――『竊潜妻』翻字データ凡例―― ・庵点は「『 」で示した。 ・本文中の絵は、該当箇所を「【 】」でくくり、図柄の説明を付して示した。 ----------------------------------------------------------------------------------- 自序 諺{ことはざ}に華{はな}は桜木人{さくらぎひと}はものヽふといえどさくらの嬰{ゑい}/\たる風情{ふぜい}を君契情{きみけいせい}の艶{ゑん}/\たる容{すがた}に見しは五老井{こらうせい}か。 百花{くは}の賦{ふ}のみにしてかりそめの筆{ふで}の蹟{あと}もなしされば人情{にんじやう}しれるひとなき世にや。 (上ノ壱オ) しかのみならす一夜{いちや}かり寐{ね}の戯{たは}れ女{め}などひたすらにいやしむるやからすくなからす 江口{ゑくち}の白女{しろめ}は和歌{わか}を詠{ゑい}じてありがたき勅選{ちよくせん}にあひ宝積{むろつみ}の傀儡{くぐつ}は菩薩{ぼさつ}と現{あらはれ}しとなむ其外高位高官{そのよかういかうくはん}におもはれてはかたじけなき円木{まくら}をならぶるもすくなからす (上ノ壱ウ) まして勤{つとめ}の身{み}に実{まこと}なしと嘲{あざけ}る昔人有{へんくつあれ}ば虚{いつはり}なしとおもふ野暮{ひが}何苦界{なんぞながれ}の浅深{きよじつ}をしらん (上ノニオ) いざ馬{むま}のり入{いれ}てこヽろ見るへしと此{この}うら人{ひと}の其{その}ひとり 盛田をしほ しか いふ うの 初冬 (上ノニウ) 竊潜妻{ていけのはな} 巻の上 歌妓情{げいこのなさけ} 盛田小塩著 大星{おヽぼし}よしかねが金言{きんげん}に啌{うそ}から出{で}た誠{まこと}でなければ根{ね}がとげぬとは宜{むべ}なるかな 初{はじ}めはとなりの【※提灯の絵】の二軒{けん}つヾきでちよつと見初{みそめ}たが連理{れんり}の実生端{みばへはし}の寮{りやう}の参会{さんくわい}にちょんの間{ま}の抜{ぬけ}がけ 線香{せんかう}三本のはつげんざんに モシナどふぞ近日啌{うそ}つきなゑとちょつと脊中{せなか}たヽかれたが病{やみ}つき (上ノ三オ) 首筋元{くびすじもと}からぞつとせし恋{こい}のほつねつ身{み}をこがす 螢{ほたる}ほどの小玉{つゆがね}もめつたにうかさぬ爪長{きまりて}が正月{かた}三日 おつとせうち初午{はつうま}の変改{へんがい} おつとうけこみ伊勢{いせ}参りのむほん おつとおもしろし此祭{まつり}から引て出{で}る妹{いもうと}ぶんの約束{やくそく}迄何一ツいやといはぬ気{き}のよいお方じやといはれたが大和橋{やまとばし}の夕闇千鳥{ゆふやみちどり}かとうたがふ按摩{あんま}の笛{ふゑ}に行あたる向{むか}ふ見ずの周章遣{あわてづか}ひに盆前{ぽんまへ}の〆{しめ}高胸{むね}おどろかす (上ノ三ウ) 本能寺{ほんのうじ}の鐘{かね}のこゑ諸行無常{しよぎやうむじやう}と手形{てがた}こしらへ是生滅法{ぜしやうめつほう}とはしり出じ時限{ときぎり}の飛脚遊{ひきやくあそ}びにせつかく来た所がお返事{へんじ}でござりますと聞{きい}てがつくりしながらも てうどよい今夜{こんや}は木屋町へ姉貴{あねき}の見舞{みまい}にいた 重箱{じうばこ}じや とまけおしんでうぢ/\して居{い}るうちもモウよい返事{へんじ}でもあろふかときせるを筒{つヽ}へ入{いれ}ては出{だ}し/\しているを (上ノ四オ) マアお火燵{こたつ}へ と小ざしきに塗櫓{ぬりやぐら}のおきごたつ秩父{ちヽぶ}うらの更紗蒲団{さらさふとん}もあとからはげる花車{くはしや}が空言{まにあい} いつたいアノ子{こ}はおまへさんによつぽと来{き}ていますぞヘ マア当時{とうじ}うつくしうはありよう売{うり}はする爪気{つめけ}はなししやうならアノ子{こ}じやどふぞなされい ナアとあいた口へもちつけた花車{くわしや}がすゝめにのりが来{き}てさしむかひになつてまくらがけのさうだんそれさへ御承知{せうち}ならきつとわたしがうけ合{あい}ます (上ノ四ウ) と伊賀守{いがのかみ}の奥方{おくがた}とまがきとの二役{ふたやく}なるとこそきけの大急用はまはりのはやひ花車{くわしや}が文体誠{ぶんていまこと}や女の書{かけ}るくれ/\には白蔵主{はくざうす}もつまゝるゝとや 終{つい}には何百両とやら丈石風{でうせきふう}の点高{てんだか}見るやうな根引{ねびき}してひそかなる所へうゑかへ きのふまでみどりをむすびし柳{やなぎ}の眉{まゆ}も秋{あき}をまたずしてちりてははつ 袷{あわせ}の袖{そで}に覆{おヽ}ふありしむかしこそしのばしけれとある人のうらやみし句{く}に (上ノ五オ) 『くづれそめて三日牡丹{ぼたん}のながめかな。 とはさもあるべき事にこそ何所{どこ}やらに水際{みづぎわ}のたつすきあげ髪{がみ}のかた手巻筑波染{てまきつくばぞめ}となむ江戸染{ぞめ}の袷小袖{あわせきりもん}にちいさき【※花の絵】の紋{もん}つけしは此頃{このごろ}までの全盛{ぜんせい}を少しにほはす菊枝{きくゑ}が妓名{ぎめい}のおもかげ 隣{となり}の蔵{くら}の庇間{ひさし}から日影{ひかげ}さす椽{ゑん}さきに蒔絵{まきゑ}の鏡{けう}だいおしなをし漸三時{やヽみとき}ばかりかゝつて鉄漿付{かねつけ}しまひしとみへ吸{すい}がらを楾{はんぞう}へあけながし (上ノ五ウ) [菊]コレしな{下女}此楾{このはんぞう}を捨{すて}てのそふしてのちつとばかり湯{ゆ}をわかしてたも ト勝手より [下女]おつかひあそばすお湯{ゆ}ならわかさいでも追付{おつヽけ}おふろがわきます [菊]イヽヤいのわしがつかふ湯{ゆ}じやなひわいの おと{狆}の浴水{ぎやうすい}の湯{ゆ}じやわいの [下女]おとの浴水{げうずい}ならお風呂{ふろ}のあとがようござりませう (上ノ六オ) [菊]ほんにそうせうかいの [狆]ワン/\ト勝手{かつて}へ鳴{ない}て行 [菊]しなまた犬{いぬ}がはゐつたそふなぞや [下女]イヽヱ犬{いぬ}じやござりません どなたやら見へました ト門{かど}口の猿戸{さるど}明て来りしは此路次{ろじ}の表{おもて}に二間間口{けんまぐち}の住居{すまい}もきれいに美声丹{びせいたん}の看板{かんばん}をすへ表家業{おもてしやうばい}のくすりの功能{かうのう}はおぼつかなくも内業{ないしよく}には遠近{おちこち}の大尽{だいじん}たちを呼子鳥{よぶこどり}の伝{でん}は粋学{すいがく}のうゑぞかし およそ洛中{けうぢう}に古今{ここん}三人にひとりと聞{きこ}へし末社{べんけい}の筆頭近{ひつとうちか}き頃{ころ}より或旦州{さるだんしう}の秘蔵{ひそう}をあづかりいる紀{き}の国や作治{さくじ}が女房{にようぼう}おつじとてとしのころは谷汲{たにぐみ}から六七十里{り}も行過{ゆきすぎ}し上州{ぜうしう}上田の袷{あわせ}に黒繻子{くろじゆす}の帯薄{おびうす}げしやうに唇{くちびる}の紅{べに}こまやかなるはさすが粋家{すいか}の女房風俗{にようぽうふう} うらからすぐに門{かど}口の水たまりに小づま引あげあしをつま立{だて} (上ノ六ウ) [辻]おしなどん又みぞがつまつたかして水がこすぞヘ トいヽながら内に入る (上ノ七オ) 狆尾{ちんお}をふつてざれかゝる [辻]おとへおまい今わしをしかりたの トあたまをなでながら勝手{かつて}よりおくをさしのぞき [辻]モシ菊{きく}さん店{みせ}からせきにさんじた トちよつとしやれる [菊]おつさんどこへいきじや [辻]あれみんかけふは内かたのやくそくじやがナア [菊]何{なん}でいナア [辻]アレあれほど此ぢうからやくそくの葵{あをひ}まつりじやがナ [菊]けふがかいな [辻]ヲヽしんきそふじやわいな (上ノ七ウ) [菊]そふかいな ヲヽはや [辻]それで今朝{けさ}からちやつとまゝを焚{たい}てしまふて髪{かみ}をなでつけるか湯{ゆ}をつかふかたいていやつした事{こと}かいな [菊]どふりでかくべつうつくしいと思ふた [辻]これでもおやぢの気{き}にいらぬじや [菊]ヲヽ勿体{もつたい}な ト少しうけてたばこ付{つけ}て出{だ}す [辻]サアこしらへんかいな [菊]イヤいなこんな髪{かみ}しているもの [辻]なぜいはずじや (上ノ八オ) [菊]何じやしらんが気{き}がむちやくちやしてねつから髪{かみ}ゆふ気{き}がないわいな。 きのふおなをさまンが来{き}てくれてヾあつたけれど トかんざしでうしろをかく [辻]ついすいてあぎやうか [菊]モウけふはよしにするはへ おまへもやめにしんか [辻]どふなとおまへ次第{しだい} [菊]嬉{うれ}しいなア そんならけふは内だてにするはへ [辻]何{なに}だてじやヱ [菊]なんなと [辻]何{なに}がよからふぞ [菊]のりがある すもじしんか [辻]そりやゑヽナ (上ノ八ウ) しかし内かたのまゝはこはし こちのまヽがまださめにやよいが [菊]ヲヽはやモウたべたかヱ [辻]モウひるやつとすぎてある [菊]そふかいナ 是{これ}しなおひるはやうし [下女]アイたヾ今しかけました [菊]やう/\今朝{けさ}おきて鉄漿{かね}つけたばつかり 此二三日は夏書{げがき}もだいぶんかりに成{なつ}てある [辻]勿体{もったい}ない 外の事とは違{ちが}ふ 夏書{けがき}は毎日{まいにち}しい [菊]あとで風呂{ふろ}へ入てからするはへ けつく出ている時分{じぶん}はいそがしい中でもみん事したけれどとかく引{ひい}てからどふしてやら二日三日ほどづヽいつしよになる (上ノ九オ) トいふがやつぱり心にくつたくがあるによつてじやわいナ [辻]ヲヽおかし今のおまへの身{み}に苦{く}があるかいナ [菊]おつさんのあんな事いひじやなふていな [辻]何が苦{く}じやゑ [菊]マアおまへ此間から旦那{だんな}さんのおいでんが苦{く}じやはへ [辻]なんの二日や三日おいでんといふて [菊]何いふてじや よう二日や三日であろうぞ (上ノ九ウ) けふでてうど七日ほどになるわいな [辻]そんなかいな [菊]ソレ此間表{おもて}の浪崎{なみざき}さんの所にさらへかうのあつた晩{ばん}にみへたなりじやわいな [辻]まちや そりや十一日の晩{ばん}であつたによつて トゆびを折{おつ}てみて [辻]ほんにてうど七日になるなア [菊]それみんか 何でじやいなア [辻]何のなんであらふぞいな [菊]イヽヱ何でも何ぞじやわいな [辻]ヲヽまはり気{ぎ}やの [菊]何のマァなんぞならこそ嘉{か}キさんがとんとこまいがな [辻]サアとんとこんなア (上ノ十オ) [菊]それ見 何でもあやしひ [辻]ちよつとまち わすれて居{ゐ}た内が明{あい}てある お品{しな}どんまヽの下引{したひき}たらちつとの間見ていておくれ [下女]ハイ/\おとおいで かど見せてあぎやう ト狆{ちん}を抱{だい}てうらから表{おもて}の内へゆく [辻]ムヽそふしておまへなんぞ聞{きヽ}たか [菊]一昨日{おとゝひ}ひがしの妹{いもうと}の所から状{ぜう}に二日つゞけて里橋{りけう}さんに繩手{なわて}で逢{あふ}たといふておこしたわいな [辻]そふかいな ムヽそんならまち 何気{なにげ}なふ嘉{か}キさんをよびにやつてくり出して見よう (上ノ十ウ) [菊]おつさんのいヽじや事わいな ようアノ嘉{か}キづらがくりだされうぞいな [辻]サアそりやおまへではいかんけれど思ひがけなふわたしが問{とふ}たらいふまひものじやなひ トいふて居{ゐ}る所へ下女とつかは戻{もど}つて [下女]モシお辻{つじ}さん今ひがしの飛脚{ひきやく}が此手がみ持{もつ}てさんじた ト出す お辻ちよつとみて [辻]ムヽこれやこちへきたのじやなひ 嘉吉さま大急用{きうやう}おしなどんおせわへおいていきといふておくれ (上ノ十一オ) [下女]イヱ/\おきずてにして帰{かへ}りました [辻]アイよし/\ ト下女は又表{おもて}へ行{ゆく} [菊]おつさん何所{どこ}から来{き}た状{でう}じやへ [辻]いづゝやみつとしてある こりや茶やかいな [菊]茶やにも井みつといふのはあるけれどひよつとそりや井筒{いづヽ}やのみつへが事じやあるまひかいナ [辻]そりや嘉キさんの何ぞかいな [菊]何のマア嘉キさんの何でもなひけれどみつゑといふはいつやらから旦那{だんな}さんがいつしによんでじやといなア (上ノ十一ウ) [辻]そふかいな そんならやつぱり其{その}みつ江かいナ [菊]おふかたそふに違{ちが}ひなひ 何いふて来{き}た見たいものじやなアおつさん [辻]まち/\ ト土瓶{どひん}の蓋{ふた}を取て封{ふう}じめをあたヽめかんざしの耳{みヽ}かきにて封{ふう}しをはなし開{ひら}き見るに きのふは御出下され候よしおりふしまちがい御めもじなし申さず御のもじに存まいらせ候 扨は此ほど御たのみ申上候とふりぜひ/\菊はやめに御なし下され候やうたのみ上まいらせ候 (上ノ十ニオ) 挿絵 (上ノ十二ウ) 挿絵 (上ノ十三オ) トよみさしちよつと思案{しあん}して [辻]是みんか おかしい文句{もんく}なア [菊]ちよつと見せてかし トとつて ぜひ/\菊は止{やめ}に御なし下され候様頼み上まいらせ候 [菊]ほんにこりやおかしい文句{もんく}じやなア ト又次{つぎ}を見て なを其事に付御相談{さうだん}も候得ば急{きう}/\御出下されたくまち入まいらせ候 [菊]こりや一向{いつかう}あやしい おつさんおまへどふ思ひじや (上ノ十三ウ) [辻]ほんにこりやあやしいなア [菊]それ見何でもみつ江が出来{でき}たのにちがひはなひ きくをやめにしてくれいはきつと私{わたし}が事じや それで嘉キさんの所へ頼{たのん}できたに違{ちが}ひなひ 皆{みな}嘉キさんのせわとみへる きつひ悪玉{あくだま}なア [辻]いよ/\そふならいつかふ済{すま}ぬなア [菊]おつさんどふせう [辻]マァこちのとだんかうして見 [菊]作{さく}さんはへ [辻]向ひの道具{どうぐ}やにかしらん [菊]ちよつとよびにやつておくれんか [辻]おしなどんでもだいじないな (上ノ十四オ) トいふている所へ門{かど}口に足音{あしおと}する [菊]作さんかいな [辻]何のマァこちのは慥下駄{たしかげた}じやあつた ト門{かど}口から [小間物や]近武{きんぶ}でござります [菊]近武{きんぶ}さん此間の櫛{くし}もつていんでおくれ [小間]ハイ/\ト内へはゐる 菊枝手箪笥{きくえてだんす}より箱{はこ}入の櫛{くし}を出す お辻とりつぐ 小間物やうけとり [菊]それマアおかへすはへ [小間]お気{き}に入ませぬかナ [菊]イヽヱそふじやないけれど旦那がまだみへずじやによつてしれんはへ (上ノ十四ウ) [小間]ヘヱそれはさやうならマアお見せなさるまでだいじござりませんのに [菊]そふじやけれどマァ持{もつ}ていんでおくれ 旦那がみへたらかりにやるはへ [小間]直段{ねだん}の所はどふとも致します 又下地{したち}の櫛{くし}もずいぶん此方へおもらひ申ます ならふ事なら古{ふる}ひのを下に遣はされまして新{あたら}しいのとおかへなされますがおとくでござります [菊]ヲヽ気{き}がゝり おつさんアレ聞{きヽ}んか [辻]そふじやなア 此節下地{せつしたぢ}のをよしにしてあたらしいのと替{かへ}る事はきん句{く}じや (上ノ十五オ) [小間]それでもつむりの道具{どうぐ}と灰吹{はいふき}はあたらしいのがようござります [菊]あれやつぱり大きらひ ト小ごゑにて舌{した}つゞみうつ [小間]さやうならどふぞおたのみ申ます [菊]アイ/\おとゝひおいで ト小声{ごへ}にて塩{しほ}ばなうつまねをする 小間物や門口へ出て [小間]ヱヽあぶなひ溝板{みぞいた}じや 仕かへるとよひ と出{いで}て行 [菊]気{き}にかゝると思ふとやつぱりひつかう大きらひ (上ノ十五ウ) [辻]かわひさふにあつちは何にもしりもせんもの ト又足音{あしおと}する [菊]是{これ}かいな [辻]イゝヱ是{これ}もせきだの音じや [菊]しんきはやう戻{もど}つたがよひのに [辻]こちのおやぢも待{また}るヽ時節{じせつ}があるしや ト門{かど}口ぐはらり [茶や]村井{むらゐ}でござります [菊]アイまあよいはへ [茶]此間からとんと御用がござりませぬ [菊]アイ旦那がみへずじやによつてそれでじやわいな [茶]ヘヱそれは此頃新茶{このごろしんちや}を挽{ひか}します お頼み申ます (上ノ十六オ) [菊]アレ聞んか いつそ気にかゝるナ [辻]何がいなア [菊]新茶{しんちや}をひかすとひなア [辻]ほんになア [菊]どんな事聞{きか}ふもしれぬ はやういなしておくれ [辻]村井さんこんどの廻{まは}りによつておくれ [茶]ハイ/\ ト門口{かどぐち}へ出て [茶]南無{なむ}さん此雪踏{せつた}もおいとまじや きれかゝつてけつかる ト聞{きく}さへも気にかゝる折から戻{もと}るきの国や 作次{さくじ}門口はいるやはいらぬから [作二]おつじ葵{あおひ}まつりは一年{ねん}に一度{ど}じや まだしるまひ [辻]そふかいな (上ノ十六ウ) トお辻もしやれてうける [作]若行{もしゆく}なら箒{ほうき}とちり取持{もつ}て行がよい [辻]そこ所かいな 最{さい}ぜんから菊{きく}さんがたいてい待{まつ}てじや事かいなア [作]ハアそれは嘸{さぞ}御ちそうであらふ ト中仕切{なかじきり}の柱{はしら}にもたれかゝる [菊]作さんたんと咄{はな}しがある マア下にいひ [作]跡{あと}の月の晦日{つもごり}の晩{ばん}にかぎつて中へいた覚{おぽ}へはごんせぬ ト中腰{ちうごし}になる [菊]おもしろそふにそんなきげんじやないわひな [作]どんな機嫌{きけん}じやいな (上ノ十七オ) [辻]何のいなア 此間から里橋{りけう}さんはとんとみへずそれにまた嘉キ{かき}さんもどふいふものかこんじやないかいな そこでアノお子もおかしう思ふてじや矢先{やさき}へ河東のひきやくが持{もつ}て来た此状{じやう} 嘉吉さま大急用{きうやう}井みつとしてあるによつて [作]開封{かいふう}したか [辻]サア明てみた所がナ [作]節句前{せつくまへ}の残{のこ}り早々{さう/\}たのみ入候であらふ [辻]イヽヱ此間頼みあげ候通{とふ}りぜひ/\菊はやめに御なし下され候やうと書{か@}@あるによつて何でもこりやてつきり嘉キさん@悪玉{あくだま}で出来{でき}たいづゝやのみつ江とやらの所から来{き}た状{じやう}じやといふてたいていの事かいな (上ノ十七ウ) [作]それはおかしゐ状じやドレ トきせるをくはへながら状を取上{とりあげ}見て [作]ハゝアよめた トいふ拍子{へうし}にくはへたきせるがはつたり [作]ホイなむさん ト膝{ひざ}へ落{おち}たる吹{すい}@らをはらひ落す [菊]作さんおまへどふよめたへ [作]どふよめたか聟{むこ}とつたかしらぬがこりやおふごとじや (上ノ十八オ) [菊]サア何でもつゐした事じやなひ [作]和田荻野{わだおぎの}でもいけぬわい [菊辻]マアどふいふものじやいなア [作]とふいふものといふたら今の吹{すい}がらで此通{とふ}りじや トひざの焼穴{つけあな}をいらふて見せる [菊]ヲヽいやおふごととは其事{そのこと}かいな [作]是{これ}ほとおふごとやつたもの [菊]わしや又こちらの事かと思ふてびつくりしたはひなア [辻]サイナア私迄{わたくしまで}びつくりさしてから是{これ}其やうにいらいないらやいらふほどおふきうなるわいな (上ノ十八ウ) [作]@かさまおふきうなると貴{き}さまのやつかいじやの [辻]しれた事{こと}いナ ト真顔{まがほ}でいひふと心付思はずふつと吹{ふき}出す [菊]おつさん何わらひじやぞい@ [辻]何のいナアノお人のいふてじや事をうつかり相@{あ@て}になつてあほらしいホヽヽヽヽ [菊]わしやいつそ気が済ぬ 作さんどふせういナ [作]ハテどふといふたら此状は大間違{おヽまちが}ひじや [菊]どふして [作]間違{まちが}ひといふは@ひ/\菊をやめにしてくれと書てあるはおまへの事じやない (上ノ十九オ) こりや嘉吉が商売{せうばい}の注文{ちうもん}じや [菊]ちうもんとはいなア [作]嘉吉は悉皆{しつかい}やじやによつて東で染物{そめもの}うけとつた 其注文{そのちうもん}の菊をやめにしてくれじや 此菊は大{おヽ}かたもやうの事であろ [菊]ヱヽそふかい [作]ソレかへす書に若{もし}いよ/\菊に致{いた}し候はヾ光琳{かうりん}に致し度候ナント [菊]ほんになアおつさんみんか [辻]ヲヽおかしいやいナ [菊]あんまりあほらしい [作]きついあはてナ (上ノ十九ウ) [辻]しかし是で落付{おちつき}@であろ [作]いわひごとに一{ひと}てうしはありそふな物じや トいひつヽ蠅{はい}いらずをうかヾひ [作]おふかたしけであろ ト見て [作]大{おヽ}坂みづからに小梅。 干大根{ほしだいこん}の五分切{こぶぎり}の三ばいづけ 扨焼豆腐椎{やきどうふしゐ}たけにくはへのにしめちよつぽりこちらにこんにやくの白{しら}あゑ ハゝアまあしあげには御{ご}ていねいじや [菊]作さんいやへぎゑんのわるい [作]おつと待{まつ}たり生{なま}ぶしに笋子{たけのこ}何じやにしんのこぶまき (上ノ二十オ) おまへ猫{ねこ}と心安ひそふな [菊]いやいなそりやおとのたべものじやわいナ [作]狆{ちん}こそめいわくなれ [菊]作さん大きらひ [辻]ほんにのり出{だ}しんか すもじせう [菊]さかな戸棚{とだな}の引出しあけ [辻]よし/\ ト引出{ひきだ}しよりのりを出して [辻]ほんにまだ飯{まヽ}たべずじやなア [菊]今の騒動{さうどう}で忘{わす}れて居{ゐ}た ついたべてしまうはヘ ト夫婦{ふうふ}はうらからすぐに内に入 [辻]おしなどん御苦労{くらう}さん 菊さんが飯{まヽ}たべるといふてじや (上ノ二十ウ) 早{はや}ふいんであげ [下女]ハイ/\ 辻袋戸棚{ふくろとだな}より松の友{とも}三ツ四ツ出し [辻]是{これ}おとぼんにやつておくれ [下女]おかたしけなふござります [狆]ワン/\ [下女]ヲヽ行義{げうぎ}わる 内でたべ ト裏{うら}より出て行 [辻]おまへもかゝり合{あい}じや 玉子焼{たまごやい}ておくれ [作]口につかはるヽ身{み}ぞつらや トいひつヽ火鉢{ばち}の火をひろげ玉子を焼{やき}にかゝる [辻]うどかほしいけれど味付{あぢつけ}にやならずほんにまヽがさめにやよいが (上ノ廿一オ) ト櫃{ひつ}の蓋{ふた}をとつて見て [辻]よし/\まだあたヽかひ トニ人ごて/\鮓{すし}つけている所へ表{おもて}から息{いき}を切て悉皆{しつかい}や嘉吉あがり口に手をつき [嘉吉]御注進{こちうしん}/\ [辻]嘉キさんびつくりさしじや [嘉]びつくり所じやなひ ゑらひ事が出来{でき}た [辻]ゑらひ事とは何じやいな [嘉]びつくりしいなヤ [辻]ヲヽいやわけもいわずに [嘉]いやもふゑらひ事じや [辻]ヲヽしんきはやういふてかしいなア [嘉]やかましういひな いふにいはれぬ事じや (上ノ廿一ウ) [辻]いふにいはれぬとは何じやいな [嘉]サアいふにいわれぬといふはナ里橋{りけう}さんが坊主{ぼうず}に成{なつ}た [辻]ヱ [嘉]何といふにいはれぬ事であらふがナ [辻]ヲヽしんきちやりかいな びつくりさしてじや [嘉]おつさんちやりじやないほんまの事じや 何と珍説{ちんせつ}てあらふがナ [辻]嘘{うそ}つき 何の里橋{りけう}さんが [嘉]ほんまに坊主{ぽうず}に成た [作]ト思ふたら夢{ゆめ}が覚{さめ}たか [嘉]ゆめ所じやなひはしかじや/\ [辻]はしかとはいな (上ノ廿ニオ) [嘉]ましんじやといふ事 [辻]そふかいないつたい何でじやいナ [嘉]何では裏{うら}の先生{せんせい}の事が内へしれて [辻]嘉吉さんまち ほんまの事ならうらの子が聞{きく}とわるひ ちいさい声{こへ}していひ ト嘉吉声{こゑ}をひそめて [嘉]所が段{だん}/\去年{きよねん}から先生{せんせい}につかふた尻{しり}が皆{みな}われて備前{びぜん}の一家{いつけ}へあづけると内{ない}々相談{さうだん}がきはまつた所{とこ}でかんてき先生ちらりと聞て何の十貫目や廿貫目のかねで一生田舎{いなか}住居{すまい}しやうよりといふて今朝{けさ}ころりとやられた (上ノ廿ニウ) [作]ほんにそりやおふ事じや [嘉]さしづめ作さんはかけ付て殿御存生{とのこぞんじやう}のうち御尊顔{そんがん}を拝{はい}し奉るといわにやならぬ役{やく}しや [辻]おもしろさふにそこ所かいな [嘉]我等{われら}さしづめ襖{ふすま}たヽいて郷右ヱ門殿{どの}/\といふ顔{かほ}じや時にうらの先生{せんせい}何にもしるまひ [辻]私等{こちら}さへ今聞たがはじめてじやもの [嘉]しかし聞たら恐悦{けうゑつ}であろ [辻]何でいな [嘉]ハテ里橋{りけう}さんがアヽなつたらまいつぱい出るであろ (上ノ廿三オ) [辻]かわいそふにそんな気でもあるまひ [嘉]なんの大{たい}てい皆{みな}それじやもの [辻]イヤ/\そんな事はちやりにもいふてやりな [嘉]おつさん見い 膳{せん}の上{うへ}の箸{はし}じや ト咄{はな}しして居{ゐ}るうち菊枝{きくゑ}嘉吉が声{こゑ}を聞付{きヽつけ}うら口より立聞{たちぎヽ}して居{ゐ}る 作治ちらりと見{み}て [作]お辻うら口に誰{たれ}やら立ているそふな 一寸{ちよつと}見や トいふにおどろきさし足{あし}にて菊枝{きくゑ}うちへ戻{もど}る (上ノ廿三ウ) 下女は水走仕{たなもとし}まふている 菊枝{きくゑ}は居間{いま}に入{い}る 是をきつかけに六角{かく}の暮{くれ}六ツの鐘{かね}ゴヲン 折{おり}ふし表{おもて}の浪崎{なみざき}にて 哥『花も雪もはらへばきよきたもとかなほんにむかしの無{む}かしのことよわが待{まつ}人はわれをまちけん ト弾出{ひきいだ}す 此哥{うた}を聞{きヽ}ながら思案{しあん}して居{ゐ}たりけるが何思ひけん硯取出{すゞりとりいだ}し行燈{あんどう}のもとにて長{なが}/\と文{ふみ}したゝめ扨鏡台{けうだい}におし直{なを}りつく/\と我顔{わがかほ}をうち守{まも}り思はずほろりとなみだぐむ (上ノ廿四オ) 哥『おしの雄鳥にものおもひねの氷るふすまになく音{ね}もさぞなさなきだにこゝろも遠き夜半{よは}のかね ト寺々{てら/\}につきすつる鐘{かね}ゴヲン/\/\ 哥『きくもさびしきひとりねの枕にひヾくあられの音ももしやといつそせきかねておつるなみだのつらヽよりつらき命はおしからねども恋{こい}しき人に罪深{つみふか}く思はぬ事のかなしさにすてた浮{うき}すてたうき世の山かづら (上ノ廿四ウ) ト連弾{つれびき}のあわれを聞{きく}に付我身{つけわがみ}かなしく髪{かみ}すきあげ左{ひだり}に髻{もとどり}右{みぎ}に剃刀{かみそり}を持友白髪{もちともしらが}までもと思ひしかいも朝{あさ}な夕{ゆふ}なちすじとなでし黒髪{くろかみ}をおもひ切て根{ね}もとよりふつつとおし切{きる} (上ノ廿五オ) 折節中仕切{おりふしなかじきり}の襖{ふすま}をおしあけ [辻]菊さん何しいじや ト声{こへ}かけられはつと斗{ばかり}にさしうつむく お辻は周章{あわて}かけよつて [辻]おまヘマアめつさふな事しいたなア トおつじが声{こゑ}におどろき作次{さくじ}も共{とも}にかけつけ [作]おまヘマァ何でこんな事したのじや [辻]お前{まへ}何ぞ聞たか ト夫婦{ふうふ}せりかけ尋{たづ}ねけるに菊江はなみだの顔{かほ}を上 (上ノ廿六ウ) [菊]嘉キさんのはなし聞{きい}たによつて [作]里橋{りけう}さんの事を [菊]何ぼうふがいなひわたしでも旦那{だんな}がそんな身になりなさつたと聞{きい}てどふマアかうしていらるヽものでといふてそんな身{み}になりなさつたらとても一所{いつしよ}にはいられまひと思ふによつて [作]たとへ尼{あま}のすがたに成{なつ}ても里橋{りけう}さんとそいとける心で [辻]そりやおまへしれた事 其気でなふて此やうに思ひ切た事がなるものかいナ (上ノ廿七オ) [作]いよ/\おまへ其心ならねがひの通りにしてあぎやう [菊]そんならわたしを [作]尼{あま}ではおかぬかもじを入てもとの姿{すがた}に [菊]そふしてどふするのじやゑ ト此時勝手{かつて}より [嘉]千秋万歳の。ちはこのたまをたてまつる{@} ト片手にてうし片手にのりずしを丼{どんぶり}に入持て来り真中{まんなか}へなをし置{おく} [菊]作さんこりやマアどふじやいなア [作]まづ此様子といふはおまへも聞{きい}ての通り里橋{りけう}さんには中立売{だちうり}の森井{もりゐ}のむすめ御{ご}をもらふはづでいひやくそくがあつた所が去年{きよねん}の冬{ふゆ}そのむすめが死{しな}れたじや (上ノ廿七ウ) そこで其後方{そのゝちほう}/\から言入{いヽいれ}はあれど兎角里橋{とかくりけう}さんが合点{がつてん}せぬでマア嫁{よめ}ざたはわいやりになつてあつた所が此春{はる}は親旦那{おやだんな}の本卦{ほんけ}ですぐに隠居{いんきよ}のつもりなれどかんじんの嫁{よめ}がきはまらぬので隠居{いんきよ}がならぬと一家衆{いつけしう}が毎日/\の相談{さうだん} (上ノ廿八オ) 里橋{りけう}さんはぜひお前{まへ}を内へ入{いれ}たい心なれど腹{はら}は立{たて}テな じやがもしやお前が一ぱいする気{き}でいまひものでもなひのにとも/\世話{せわ}して内へ入さした時は私等{こちら}もすまず しかし実{じつ}/\おまへ里橋{りけう}さんゆへなら尼{あま}になつてもといふ心ならハテ里橋{りけう}さんはもとより其気{そのき}わたしらもとも/\いひ入て白{しろ}むく着{きせ}て盃{さかづき}がさせたさ来たがる里橋さんを禁足{きんそく}させた此狂言{けうげん}の作者{さくしや}は近松作二{ちかまつさくじ} (上ノ廿八ウ) [嘉]筆{ふで}とりはマアわしかい [辻]ほんに思ひがけもなひ何所{どこ}で仕組{しぐん}で来{き}てやらわたしにもしらさず [嘉]ハテ七人の子はなすともじや [辻]ヲヽすかん [菊]作さん何にもいひませぬ 是{これ}じやはヘ ト手を合す [作]マアわるう聞{きい}ておくれぬでわしもうれしい 何よりはおまへの誠{まこと}がみへて里橋さんもさぞおよろこび (上ノ廿九オ) おまへも仕合わしも世話{せわ}したかいがあるといふもの 是{これ}を思へば玉子の四角{しかく}がないとはいはれぬ とばつたりきせるを落{おと}し芙雀{ふじやく}の気どり [辻]これじやら/\といわずと菊さんのアノつむりはどふせうぞいな [作]どふといふて俄{にわか}にはへるものじやなし ナント菊さんものは談合{だんかう}じやがおまへその天窓{あたま}を幸{さいわ}ひに親旦那{おやだんな}と隠居{いんきよ}しんか [菊]こちやいやいナ (上ノ廿九ウ) ト行燈{あんとう}のかげへかくるヽ [嘉]時に此やうすを聞{きヽ}に旦{だん}しう追付{おつゝけ}おなりであろ [菊]そふかいおつさん此髪{かみ}どふせういナ [辻]ほんにどんなものじやなア トいふて居{い}るうちしと/\とあやしき足音{あしおと}する 嘉吉聞耳{きヽみヽ}を立{たて}そつとうかゞひ小声{こごへ}にて [嘉]是{これ}たしか トたか/\ゆびを見せる [辻]だんなかへ [作]シイ トおの/\無言{むごん}になると切戸{きりど}がギイ菊枝行燈{あんどう}をフツ (上ノ三十オ) 竊潜妻 巻の上終 (上ノ三十ウ) 竊潜妻{ていけのはな} 巻の下 盛田小塩著 妓婦実{しよらうのまこと} 唐土{もろこし}の孫敬{そんけい}は草廬{さうろ}を鎖{とさ}して学{まな}び休穆{きうぼく}は冠{かふり}の落{おつ}るをしらずして学{まな}ふふぢや伊左ヱ門は粋{すい}を学{まな}ばんとして終{つい}に旧家{きうか}を出て馬町の閑居{かんきよ}を鎖{とざ}して冬編笠{ふゆあみかさ}の赤ばりしをしらずとなん爰{こヽ}に東都浅草辺{とうとあさくさほとり}の秋風{あきかぜ}なる者貧{ひん}を学{まな}ばんとして既{すで}に古郷{こけう}を去{さつ}て京師{けいし}に登{のほ}る。所は知恩院{ちおいん} (下ノ壱オ) 古門前に新{あたら}しき格子{かうし}づくり門口{かどぐち}は間半{まなか}の猿戸{さるど}をたて竊{ひそか}なる住居{すまい}は何渡世{とせい}とはしら川のながれに近{ちか}き秋風がわび暮{ぐら}し男世帯{せたい}の気{き}さんじは鍋{なべ}の尻{しり}かヽざれば許多{そこばく}の薪{たきヾ}の費{ついへ}をしらず八方の燈火{ともしび}は六つより六ツ迄燈捨{ともしずで}なれば油は水のごとくに遣ひ捨{すつ}る銀{かね}の冥加{みやうが}に月夜も闇{やみ}も妓婦{じよらう}に打こみ頓{やが}て紙古{かみこ}を着{きる}斗り大方本望遂{ほんもうとけ}たりとは此大三十日のむつかしさ (下ノ壱ウ) けふぞ越{こへ}なん年の関{せき}と秋風は奥{おく}の間に二日酔{ゑい}のむかひ酒 出入の按摩{あんま}に酌{しやく}とらせ 自身鋤焼{じしんすきやき}の鴨{かも}のあぶらはいとおろかなる食追従{しよくついしゃう} [按摩]旦那は強{がう}酒にきはまつた きのふからの飲{のみ}つゞけにむかひざけならあつさりと湯豆腐{ゆどうふ}に錦木{にしきき}といふ所を鴨の鋤焼{すきやき}とは恐れ入ました [秋風]何さ上方{かみがた}の酒だから中/\持{もち}まへの手なみが見せられネヱ どふいつても江戸で飲{のむ}酒は七十五里の遠州灘{ゑんしうなだ}を越{こし}だものだから和{やわ}らかさも和{やわ}らかし肴{さかな}も口にあつているからのめるとたしちやア酒天童子{しゆてんどうし}が干鱈{ひだら}つかつておじぎするくらひだつケ (下ノニオ) [按摩]いかさまこれより深酒{ふかざけ}ならたまりますまひ [秋風]かの寺岡{てらおか}平右ヱ門が御酒でもむりにまいらずばよもお命{いのち}もつゞきますまひといつたれどおれがやうに飲{のん}ではよもお命もつゞきますまひだ ソレ北山しぐれじやあつい所をいかつしナ [按摩]私{わたくし}は先こくからたいぶんやりました (下ノニウ) 治助さんはどふじやナ [秋風]そふサ治助一ツのまネヱカ [治助]有がとふございます 今少し算用{さんよう}をして居{おり}ます と台所{だいどころ}にて帳面扣{ひか}へ十露盤{そろばん}をおいて居る [秋風]ハテいくら十露盤{そろばん}おいたといつて迚{とて}もはじまらぬせつきだ 打{うち}やつて置{おく}がいひ [治助]イヤそふでもござりませぬ トやはりぱち/\やつて居{ゐ}るト表{おもて}から [酒や]おこと多{おふ}ござりませう [治助]たれだナ [酒や]酒屋でござります (下ノ三オ) [治助]酒やさんか 段々{だん/\}おそくなりましたが ト半分聞ず [酒や]だん/\お払{はら}ひがのひましてござります どふぞ今日はおかし下さりませ [治助]サアそれは至極{しごく}御尤だが迚{とて}も今日の事には [酒や]テモ今日は大節季{せつき}でござります [治助]サア大節季は承知{せうち}してゐるが何分{なにぶん}国からたよりがねヱから トぐづ/\いふて居るを秋風聞かね [秋風]治助いひはナ ばんほど勘定{かんじやう}致すといふがいひ [治助]それじやと申まして (下ノ三ウ) [秋]ハテそれでいひ晩{ばん}ほど/\ [酒や]ハイさやうなら晩ほどお頼申ます ト出て帰{かへ}る [治]モシ旦那{だんな}酒屋も彼是{かれこれ}二節季{せつき}またしたから十五貫斗りござります おまへの様{やう}にばんとおつしやつちやア晩{ばん}に来{き}た時はらを立ます [秋風]ハテマア晩{ばん}にして機嫌{きけん}よくけへすがいひ 一寸のびればひろといふはナ [治]それじやと申まして ト治助は天窓{あたま}かきながら投首{なげくび}している ト表の猿戸{さるど}がぐわらり (下ノ四オ) 治助は南無{なむ}三又来たとヒヤリと思ふて居る所へかごしまの音{おと}カラ/\ト内に入は秋風が深{ふか}きゑにしをむすびたるます本{もと}やのつゆとなん聞ゆ 当時{とうじ}の名妓{めいぎ}年の頃は廿二三にていつたいじまひと見髪{みへあたま}の道具{どうぐ}も当時流行{いまりうかう}の狐{ばか}とやら怪{あや}しきを用ひず尤櫛{くし}は風折蒔絵{かざおりまきゑ}の木ぐしなれども笄玉簪{かうかいかんざし}の類{たぐひ}は鼇甲{ほんまもの}にてさしならべ生壁羽二重{なまかべはぶたへ}の小袖に金糸{きんけ}なしの糸錦{いとにしき}の帯{おび} 神参りの戻{もど}りとみへ少婦{めろ}を門{かど}口よりかへしそつとさし足にて中戸口から (下ノ四ウ) [露]おことうござりませう [治]ハイ何屋さんだネ ト露ふつと吹出す 治助見て [治]かけこひかと思つたら露さんか おめへのぶしやれは能承知{よくせうち}していて時々{とき/\}くふよ [露]ヲヽうそてうし合{あは}して置て [治]何サほんとサ マアおあがり [露]秋さん{しうさん}はへ [治]奥に居さつしやります [露]そふかひ トいヽながら上り [露]ヲヽしんど ト火鉢{ひばち}の傍{そば}にかしこまりたばこのみながら (下ノ五オ) [露]モシゆふべの物見せんか ト奥{おく}より [秋]何を [露]何をもすさまじい わしやよふしつているけれど [秋]しつているなら見ずともよかろふ [露]イヽヱあんまりかくしなさるから [秋]何だかしりもしネヱもの [露]急度{きつと}しらずか おまへに見せる物がある [秋]おもしろひネ [露]ヲヽにく誤{あやま}りなゑ ト立てつか/\と奥に来り [露]何じやいナ 昼中{ひるなか}に屏風{べうぶ}を立てヲヽくら ト按摩{あんま}の傍{そば}にすはり [露]おまへそれほど覚へのなひものが一昨日{おとヽい}のばん繩手{なわて}の抜{ぬけ}うらから何で出ゑた (下ノ五ウ) それでもかくしるか ト按摩{あんま}をこそぐりにかゝる 按摩{あんま}たまらず吹出{ふきだ}す 露此声{こへ}を聞て ヲヽいやたれじやいナ [按摩]ハイわたくし トつゆ顔{かほ}をすかし見て [露]いやヽの 犬悦{けんゑつ}さんかいなすかん [按摩]そふはおつしやつて下さりますな 何ぼう私{わたくし}じやと申て [露]ほんに失礼{しつれい}な堪忍{かんにん}しいヱ いつたいくらひによつてわるひ ト自身{じしん}立て屏風{べうぶ}を明ケて秋{しう}さんのいぢわる (下ノ六オ) ちやつとこたつにかくれて居{ゐ}て [秋]何さかくれるじやねヱが犬悦子{けんゑつし}と何かむつかしい取合だから聞ていたのさ [露]いやいナ何{なん}の犬悦{けんゑつ}さんと何いふものでいナ [按摩]イヱ/\それでも今おとヽひの晩わたくしが大新の抜裏{ぬけうら}から出た事をすまんといひなさつたじやないか [露]ヲヽいや [按摩]そんならおつしやらなんだか [秋]いつた/\ おれが聞ていた [露]ヲヽお慮外{りよがい}だれが聞ていておくれといふたへ (下ノ六ウ) わしやおまへにいふたのじやわいな [按]それでも一昨日{おとゝい}のばんぬけうらから出たは私{わたくし}じやもの [露]おまへが出てヾあつた事を誰{たれ}が何といふものでいな [按]今のほどりんきしておいてから [露]ヲヽきたなだれかおまへのりんきをするものでいな [秋]サア/\こりやアたいへんにこはしかけた犬悦子{けんゑつし}すむめへ [按]さやうじやな ちと立にくいな [秋]まだ立にくいおとしではねヱが (下ノ七オ) [按]イヤモウそりや何時でもどのやうなはやわざでもお目にかけるじや [露]ヲヽなさけな 犬悦さんによばれた女中は難義{なんぎ}であろふナ [按]なぜな [露]なぜてゝ ト犬悦{けんゑつ}が顔{かほ}を見てちやつと顔に袖{そで}をあて笑{わら}ふ [按]かふ申たら少しうけにくいかはぞんぜぬが私が一度よんだ女郎{ぢよらう}は一生得{ゑ}わすれぬげな [露]ヲヽいや何でいな [秋]あたご山サ [露]ムヽしんどいかへ [秋]何サ長床坊{ながとこほう}といふ事だ [露]ヲヽなさけな (下ノ七ウ) [按]何てもとくしんさすじやて そこで忘{わす}れられぬから一いきはモウ色{いろ}がふつて/\後{のち}にはへとの出{で}るくらひてこざりました [秋]そこで名が犬悦サ [按]ハヽヽヽヽヽヽ ト表{おもて}がぐわらり [肴や]ハイ肴{さかな}やでござります [治]扨毎度気{まいどき}の毒{とく}だが ト奥{おく}から [秋]晩{ばん}だ/\ [肴や]さやうならお頼申ます ト出て行 治助は小ごへにて [治]是はこまつたものしや ト又表がぐわらり [生洲]ハイ松源でござります [秋]晩{ばん}だ/\ [生洲]ハイ/\ (下ノ八オ) ト出て行 [露]秋{しう}さんあしたのこしらへはモウ出来{でき}たかいな [秋]こしらへとは何を [露]あしたは元日{くわんじつ}じやないかいな [秋]たしかそんな事じや [露]サアそれで何やかやのこしらへの事じやわいな [秋]何やかやとは何をこしらへる [露]ヲヽしんき マア組重{くみじう}からおぞうにからそふしてアノ何。三宝{ぼう}に何やかやたんとのせるものから皆{みな}けふのうちにちやんとして置{おく}ものじやないかいな [秋]そりやア女房{によぼう}の役だ (下ノ八ウ) おれに聞{きか}せずともして置{おく}がいひ [露]ハイ/\ ト勝手{かつて}へ立て来{く}る [按]モシ御酒はどふでござります [露]いやいナ此いそがしいに酒所かいな ト少{すこ}し女房{によぼう}の気どりにていふ [秋]しかし手間取ていたらおふくろが小言{ごと}いわふ [露]何のマアだいじないわいな 是治助{じす}さんおむしがあるかへ [治]みそはきのふのが残{のこ}つてあつたかしらねヱ ト立て肴戸棚{さかなとだな}より竹の皮{かわ}に包{つヽ}みし味膾{みそ}を取出す [治]是でいひかへ (下ノ九オ) [露]ヲヽすくなたつた是だけかいな [治]おめへ何にしなさる [露]おぞうにのむしをすつておくのじやわいな [治]ハァ上方の雑煮{ぞうに}は味噌{みそ}でするけへ [露]そふじやわいな [治]ハテナア江戸じやア醤油{しやうゆう}のすまし雑煮{ざうに}さ [露]すいなものじやナア トいひながら立て [露]おむしするものはどこに有ゑ ト奥{おく}から [秋]それはたしかおたび町の茶碗鉢{ちやわんはち}やと矢脊{やせ}のかヽアの所にあつたと思ふた [露]しらんわいな (下ノ九ウ) [秋]ハテしらぬからおそへてやるのさ [露]いかいおせわさんヘ トいひながらはしり先のすりばちすりこぎを取て来{き}て [露]治助{じす}さんはしりにある頭{かしら}はまだどふもせずにあるな [治]かしらとはヱヽ大そう大きな芋頭{いもかしら}の事けへ [露]あいな [治]ありやアきのふ小便{せうべん}取が持{もつ}てきたがどふしてくつたらよかろふ [露]ヲヽしんきあれはあしたおぞうにの中へ入れるのじやわいな [治]そうけへ (下ノ十オ) [露]いつかう何にもしてなひそふな トすり鉢{はち}へ味噌{みそ}を入ぐわら/\と摺{すり}かゝり [露]しんきいつそいこいてどふもならぬ [治]持{もち}ませうか [露]イヽヱだいじないわへ [按]イヤ下拙持{げせつもち}ませう ト出{で}て来り摺鉢{すりばち}を持{もつ} [露]こりやお慮外{りよがい}さん [按]是は/\何とかわりませうか [露]イヽヱだいじないわヘ ヲゝしんどちと休{やす}も ト表{おもて}ぐわらり [女]ハイ藤{ふぢ}やでござります [治]藤屋とはヱヽ二軒{けん}茶やの藤屋かネ (下ノ十ウ) [女]さやうでござります [秋]藤やもばんだ [女]ハイ/\お頼み申ます ト出て行 [露]モウよいかいな [按]私{わたくし}はしよてからよいが [露]何がいな [按]とかくサ女{おなご}はおそうよふがるものじや [露]それでもこちやモウ是てよいかわるひかしりもせんもの [按]まそつとしんぼうなされ モウ追付{おつヽけ}ようなりますぞ [露]ヲヽしんどどふやらモウよいようなわいナ [按]サアモウようなる時分{じふん}じやて [露]いつそそこらぢうへついたわいな (下ノ十一オ) [按]サアよふがるといつでもそうじやて [露]ちよつとまち一へんふくはヘ ト紙を出して摺鉢{すりばち}のふちを拭{ぬぐ}ふ [按]つゐでに是もお頼申ます ト味噌{みそ}の付たすりこぎを出す [露]ちょつとまちヘ トのべ紙二三枚{まい}にてすりこぎの柄{ゑ}を握{にぎ}りてふいてとり不斗{ふと}犬悦と顔{かほ}を見合し [露]ヲヽあほう ト笑{わら}ひ出すト又表{おもて}を明{あけ}て@{くつ}のおとぐわり/\として [肴や]また修羅道{しゆらどう}の鬨{とき}の声矢{こへや}さけびの音{おと}しんどうしてチンチツンツツンツ/\トツツンツンツンツ (下ノ十二ウ) ト少し酔{ゑい}きげんにてうたひながら中戸口へはいる [犬悦]是は一太{いちた}の番頭{ばんとう}ゑらきげんじやな [肴]サアけふは少しげんきづかにや懸{かけ}がとれぬじや そこで一てう入て気を丈夫{じやうぶ}にして払{はら}ひをいちやつくやつがあると。又修羅道{しゆらどう}の鬨{とき}の声{こゑ}と少々{せう/\}いちやもやらにやならぬじやハヽヽヽヽ [犬悦]是はお得意{とくい}さきで近頃失礼なあいさつじやな (下ノ十三オ) [肴]何の内方の払{はら}ひにいちやがあつてよいものかナア 申番頭{ばんとう}さん [治]イヤ/\めつたな事はいわれねヱ [肴]なぞと人に物を思はすように。 そりや何いはんす五郎八さん引 [秋]一太何と其口へ今一ツ入はどふだ [肴]そりや有{あり}がたひな [秋]ドレ/\ ト奥より猪口{ちよくと}とてうしを持て出 [秋]犬公{けんかう}火鉢{ばち}を是へお頼み申す ト犬悦心得{こゝろへ}おくの火鉢を持て出る (下ノ十三ウ) [肴]さやうならおじぎなしに [秋]ぬるくはねヱかあつくしてやろふ ト火鉢{ひばち}へてうしをかけ [秋]時{とき}にいかめしくいつたが肴は相州{さうしう}五郎正宗{まさむね}だ [肴]名作かな [秋]イヤきれものだ 漸{やう/\}これ一種{いつしゆ}さ [肴]何じや鴨{かも}の鋤焼{すきやき}とはきびしいものじや こりやのめるナ [秋]どれちよつとト一口呑{のん}で [秋]とふり過たくらひじや ト猪口{ちよく}を出すと一寸璃寛{ちよつとりくわん}の声色{こはいろ}にて [肴]是{これ}徳{とく}兵衛さんきげん直{なを}して盃{さかづき}さいてやらんせいのふ (下ノ十四オ) ヲヽそふじや/\ そこで一太{いちた}がいたゞいたものじや コレいただくの おヽサンマ又あろかいのチヽチヽチヽヽトチンチヽ トいひながら自身酌{じしんしやく}して呑{のむ} [犬]あら吉はよつほど手に入たものじや [肴]なぞとてうしを合してくれる事もないじやないか 調子{てうし}より献{こん}を合して [秋]ハテいひはナ 静{しづか}にのむがいひ トいひながらはしり先を見て [秋]治助いつの間にか花がかつてあるの (下ノ十四ウ) [治]けさ花やが持{もつ}てまいりました [秋]うちやつておいちやアわるひ [露]一太さんおまいがいつち近{ちか}ひ アノ花取てかし [肴]名{な}ざしにおふたは千代{ちよ}がめいわく トかたりながら花を取てさらば梅王と出す 露{つゆ}取つぐ 秋風とつて [秋]モウ木咲{きざき}かしらねヱ よく莟{つぼみ}を持た ト露盆{つゆぼん}をとつてわたす 秋風白梅{はくばい}と椿{つばき}を前におき二重切の置花生{おきはないけ}を取て来り生{いけ}にかゝる (下ノ十五オ) [肴]露さんといふ色をも香{か}をもある白梅{はくばい}を抱{だい}てねじめは玉椿{たまつばき}の八千代{やちよ}をこめし旦那の手いけハテ色のうき世じやよナア ト鯉三郎の声{こは}いろ [露]いやいナようおだてる人ナア トいふている折節{おりふし}表に寐{ね}ている犬を叱{しか}りつけ。ぐわらりと明{あけ}て来りしは此家{このや}の家主{いへぬし}四十六七とも見へて短{みしか}き羽織{はおり}によごれた革足袋冠落{かわたびかむりおと}した焔王{ゑんま}といふ顔{かほ}でずつとはいり (下ノ十五ウ) [家主]今朝{けさ}からも何の御沙汰{さた}もないが宿賃{やちん}はどふ成ますとあがり口にこしかける [治]段々{だん/\}と間違{まちが}ひまして申わけもござりませぬがどふぞ春早々{はるさう/\}迄御ふしやうをお願ひ申ます [家主]是々春{これ/\はる}までとはどふした御あいさつでござる そも/\九月前から滞{とヾこふ}つてそれから中仕切{なかじきり}にもさたなし 又此大晦日{おゝつもごり}もかたが付{つか}ひでは甚{はなはだ}ふらちと申さふか (下ノ十六オ) 済ぬしかたではないか ぜひけふは算用{さんよう}なされ うそをいふもほどのあつたものじや トにがり切ていふ 治助も詞{ことば}なくぐづ/\して居{ゐ}る 秋風さいぜんより花を生{いけ}ながら聞居{きヽゐ}たれば [秋]是はよく御出なされました 先刻{せんこく}からいさゐうけ玉はりましたが一/\御尤千万 しかし江戸表{おもて}から便{たより}があるはづて御勘定{かんじやう}も致すつもりでおりましたがどふいふ事か川のつかへる時分{じふん}でもねヱに今に沙汰{さた}がねヱから只今の通り申たのでございます (下ノ十六ウ) と申て 段々{だん/\}の延引{ゑんいん}御立腹{りつふく}は聞へてござります 晩{ばん}ほどはいかやうとも都合{つがう}致して御あいさつ致しませうから左様思し召て下さりませ [家主]どふぞ間違{まちがは}ぬやうなされませ もし晩{ばん}が間違{まちがふ}と気{き}のどくながら請{うけ}引取へとゞけ家を明{あけ}てもらはにやならぬ [秋]いさゐかしこまりました (下ノ十七オ) 挿絵 (下ノ十七ウ) 挿絵 (下ノ十八オ) [家主]そんなら必ず晩ほと御左右{さう}まつています トにつこりともせず出て帰る 肴やはじめ一座興{ざけう}をさましいる 秋風はひとり悦び [秋]けさからくるかけ乞{こい}に家主ほどのやつかねヱからことわけいふにほねがおれいでおもしらうなかつた やう/\家主が小言{こごと}を聞たで少し大三十日{おヽみそか}の心持がした [肴]私はせつかく酔{よふ}た酒がとこへやらいてしまふた こりやまひとつ呑{のま}にやならぬ (下ノ十八ウ) とてうしを取上 [肴]なむさんつぎめじや 犬悦さんおまへのうしろの樽{たる}をちょつと [犬]爰で直{なを}さふ とてうしを取樽{とりたる}を見て [犬]南無三{なむさん}こゝもつぎめじや [秋]イヤ/\迚{とて}も肴{さかな}のなひ酒はのんでいられぬ 二軒茶やといふしやれもまんざらじやあるめへ 一太どふだろ [肴]どふで祗園町{ぎおんまち}へ参ります おとも致しませう [秋]おもしろい 犬悦子露{けんゑつしつゆ}もいかねヱか といへとも露はうつむいている (下ノ十九オ) [秋]ハゝア酒といふとお気にいらぬ ト羽織{はおり}を引かけ出ようとする [治]モシ旦那晩{だんなばん}ほど大屋{おヽや}をどふ致しませう [秋]ハテどふともならふはナ ト一太{いちた}引つれ表{おもて}へ出て行 犬悦もともに出{で}ようとする 露ちよつとさゝやく 犬悦何か承知{せうち}して出て行 治助は大きにふさぎし体{てい}にてうつむいている 露さしよつて [露]治すさんいつたいどふいふもんじやいナア (下ノ十九ウ) [治]どふいふものは国{くに}から金{かね}が来{こ}ぬから九月前から内證{ないしやう}の大わづらひ 段{だん}/\ぶさただらけがおしつめた けふになつて誠{まこと}に壱歩{ぶ}のあてもないにめつたやたらに晩{ばん}に/\といふてかへしどふする旦那の心やら いつそ私は穴{あな}へもへいりたい心持さ イヤ又つまらねヱも尤かい 夜昼{よるひる}なしに酒ばかり呑{のん}てかねは湯水{ゆみづ}と遣ひ捨{すて}江戸にいさつしやる時もしらぬ所へ来ている時{とき}もおなじ心でござつてはさりとはつまらぬ (下ノ二十オ) といひさし不斗露{ふとつゆ}を見て少しさし合と心づきけるにや アヽ苦{く}のせかいではある と火ぜゝりして居{ゐ}る 露はさいぜんより何かしあんありがほに襟{ゑり}に顔{かほ}をさし入ていたりけるが何思ひけんつと立上り下へおりる [治]おめへおけへりか [露]アイ今ちつと思ひ出した事があるよつてちよつといんで後{のち}に来{く}るはへ [治]モシ旦那にあいなすつたらはやくお帰るやうおたのみ申やす (下ノ二十ウ) ト露は中戸口へ出かける 折節撞{おりふしつき}出す暮{くれ}六ツは治助が胸{むね}と露が身にいとヾひヾかれ [治]ありやモウ暮{くれ}六ツの [露]かねのうき世じやナア ト露は出て行 治助はこて/\灯{ともしび}をともしそこら取片付{とりかたづけ}いる ○此内米屋木やはいふに及ばずすべて懸乞矢{かけこいや}をゐるごとく来る 治助も今はふせぎかねたヾ後{のち}/\といひのがれける事初夜{しよや}より四ツに至{いた}る (下ノ二十一オ) 別{べつ}にかはりたる事なければ此一件{けん}を略{りやく}す 冤角{とかく}して四ツの頃治助はつく/\思ふに旦{だん}那も帰{かへ}り来{こ}すかけこいはます/\引もちぎらざればきつと思案{しあん}を極{きは}めこれは旦那を尋{たづ}ねがてら内にいぬがよいと火の用心を見{み}て灯{ともしひ}を吹{ふき}けし表へ出んとする所へたれかはとつかは来る体南無三{ていなむさん} 又かけ乞{こい}かとすりぬけんとする所 (下ノ二十一ウ) [露]治すさんか [治]つゆさんか [露]是一寸{ちよつと}はいり [治]きよと/\しい ト両人内へはいる 尤くらき台所{だいどころ}にこし打かけて [露]秋{しう}さんはまだかへ [治]サア今尋ねにいてかふと思ふて出かける所サ [露]そりや幸{さいわ}ひじや かならずしうさんには沙汰{さた}なしじやがナ是 トくらかりにて治助が手をとり何か手にわたす 治助持{もつ}てみるに重{おも}かりければ [治]露さん是{これ}は [露]どふそそれで今夜{こんや}の所をよいよふにしてあげておくれ (下ノ二十二オ) [治]ムヽそんならこりやたしか金じやナ マアまち トつけ木をともし行灯{あんとう}につけかの品を見て [治]こりや大かた十四五両 おまへどふして此かねを トふしぎさにつく/\と露を見るに櫛{くし}がうかいはいふに及ばず笄{かんざし}一本あらばこそありしにかはる露がかざりのさびしきに心つき [治]こりやおま{め}へつむりの道具{どうぐ}を [露]是大きな声{こへ}しいないナ (下ノ二十二ウ) [治]おめへの誠を聞れたら定めし旦那もうれしからふがつねと違{ちが}ふて明日{あす}は元日そんなあたまではいられめへ [露]何のいナ正月{かた}三日はとても見へるお客{きやく}はなし 爰へ来ていれはよい [治]そふしてこんやは [露]モウいなぬはヘ トツイと奥{おく}へいて火燵{こたつ}へはいる ○此うち昼{ひる}から約束{やくそく}のかけこひ追/\にせめかけける 治助もしばらくしあんして居{い}たれども何ぶん台所{だいどころ}は弓張{ゆみはり}の二三十もならびければモウぜひがなひと包{つヽみ}をとき片はしから払{はら}ひかけまたヽく中{うち}に十四五両はらひ切と皆逆{みなさか}さまになつて帰るこゝちよさ (下ノ二十三オ) アヽうれしやとは思へともつゆがあすから出られぬに又ひとつ胸{むね}をいためいる 折{おり}ふし帰{かへ}るあるし秋風ずつとはゐつて (下ノ二十三ウ) [秋]治助さぞおしかけたであらふ どふ切ぬけた [治]是{これ}ごろふしませ ト受取の帳面ひろげて出す 秋風一/\見て [秋]こりやアどふじや 家主{いへぬし}はじめ残{のこ}らず金の受取は ト治助かの露が情{なさけ}の一件{いつけん}をさゝやく 秋風大にかんじ又明日{あす}の事をあんじ主従顔見合{しう/゛\かほみあわし}て小首{くび}かたぶけながらとても今はぜひなしと秋風は奥{おく}に来り [秋]つゆ何{なん}にもいわぬ 是じや/\と手を合す (下ノ二十四オ) [露]こちやいやヱしらんわいナ [秋]じやといふて其あたまでは [露]ヲヽひつこ おまへをふさげさすまいと思ふたにやつはり其やうにふさいでから [秋]おつと其心ざしのむそくにならぬ様{やう}気を取直{なを}してねるにせうか ト火燵{こたつ}へはいる 折節表{おりふしおもて}をゴト/\/\ [秋]治助モウかけ乞{こい}は薬にしたくてもねヱはつだが [治]さやうサ トいひつヽ表に出 [治]だれだ [男]浅草{あさくさ}や周治{しうじ}郎さまはこなたかナ (下ノ二十四ウ) [治]アイこつちじやが ト戸{と}を明{あけ}る [男]御状がまいりましたうけとりを下さりませ ト治助状を取さら/\と受取してわたし秋風が前に来り [治]モシ江戸から御状がめいりました [秋]どれ と封{ふう}おし切ト壱歩{ぶ}で四五十両ばら/\/\ 作者此所にて口上 是{これ}にて露が情{なさけ}の質{しち}もうけ出しわきてめでたく元旦をむかへなを末ながくかたらひしは全く女郎の実{まこと}一旦の功{かう}をなしたる事爰に略{りやく}す (下ノ二十五オ) 竊潜妻 巻の下大尾 (下ノ二十五ウ) 天保三辰正月新板            伏見板橋二丁目             亀屋伊兵衛    書林      京三条柳馬場西へ入             近江屋治助 ---------------------------------------------------------------------------------- 注) ・@の置き換え  上ノ十八オ1ルビ(データでは上ノ十七ウ) @=印刷不鮮明  上ノ十八オ1(データでは上ノ十七ウ)   @=印刷不鮮明  上ノ十八オ2   @=印刷不鮮明  上ノ十八オ7   @=印刷不鮮明  上ノ十九オ1   @=印刷不鮮明  上ノ十九オ4   @=印刷不鮮明  上ノ十九オ7   @=印刷不鮮明  上ノ十九オ7るび @=印刷不鮮明  上ノ十九オ8   @=印刷不鮮明  上ノ二十オ1   @=印刷不鮮明  上ノ廿七オ5-6  @=「千秋万歳~たてまつる」に節が付されている(翻字には反映させていないため画像を参照)。  下ノ十二ウ8   @=かわへん×毛×毛×毛 ・洒落本大成本文との異同  上ノ二7-8    うの初冬 → 大成p. 195下段l. 11  とらの初冬  上ノ廿七オ7  そいとける → 大成p. 205下段l. 15  そいとげる  下ノ四ウ7  {か@かい} → 大成p. 209上段l. 4  {かうがい}  下ノ廿二ウ5  櫛{くし}がうかい → 大成p. 216上段l. 8  櫛{くし}かうかい  奥付  天保三辰正月新板 書林 伏見板橋二丁目 亀屋伊兵衛 京三条柳馬場西へ入 近江屋治助  → 大成p. 217下段写真  于時文化四歳 卯二月刻成 書林 洛南伏見下板橋二丁目 亀屋伊兵衛 蔵板