【日本に於けるローマ字】
ローマ字は室町末期に西洋人と共に我國に渡來した。當時日本へ來た西洋人は葡萄牙人西班牙人英吉利人などがあったが、最勢力のあったのは葡萄牙人であり、中にも、耶蘇會の宣教師は熱心に日本人の間に基督教を宣布し、後には教習所や學林を開いて、日本人にも西洋の學問を教へたので、日本人の中にもローマ字の知識あるものが出來たのである。これ等の西洋人が日本語をローマ字で寫すのに、初の中は、いろ/\の書き方をしたのであるけれども、後には耶蘇會士の間に一定の方式が出來たのである。それは、葡萄牙語に於けるローマ字の用法に基づいて、當時の日本語の標準的發音を寫したものであって、葡萄牙語にないやうな日本の音聲も、特別の工夫をして之を寫してゐる。それは大體次のやうなものである。
ア a イ i(j,y) ウ u(v) エ ye オ uo(vo)
カ ca キ qi ク cu(qu) ケ qe(que) コ co
ガ ga ギ gui グ gu ゲ gue ゴ go
サ sa シ xi ス su セ xe ソ so
ザ za ジ ji ズ zu ゼ je ゾ zo
タ ta チ shi ツ tcu テ te ト to
ダ da ヂ gi ヅ zzu デ de ド do
ナ na ニ ni ヌ nu ネ ne ノ no
ハ fa ヒ fi フ fu ヘ fe ホ fo
バ ba ビ bi ブ bu ベ be ボ bo
マ ma ミ mi ム mu メ me モ mo
ヤ ya イ i(j,y) ユ yu エ ye ヨ yo
ラ ra リ ri ル ru レ re ロ ro
ワ ua(va) ヰ i(j,y) ウ u(v) ヱ ye ヲ uo(vo)
キャ kia キュ kiu キョ kio
ギャ guia ギュ guiu ギョ guio
シャ xa シュ xu ショ xo
ジャ ja ジュ ju ジョ jo
チャ cha チュ chu チョ cho
ヂャ gia ヂュ giu ヂョ gio
ニャ nha ニュ nhu ニョ nho
カウ co< コウ co>
サウ so< ソウ so>
タウ to< トウ to> ツウ tcu<
耶蘇會で刊行した教義書日本語學書等に於けるローマ字書きの日本語は、すべてこの式に據って居る。但し、當時のロドリゲスの日本文典などには、キケヅをqui que dzuと書くなど小異がある。又葡萄牙以外の外國人は、その本國流のローマ字書き方を用ゐた。かやうな日本語のローマ字書きは、日本人にも知られてゐたであらうが、しかし主として西洋人の間に用ゐられたものであった事は疑無い。
江戸時代に入っては、和蘭以外の西洋諸國との交通を禁じ、西洋の文字を讀む事を許さなかった爲に、日本人はローマ字に接する機會がなくなったが、寛政以後、その禁が漸くゆるんで蘭書を讀むものが次第に多くなったので、蘭學者の間にローマ字で日本語を書く事が起った。そのローマ字の用法は和蘭語に於けるものに從ったが、五十音圖の組織に合致せしめたので、當時の實際の發音に合はない所がある。
ア a イ i ウ oe エ e オ o
カ ka キ ki ク koe ケ ke コ ko
ガ ga ギ gi グ goe ゲ ge ゴ go
サ sa シ si ス soe セ se ソ so
ザ za ジ zi ズ zoe ゼ ze ゾ zo
タ ta チ ti ツ toe テ te ト to
ダ da ヂ di ヅ doe デ de ド do
ナ na ニ ni ヌ noe ネ ne ノ no
ハ fa ヒ fi フ foe ヘ fe ホ fo
マ ma ミ mi ム moe メ me モ mo
ヤ ja イ ji ユ joe エ je ヨ jo
ラ ra リ ri ル loe レ le ロ lo
ワ wa ヰ wi ウ woe ヱ we ヲ wo
かやうにローマ字で日本語を書いたけれども、それは蘭語を學ぶ階梯とするのが主であって、實用には供せられなかったものと思はれる。
しかるに、明治以後廣く西洋諸國と交通するに及んで、西洋人に對する場合には、日本語をローマ字で書くのが習慣となって、今日に及んでゐる。さうして、日本語の書き方は、西洋に於ては、十九世紀初頭以來の獨逸、和蘭、英吉利、佛蘭西等の學者は、各其の國に於けるローマ字の用法に準じて、日本語の實際の發音に近い綴り方を用ゐたのであるが、日本に於ては、明治以後英語が次第に盛に行はれるやうになり、漢字假名等を廢して、ローマ字を以て日本語を書くべしといふ論も起り、遂に明治十七年、主として西洋で學んだ日本の學者に、日本語に通じた西洋人も參加して羅馬字會が設立せられ、翌十八年、ローマ字による日本語の書き方を定めて發表した。それは、假名書きに據らず實際の發音により、子音は英語の發音を取り母音は伊太利獨逸又はラテン語の發音を取ったものである。この羅馬字會のローマ字綴り方は、當時あった最優れた和英辞書なるヘボンの和英語林集Hepburn:Japanese - English Dictionaryの改訂第三版(明治十九年刊)に採用せられて廣く世に行はれ、爾後、政府の文書のみならず、外國でも日本語を書く場合にはこの式を用ゐるのが慣習となってゐる。
然るに、ローマ字を日本に於ける常用文字とすべしと主張する人々の一派に、右の羅馬字會式の綴り方(これはヘボンの辞書に採用せられたから、ヘボン式と呼ばれる)は外國人の書き方を主としたもので、日本人には不適當であるとし、これとは異なる書き方を主張するものがあったが、後に之を日本式羅馬字と稱した。その(ボン式と異なる主な點は次の通りである。
(ヘボン式) (日本式)
サ行音 sa shi su se so sa si su se so
ザ行音 za ji zu ze zo za zi zu ze zo
タ行音 ta chi tsu te to ta ti tu te to
ダ行音 da ji zu de do da di du de do
ハ行音 ha hi fu he ho ha hi hu he ho
サ行拗音 sha shu sho sya syu syo
ザ行拗音 ja ju jo zya zyu zyo
タ行拗音 cha chu cho tya tyu tyo
ダ行拗音 ja ju jo dya dyu dyo
この日本式は、假名式及び五十音圖式ともいふべく、單音文字なるローマ字の特質を没却した嫌のあるもので、實際の發音に合致しない所が少くない。この一派の書き方は、之を主張する人々の熱心なる努力によって、近來かなり行はるゝに至った。
【參考書】
(文字一般)
世界文字學 高橋龍雄
T. W. Danzel: Die Anfaenge der Schrift, Leipzig 1912.
H. Jensen: Gescichte der Schrift, Hannover 1925.
J. Vendryes: Le Languege, Paris 1921.
其他言語學一般に關するもの
(漢字)
支那文字學 武内義雄(岩波講座日本文學)
中國文字變遷考 呂思勉
字例略説 同上
中國文字學 顧實
段註説文解字 許愼撰段玉裁註
漢字要覧 國語調査委員會
漢字の形音義 岡井愼吾
禹域出土墨寳書法源流考 中村不折
漢字原理 高田忠周
漢字詳解 同上
(日本の文字)
同文通考 新井白石
國字考 伴直方
字體考 佐藤誠實
欟齋雜考 木村正辞
現代國語精説 日下部重太郎
其他國語學一般の參考書
(神代文字)
神字日文傳 平田篤胤
日本古代文字考 落合直澄
假字本末附録 伴信友
(假名及び假名遣)
假字本末 伴信友
文藝類纂(字志)榊原芳野
假名考 岡田眞澄
和翰名苑 縢孔榮
かな字鑑 松下太虚
假名遣及假名字體沿革史料 大矢透
假名源流考 大矢透
假名の研究 大矢透
假名の字源について 橋本進吉(明治聖徳記念學會紀要)
音圖及手習詞歌考 大矢透
假名遣の歴史 山田孝雄
疑問假名遣 國語調査委員會
和字正濫鈔 契沖
假字大意抄 村田春海
(ローマ字)
日本ローマ字史 川副佳一郎
國字問題の研究 菊澤季生