プラトン Platon 前428/427‐348/347 

生涯 

プラトンはアテナイ名門の出身.若くして詩才に魅せられたが,やがてソクラテスの下に哲学を専心.師の刑死後,しばらくメガラに身を寄せ,40歳頃タラスにアルキュタスを訪ね,さらにシケリアのシュラクサイにわたって僭主ディオニュシオス1世に会い,青年ディオンを知る.アテナイに帰ってアカデメイアを創立主宰する.60歳に至ってディオニュシオス1世没し,同2世の教育のため第二回シケリア旅行.これには,かねての「哲人王」の理想実現の意図もあったが,到着後4ヶ月にしてディオンが追放され破局が来る.その後シケリア旅行を三度試みた.そして80歳をもって「法律」篇を「書きながら死んだ」と言われる.

著作

プラトンの著作は戯曲の様式に拠った対話形式で書かれており,「対話篇」と呼ばれる.これらは、『書簡集』を含めて、トラシュロス(後1世紀)の方法により九つの四部作集に編集されるのが古来の慣習であるが,うち27の対話篇と若干の書簡が(偽作ではなく)真正であるとみられている。

真正対話篇群は,年代順にほぼ三期に大別される。

初期『ソクラテスの弁明』『クリトン』『カルミデス』『ラケス』『エウテュプロン』『イオン』『ヒッピアス(大)』『ヒッピアス(小)』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『リュシス』『エウテュデモス』『メネクセノス』『メノン』

中期『パイドン』『国家』『饗宴』『クラテュロス』『パイドロス』『パルメニデス』『テアイテトス』

後期『ティマイオス』『クリティアス』『ソピステス』『ポリティコス(政治家)』『ピレポス』『法律』

思想

【イデア論】プラトンはソクラテスが「〜とは何であるか」と問うた問に対して,それは「イデア」(idea)または「エイドス」(eidos)であると答えた.プラトンにおいて「イデア」と「エイドス」は大体同じ意味に用いられる.両者とも「見る」(idein)という動詞に由来する言葉であって,「見られたもの」を意味するが,そこから転じて見られたものの「形」「すがた」を意味する.

すでにピュタゴラス学派では幾何学的図形が「エイドス」と呼ばれていた.図形を描いて証明を行う場合,感覚的な図形においては、点は面積をもち、線は幅をもっているが、こうした感覚的図形によって幾何学者が証明しようとしているのは,純粋な二次元平面上に幅なき線で描かれた図形である.この純粋な図形を思い描くことによって、はじめて証明は成り立つ。この純粋な図形に比べれば、感覚的図形ははるかに劣っている.感覚的な図形はこの純粋な図形に近似すればするほど、より完全である。感覚的な幾何学的図形が幾何学的図形でありうるのは,この純粋な幾何学的図形によるのである.

すべての知恵ある人々を知恵ある人々たらしめるのは知恵そのものであり、すべての美しいものを美しいものたらしめるのは美そのものである.先述の先の純粋な幾何学的図形に比されるべき、このような知恵そのもの、美そのもの、善そのもの,正義そのものがプラトンによって「イデア」「エイドス」とよばれたものに他ならない.それは実現されるべき価値であり、理想であり、それに則して行為さるべき規範であり範型であった.イデアまたはエイドスはプラトンにとって,感覚世界の事象を超えた真実有(ousia)としての存在であり永遠の存在であった.

イデアは正義・勇敢・節制などの倫理的行為について,また一・多・等・類似などの概念について言われるが,それらは全て「よい」ものである.そこに「よさ(善)のイデア」(idea tou agathou)が考えられるであろう.「善のイデア」はもろもろのイデアを超えて存在する.霊魂はいわば梯子を登るようにしてそこに達するとき,真にゆるぎない知識をえ,不死の生に与るものとなる.そのイデアへの登高は,霊魂が地上の肉体の中に入る以前に見たイデアを想起することによって行われ(想起説),あるいは神と人間の,永遠界と時間界の仲介者としてつねに欠乏の中から美をあこがれつづけるエロースの活動に導かれて行われる.これらのイデアの認識の道をプラトンはディアレクティケー(弁証法)と呼ぶ.

参考文献 『西洋哲学史』東京大学出版会,『現代哲学入門』有斐閣双書,『現代哲学事典』講談社現代新書
執筆者 重田謙