村上春樹の小説にノルウェイの森というものがある。その冒頭に、主人公が飛行機の中で突然寂しくなる場面がある。私は小さい子供の時、同じような経験に悩まされた。様々な物事が自分から遠ざかっていくような感覚に襲われて、とても怖かった。いろんな人を思い浮かべたり、実際に会ったりして、なんとか寂しさを紛わそうとするのだけれど、自分と彼らの間に絶対的な距離があると感じられてならなかった。成長するにつれてだんだん少なくなって、今ではめったにこんなことには遭遇しなくなった。このことは心理学的に説明がつけられるのかも知れない。でもそのころの強烈な経験は私を今哲学に向かわせている理由のひとつである。この世界にこのような現れ方をする私という存在の謎に哲学は答えてくれるのではないかと思ったのだ。
私が紹介したいと思っているのはハイデガーの存在論である。彼は私の疑問を、非常に緻密に哲学した人だと思う。しかしいきなり彼らの難解な概念装置を並べてみても、あまりうまく説明ができないので、とりあえずのアナロジーとしてロックの言葉を使ってみようと思う。もちろん私はロックスターが哲学したとは勿論考えないし、深遠な思想を持っていたとも思えない。ロックはポップカルチャーというアリバイをはじめから持っている。所詮たばこや酒やドラッグで適当にでっち上げられたものだというアリバイ。つまり淀みに浮かぶ泡沫のようなもの。しかし彼らが精神的肉体的にボロボロの状態で、ぽろっとこぼす歌、詞、フレーズに何かこの世のものとは思えないようなものが宿るときがある。彼が生と死、そして自我の根元的、原初的な空間に肉薄する瞬間である。僕はときどきそんな場所に立ち会うためにロックを聴いている。論理とか概念を通らずに直接向こう側からやってくるこの瞬発力こそがロックの最大の魅力だと思う。このページではとりあえず難しい理屈をおいておき、ロックを使って簡単に哲学的な問題に触れてみようと思う。
THE VELVET UNDERGROUNDというロックバンドを知っているだろうか。当時は全くといっていいほど売れなかったのだが、今やロックの古典になるほどのカリスマ性を持ったバンドである。彼らはドラッグやSMなどインモラルな題材を扱い、ノイズを駆使した極めてアヴァンギャルドな作品を作り上げたバンドで、つまりその名の通りアンダーグラウンドの空気をそのまま切り取ったようなバンドである。彼らのデビューアルバムは1967年に発売されたが、そのジャケットには大きなバナナの絵とPEEL SLOWLY AND SEE という文字、そして手がけたアンディウォーホルの署名だけが描かれている。これは物凄く有名なので知っている方も多いと思われる。いきなりハッタリのきいたデザインで、このバンドのコンセプトを見事に表している。このアルバムの7トラックにへロインという曲が収録されている。この曲ははじめ、ドン ドンというドラムとクリーントーンのギターストロークだけで穏やかに始まる。しかし徐々に速くなっていき、様々なドラッグをやっているときの気分や幻想、妄想が克明に描写される。ドラムの音は心拍音をあらわしている。そして 「and I guess I just don't know」 という捨てぜりふをはいて1コーラスが終わる。この「おれはなんにもわかっちゃいない」という諦念こそがこのドラッグ賛歌を際立たせている。例えばサイケデリックロックやプログレッシブロックの中で、ドラッグによって人間の全能感を増幅させ宗教的統一を表現したような曲があるし、現在のテクノミュージックの中でも、トリップ状態を表現したり、トリップするための曲が山ほどある。それらドラッグナンバーにたいしてこの曲が孤立し、そして時代の風化に無縁なのは、この諦念が人間の奥底のわけの分からないものをみつめつづけているからだ。だから彼は執拗に「なんにも分かっちゃいない」と連呼し続ける。彼、ルー・リードは激情的な曲の中で一人孤独に歌っている。
彼のこの孤独感はいったいどこから来るのであろうか。それは死からなのである。へロインという薬物はドラッグの中でもかなり強力で、死に至ることも十分あるという。彼にもそんなことは分かっていて、本当に死ぬかも知れないと思いながら歌っている。4コーラス目の冒頭で「Heroin,be the death of me ,it's my wife and it's my life」と赤裸々に歌っているが、はじめに未来形でへロインによっておれは死ぬだろうと歌い、そのあとで自らの生を歌っていることは象徴的である。死というものは胡乱なこの世界から自らを分かつ臨界点であろう。様々な体験が共有可能であり、さもなくば論理によって理解することができる。しかし死だけはどうしても知ることはできない。己れが己れであるところの最終地点において、はじめて生というものの無軌道な暴力性が露になる。彼はこの自我の世界の調和から徹底的に疎外されたありかたを噛み締めて歌っている。「へロイン 俺の死 そして妻であり生」と歌った直後、彼は笑い声を漏らす。本当におかしくてたまらないという風にも聞こえるし、絶望の淵から思わずでてしまったともとれるし、悟りきった笑いともとれないことはない不思議な笑い声。この笑い声こそが自我という現れ方をする存在を非常に的確に表現していると思う。詞(言葉)にのせられない自我を死を通過することで、何か強烈な亀裂として表現している。これはこのあとボーカルの後ろで始まるジョン・ケイルのビオラとも共通している。ここで奏でられるビオラの旋律はほとんど整合的な音階を放棄している。ジョンは現代音楽の造形が深く、ここでの演奏もノイズを駆使した前衛的なものになっている。私は現代音楽のことは良く分からないのであるが、このビオラソロはルー・リードの世界を際立たせる優れた演奏だと思う。本来音楽というものは理論化、抽象化が可能で数学的側面を持っている。しかしこのノイズはそういった音楽理論の外にある。私が理論化できないこのノイズに感動するならいったいこの感動はなんだろうか。この構造は自我の暴力的で論理的に捕らえきれない本質を暗示してはいないだろうか。そしてルー・リードの鬼気迫るボーカルと、ジョン・ケイルの凄まじい演奏が一体となって混沌とした空間が開け、曲の終りになだれ込み、最後はルー・リードの「I guess I just don't know」というふてくされた宣言によって幕を閉じる。論理的空間以前の場所に死を媒介にし、あるいは道ずれにして迫っていくような切迫感こそ、この曲のハイライトでありこのぞっとするような感覚、孤高の美しさは30年以上たった今でも消して色あせていない。ルー・リードの孤独な魂は確実に自我の深層をえぐっていたと思う。
ハイデガーという哲学者は存在について哲学した。つまり存在するとはどういうことかと問うたのである。彼の哲学を乱暴に要約してみよう。 まずハイデガーが対決し乗り越えようとしているこれまでの存在論を説明する。彼はプラトン・アリストテレスからの伝統的存在論を現前性・被制作性の存在論と解釈し、現前性のみが肥大し未来と過去が弛緩している非本来的な存在了解だとした。分かりやすく言うと、現前とは目の前に現れることであり、被制作性とは人間にとって制作ができるものという意味である。プラトンのイデア論において存在は徹底的に構造化され無機質な質量として了解される。イデアという超自然的な枠組みとそこから派生する物質的な存在観とでもいったらいいのだろうか。そしてこれは事実存在(物質)と本質存在(イデア)というふうにアリストテレスによって整理される。ハイデガーはこれと対決する。イデア的=物質的存在論から運動や生成の存在論へという意図を持って主著『存在と時間』はかかれた。まずそこを押さえてからこの書の内容を説明すると、そこではまず世界内存在という概念で、人間を存在了解(人間の持っている時間化作用によって存在者を存在者として捉えられるようになること。動物は現在しかなく、周りの環境に閉じ込められている。分かりやすく言うと環境から一歩ひいて存在について考えられること。)しつつ生きている特殊な存在者だと説明する。だから存在了解は人間存在(これを彼の用語で現存在という)に沿っておこなわれる。しかし現存在は頽落しているともいう。頽落というのは本来的な在り方からずれ落ちていることで、非本来的な在り方のことである。現存在が自らの可能性に目を閉ざし現前性(つまり現在)の中でまどろんでいる状態。人々は目の前の事物とに関わりにのみぼっとうする。何か動物のような生き方である。しかしその状態をゆり動かす契機が「不安」である。「不安」はここではないどこかからきて、「ひと」としてなれ合っている非固有な状態(たくさんの人間のうちの一人という意識)の現存在を強烈にゆさぶる。現存在に、世界の根源的な無意味性がひしひしと伝わってくる。この無意味性のなかで現存在は本来的現存在による存在了解へと歩み出すのである。ここで彼は死への先駆ということを言い出す。死への先駆とは、究極の可能性としての(可能性の存在しない)死から存在を了解し、未来の可能性(無意味な世界とは無限の可能性を持っている世界である)に向かって己れ自身を投げ入れ瞬間的な生を生きることである。存在を現前という今、目の前にあるものから理解しないで、様々な可能性にむかって己れ自身が瞬間瞬間で生成していくという感じ。この地点においてはもう先にのべた事実存在と本質存在の区別はなくなり、そうした区別以前の存在の混沌が垣間見られる。つまり現存在が、存在の可能性としての生成を時間性の緊張において存在了解するというのが彼の戦略であった。しかし彼の哲学は転回したといわれる。それは現存在という在り方から存在を哲学するという手法に限界を感じたからだといわれる。どういうことか。存在という極大の混沌にたいしてあまりに人間は矮小であるということだ。確かに存在了解は現存在の在り方に伴って変化する。が本来的現存在が了解しようとしている存在は自ら生成し無軌道に躍動する自律的なものである。有限的な存在者であるところの現存在が存在全体を了解できるという考え方に無理が生じてきた。だから存在者から存在へという道筋を転回して、存在によって存在者が存在者たらしめられるという議論をやりだした。ハイデガーはヘルダーリンの詩作の分析などを通し、人間のあらかじめ失われてしまった故郷=存在を追想する。言葉は存在の原初的分節であるという理解から、詩作のうちに現れてくる「言葉が語る」その中に存在の痕跡をみようとする。分かりやすくいうと人間は言葉によって存在を捉えるので、言葉のうちに存在の痕が残されていると考えた。この転回は果たして撤退なのだろうか。私にはハイデガーの詩作の分析というなぞめいた言説に故郷喪失の時代をいきる人間という存在の苦悩を見た気がした。
ルー・リードという人物を手引きとしてハイデガー哲学を紹介するという無謀な試みは成功するのだろうか。たいして比喩にもなっていないのに、いちいち説明するのも野暮だとおもうからあまり説明はしないけれども、なんとなくルー・リードの見ていた光景がハイデガーの哲学と重なるのではないだろうか。死や存在といったものの雰囲気をつかんでくれたらうれしい。私はルー・リードも死と向かい合うことで何かを見た気がする。でもそれはすぐにとじられてしまった。だから俺はなんにも分かっちゃいないとつぶやいたのかもしれない。はたまたただのへロイン中毒者のいかれた妄想か。このうさんくさいところもロックの魅力の一つなのでつっこみはなしにしてください。ハイデガー哲学の方はロックとはうって変わってこれまでの西洋哲学を総括するような重厚な内容なので、以下の本などを参考に(どれも分かりやすいものばかりです)、根性でチャレンジしてください。