長尾山古墳の形が「前方後方墳」なのか「前方後円墳」なのかという点も、調査の重要な課題です。「円形」「方形」は、それぞれ弥生時代の豪族層の墓づくりの伝統を受け継ぐものですが、ヤマト政権の大王墓が常に前方後円墳だったことを考えれば、政権の中心人物は「円形」の墓を造る系統の集団から出てきたといえるでしょう。
近畿地方では、いくつかの地域において一代目の首長は前方後方墳だが二代目からは前方後円墳に変わっていく事例が見られます。近畿各地の首長が、ヤマト政権中央の古墳の形をいちはやく採用していったことを示しており、政権の「政治力」の広がりが速かったことをうかがわせます。 |
 |