その2
○前方後方墳か前方後円墳か
長尾山古墳の形が「前方後方墳」なのか「前方後円墳」なのかという点も、調査の重要な課題です。「円形」「方形」は、それぞれ弥生時代の豪族層の墓づくりの伝統を受け継ぐものですが、ヤマト政権の大王墓が常に前方後円墳だったことを考えれば、政権の中心人物は「円形」の墓を造る系統の集団から出てきたといえるでしょう。

近畿地方では、いくつかの地域において一代目の首長は前方後方墳だが二代目からは前方後円墳に変わっていく事例が見られます。近畿各地の首長が、ヤマト政権中央の古墳の形をいちはやく採用していったことを示しており、政権の「政治力」の広がりが速かったことをうかがわせます。
長尾山古墳の近くには前方後円墳の万籟山古墳が存在しています。もし長尾山古墳が「前方後方墳」だったとしたら、万籟山古墳との関係はどうなるのか。この点については、昨年度の調査で長尾山古墳が前方後円形である可能性が高くなったことで、前方後円墳を採用した首長がこの地で続いたという見通しが得られるようになりました。しかし、長尾山古墳は古墳の東半分の調査が行われていないこと、造られた時期の手がかりとなる埴輪資料がまだ少ないことなど、情報の不足している部分もあります。これらは今年度の調査の大きな課題です。

長尾山古墳測量・発掘調査2007
長尾山古墳測量・発掘調査2007