、このWebをみている「あなた」あるいはあなたが今座っているだろう「椅子」は何であるのか。 「私とは独立であろうようなもの」、それ自体が何であるかは私にはわからない。 しかし、それらは「私」ではない。それらは「私」とは完全に独立して存在している。 そうでないならば、私はそれらを「私」と呼ぶはずだ。 もし、それらにすら「私」を導入するならば、
そういった自己投入もまた、たんなる「借りもの」「幻像」として 他者をてわたすにすぎない。   カッシーラー『象徴形式の哲学』第三巻
そうではなく、「私とは無関係であろうようなもの」を「私とは完全に独立したもの」 として捉えることによって考えてみよう。 (1) これ以後、「私とは完全に独立したもの」を「他者」と呼ぶ。

3.他者

他者は構成されない。他者をその他性において構成することはできない。 ならば他者はどこから生じるのか。 私とは完全に独立したものを私は定義できない。それを対象として、了解するしかない。 私の世界の内部にないのなら、世界の外部から到来するのではないか。 到来した他者を私が了解することによって他者は世界のうちに存在することになる。 他者としての他者は世界の内部に位置を持たない。他者の他性それ自体が外的なものである。

4.再び私へ

さてここで再び私について考えてみると、「私」は誰によって定義されたのか という問題がでてくる。 そもそも議論中の「私」は既に「本来の私であろうもの」から離脱して 「客観的な私」として登場している。 つまり「客観的な私」と「本来の私であろうもの」とが分離している。
<私>であるとは、まずは「<同>のエゴイスティックな自発性」であるということ である。私はその自発性において、世界とかかわり、世界内の存在者に意味をあたえ、 存在者を対象として了解する。つまり存在者を包括する。世界という<他>はかくて <同>化されることになる。 『全体性と無限』レヴィナス
今この「私」の自発性が崩れかけている。「私」の自発性、唯一性を保ったまま「私」を定義することはできないのだろうか。

5.自己と他者

与えられているものは「他者」、「客観的な私」そして、「本来の私」である。 「本来の私」は単独では「私」たりえない。「客観的な私」の内には「本来の私」 たらしめるものはない。なぜなら「客観的な私」がもちうるものはそれ自体、自身に 定義されたものであるからだ。 しかし、「客観的な私」が定義されることによって厳然と区別されたもの「他者」が到来する。 その「他者」が、その「他者」によってこそ「私」の単独性を指定し、「客観的な私」と 「本来の私」を唯一の私として構成する。 他者を私が構成するのではなく、逆に到来した他者によってこそ私は「私」でありうることができるのである。

(1)他者を自己に投入し他我として捉える議論についてはフッサール『デカルト的省察』に詳しい。


参考文献 ハイデガー『根拠の本質について』 レヴィナス『全体性と無限 外部性についての試論』合田正人訳 国文社 フッサール『デカルト的省察』浜渦辰二訳 岩波文庫 カッシーラー『象徴形式の哲学』 熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書 細川亮一『ハイデガー入門』ちくま新書 [1]ハイデガー マルティン・ハイデガー。ドイツの哲学者。カトリック教徒の家に生まれた。 リッケルト、フッサールに学び、フライブルグ大学私講師、マーブルグ大学教授を務め た。主著『存在と時間』で学会の賞賛を浴び、フッサールの後継者となった。 次第にナチ支持者となり、第二次大戦後、教職から追放された。その後追放解除になり 、教職と著作で思想の深化につとめた。 [2]レヴィナス  エマニュエル・レヴィナス。フッサールとハイデガーに学びながらも、ハイデガーへの 強い批判を含む独自の倫理思想を紡ぐに至った。主著は『全体性と無限』、 『存在するとはべつのしかたで、あるいは存在することの彼方へ』 [3]フッサール エドムント・フッサール。ドイツの哲学者。はじめ数学を志すも、1876年からライプチヒ 、ベルリン両大学に学び、ブレンターノの記述心理学の講義を受け、感銘を受け、 終生師と仰いだ。数学的論理学と心理学の2要素をいかに結びつけるかが彼の問題で あった。フライブルグ大学教授などを務めた後、1928年に退職し著述に専念した。 主著は『純粋現象学と現象学的哲学考察<イデーン>』、『経験と判断』 [4]カッシーラー エルンスト・カッシーラー。ドイツの哲学者。1888年デカルト研究でマールブルク大学より学位を得る。 1919年ハンブルク大学教授に就任。同地のヴァールブルク文庫に触発されて、 言語・神話・宗教・科学・芸術にわたる広範な領野を透察した主著『象徴形式の哲学』3巻をまとめた。
文学部倫理学専修三年 徳田亮平