波行子音の變遷について 橋本進吉 「岡倉先生記念論文集」昭和三年十二月十日  國語の波行子音、即ちハヒフヘホの最初の子音は、現在に於てはh音又 は之に近い音であるが、古くはF音であり、更に古くはp音であったらう といふ事は、Hoffmann, Edkins, Satow, Chamberlain, 上田萬年博士、大 島正健博士、岡倉由三郎氏、金澤庄三郎博士、伊波普猷氏、安藤正次氏な ど、内外の學者の討究によって、ほゞ明かになった。しかるに、pからF へ、Fからhへと轉化したのは果して何時であったかといふ年代上の 問題になると、今猶明かでない點が多いのである。そのうち、Fからhへ の推移については、前にはHoffmanの外國人の書いた資料に基づく提 案があり(1)、近頃また新村出博士の國内の文獻による研究があって(2)、室 町時代の標準的發音はFであり、Fからhに遷ったのは主として江戸時 代に在った事が知られるにいたったが、pからFへの推移の年代につい ては、上田博士は奈良朝以前にありとせらるるやうであり(3)、安藤氏は奈 良朝を以てその轉換期であららかと説かれて居るが(4)、まだ定説とする事 は出來ないやうにおもはれる。それは、それぞれの時代に於て、たしかに F又はpと發音した事を證明すべき確實な根據がまだ提出せられて居な いからである。 註 (1) J. Hoffman; A Japanese Grammer. Leiden, 1868. Introduction p. 15-. (2) 波行軽唇音沿革考(雜誌國語國文の研究、昭和三年一月號) (3)國語のため第二(明治三十六年刊)p音考 (4)古代國語の研究(大正十三年刊)162頁以下  平安朝に於ける波行子音の發音がFであった根據として安藤氏が挙げ られたのは、平安朝初期から中期にかけて波行音が和行音に變化した事で ある。和行子音wは両唇の間をせばめて發する摩擦音であって、両唇を閉 ぢて發する破裂音であるpよりも、両唇をせばめて發する摩擦音なるF によほど近いのであって、pが直にwに變じたとするよりもFがwに 變じたとする方がよほど自然であるから、この點からして波行子音がF であった事を主張するのは甚有力である。しかしながら、波行音が一般に 和行音に變じたのは、「はる」「ひと」「ふね」「へた」「ほね」のやうに語の 最初に在る場合でなく、「かはる」「こひ」「おもふ」「かへる」「かほ」の如 く、語の中又は終にある場合であって、音の變遷は、語頭音の場合と語中 又は語尾音の場合と、必ずしも同様でない事は、東西古今の言語史に於て 屡遭遇する事實であるから、この二つの場合は、別々に考察するのが當然 である。  語中語尾の波行音が和行音と同音になってしまったのは、平安朝中期 以前であらうが、そのなり初めたのはかなり古く、奈良朝に於て既にその 痕跡が見られるのである。萬葉集に、「かほ鳥」を「杲鳥」と書いてある如 きが即ちそれであって、この例によれば、カホが、少くとも或場合にカヲ と發音せられたものと解さなければならないのである。さうして、かやう にホがヲと同音になったのは、當時の波行子音がFであったからである とすれば、波行子音は、語中及び語尾に於ては、奈良朝時代に既にF音で あったと考へなければならない。それが奈良朝から平安朝に入るに隨っ て、段々w音に變化し、平安朝の半頃には、すべて和行音と區別がないや うになったものと思はれる。現に今日まで天台宗に傳はって誦へられてゐ る古代の佛教讃歌の一なる法華讃歎に   法華經を我が得し事は薪樵り菜摘み水汲み仕へてぞ得し とある「事は」の「は」を明にFaと誦へる事となってゐるが、この歌は、 平安朝の中頃(永觀年中、西紀九八三年頃)に源爲憲の作った三寶絵詞の中 に、光明皇后作或は行基菩薩作として載せられ、その用語及び形式からし ても奈良朝のものとも見得るものであり、又上のやうな「は」は、天台の 聲明でも他の場合にはワと誦へるのに、この歌ばかりにFaと發音するの は、よほど古い時代の發音を傳へたものと考へられるのであって、奈良朝 の發音でないまでも、平安朝初期の發音をそのまま傳へてゐるのであらう かと思はれる。果してさうであるとするならば、これも語中語尾の波行子 音が平安朝初期又はそれ以前に於てF音であった事を證するものと觀る 事が出來よう。  次に語の最初に於ける波行音はどうかといふに、既に安藤氏も指摘して 居られるやうに、この場合にも波行音が和行音に轉じたと見られる例があ る。「はつか」と「わづか」(共に僅の意味)、「はしる」と「わしる」(走の義) などがそれである。「はつか」「わづか」は共に平安朝以後のものに見えて ゐる語であり、「はしる」は奈良朝以前からあるが、「わしる」は平安朝以 後にはじめて見える語である。しかし、古事記及び日本書紀の木梨軽皇子 の御歌の「あしびきのやまだをつくり、やまたかみしたびをわしせ」の「わ しせ」を「走らせ」の義に解してゐるによれば、「わしる」も奈良朝以前か らある事となるのである。この「はつか」及び「はしる」が單なる音轉化 によって「わづか」及び「わしる」となったものであるならば、これ等の 「は」が平安朝初期又は奈良朝(或はそれ以前)に於てFaと発音せられた と考へる事が出來るのであるが、かやうな例は、語中及び語尾の波行音が ことごとく和行音と同音となったのとはちがって、唯二三の例しか見出さ れないのであるから、果して單純な音變化によるものか、類推其他心理的 要素の加はって出來たものか、又は全く語源を異にした類義語で偶然語形 が類似してゐるだけのものか、たしかでない。それ故、語頭に於ける波行 子音の發音を推定する根據としては、まだ不十分であるといはなければ ならない。  それでは、語頭の波行音の發音を知るべき資料は他に無いかといふに、 必ずしもさうでない。まづ近古から溯って行くに、室町時代の標準的發音 に於て語頭の波行子音がFであった事は耶蘇會士が日本で出版した教義 書語學書等に於ける日本語の羅馬字綴、支那人の作った日本語學書や日本 關係書中の日本語の寫しやう、新村博士が見出された後奈良院御撰の何曾 などによって明である。南北朝頃のものでは、元末明初(日本の南北朝頃) の人である陶宗儀が著した書史會要卷八に、日本の伊呂波をあげて、漢字 で、その発音を註したものがある。宗儀が親しく日本僧克全(字は大用)に 會って聞いたもので、その當時の發音を寫したものとおもはれるが、その 中波行の假名に關するものは次の通りである。 は 法(平聲)近排 ほ 波(又近)婆 へ 別(平聲又近)奚 ふ 蒲(又近)夫 ひ 非  當時の支那語の發音は明でないけれども、現代の發音から推せば、大體、 法はfa、排はp'ai、波はpo、婆はp'o、別はpieh、奚はhi、蒲はp'u、夫はfu、 非はfeiらしく、波行子音を、或はf或はp或はp'(ph)或はhで寫して ゐるのであって、その間に統一が無いやうであるが、一々の假名について みれば、一つの假名を、同じ子音ではじまる二つの漢字で寫したものは無 く、いつもfとp'、又はp'とp、又はpとhのやうに、ちがった子音を有 する漢字で寫して居るのである。これは、多分、日本の波行子音が両唇音の Fであって、歯唇音である支那のf音とも正しくは一致せず、両唇音 のpやp'とは、違ひはあるが、また却って性質の似た點もあるので、いろ いろ違った漢字の音を併せ擧げて日本のFの發音をあらはさうと企てた のであらう。又ホヘの如きは、漢字では之に近い發音のものが見當らない 爲、やむを得ずpo又はp'o、pieh又はhiのやうな、やゝ遠い音を有する 漢字を之に宛てたので、やはり波行子音はFであったらうと思はれる。  次に鎌倉時代に溯ると、宋の羅大經が日本僧安覺から聞いた日本語を、 其の著鶴林玉露の中に擧げてゐるが、そのうち、語頭の波行音はフデ(筆) を「分直」と書いたものしか見えないが、この「分」もfではじまる語で ある。安覺は良祐と称し、栄西禅師の俗弟で、在宋十餘年、建保二年(西紀 一二一四年)帰朝した。平安朝末期から鎌倉初期に世に在った人である(寛 喜三年寂、壽七十三)。  かやうに、支那に存する資料からして、語頭の波行子音が鎌倉初期から 南北朝にかけてF音であった事が推定せられるが、更に溯って平安朝に入 れば、我が國にも有力な資料が見出される。その一つは、平安朝末の悉曇學 者、東禅院心蓮(治承五年寂)の口傳を記した悉曇口傳である。この書は大 矢透博士が醍醐三寶院から見出されて、古い五十音圖を知るべき資料の一 つとして、音圖及手習詞歌考の中に、梵字口傳の名で引用して居られる。 原本は鎌倉時代の中期建長元年に、醍醐寺の僧深賢の書寫したものであ る。(その書名は悉曇口傳であって、悉曇の二字を梵字で書いたのが、虫 損の爲大部分失はれて、字形が明でない爲に、大矢博士は之を梵字口傳と 名づけられたのである)この書の初に母音及び五十音の各行について、そ の發音法を説明してゐるが、單に従來の説を襲踏したものでなく、發音器 官の運動を實際に觀察した結果と見えて、今日の音聲學の知識から觀て もほゞ正鵠を得たと思はれるものが多いのであって、たとへば加行音を 以舌根付〓[月咢]、呼〓(a)而終開之、則成〓(Ka)音、呼〓(i)〓(u)〓(e) 〓(o)則キクケコヲ成也 と説き、サ行音を 以舌左右端付上[月咢]、開中呼〓(a)、而終開之、則成サ音、自餘如上 と説いてゐる如き、よくそれぞれの音の調音部位と發音法とを明にして居 る。さうして波行音の發音について、この書の説く所は次の如くである。 以唇内分上下合之呼〓(a)、而終開之、則成ハ音、自餘如上  これによれば、波行子音は疑もなく両唇音である。しかも上下之を合す といふのであるから、p音であるかのやうに思はれる。もし完全に唇の間 を密閉するならば、必p音でなければならない。しかしながら、この書に 麻行音の發音について、 以唇外分、上下合之呼〓(a)、而終開之、則成マ(ノ)音、自餘如上 と説いて居るを見れば、波行子音と麻行子音との差異は、唇の内方を合せ るのと、その外方を合せるのとだけに存するのである。然るに、波行子音 をp音であるとすれば、その上下の唇を合せる場所は、m音の場合とさほ ど差異があるとは考へられない。されば、波行子音は、やはり両唇音のF であったのであらうとおもはれる。F音の場合は、mよりも、もっと内側 (後方)で唇を合はせるのが常であるからである。勿論、Fの場合は、mの 如く上下の唇を全部密着せしめる事なく、中央にすこしの間隙を剰すけれ ども、やはり上下の唇を合せるのであるから、「上下合之」と云っても決 して事實に背かない。ただ説明が精密でないだけである。  かやうに考へれば、平安朝末に於ける語頭の波行子音はF音であった  のであって、かの鶴林玉露によって推定した、平安朝末鎌倉初期の發音と も一致して、少しも不自然な感がないばかりでなく、また、もっと古い時 代の資料の示す所に照しても矛盾する所がないのである。その資料といふ のは、慈覚大師の在唐記に存する梵字の發音の説明である。  この在唐記は、慈覺大師(名は圓仁、平安朝初期の人で、天台宗延暦寺の 座主となり、貞觀六年、西紀八八二年、七十一歳で寂した)が入唐中(承和 五年から同十四年まで、西紀八三八年から八四七年)諸師に就いて學び得 た教法の事を集録したものであるが、中に寶月三藏から學んだ梵字の發音 を記録したものがあって、これによって、梵語と當時の支那及び日本の發 音とを對照出來るものがあるのである。そのうち、今の問題に關係のある のは下の文である。 〓(pa) 唇音、以本郷波字音呼之、下字亦然、皆加唇音 〓(pha) 波、斷気呼之  かやうに、梵字のpa及びpha共に本郷即ち日本の波の字の音に呼ぶと 説いてゐるのであるから(1)、波を當時日本でpaと發音して居たかのやう に思はれるが、しかし、こゝに注意すべきは、その下にある「皆唇音を加 ふ」といふ一句であって、特にかやうな注意を加へなければならないの は、日本の波字の音がpaでなくFaであった爲であって、軽い両唇音Fを 重くしてp音に發音させる爲に、この一句を加へる必要があったものと 考へられる。この推定をたしかめるのは、こゝに引用した文にすぐ続く次 の文である。 〓(ba) 以本郷婆字音呼之、下字亦然 〓(bha) 婆、斷気呼之  ba、bha共に日本の婆の字の音に呼ぶといふのであるが、この婆は何と 發音したかといふに、梵字vaの條に 〓(Va) 以本郷婆字音呼之、向前婆字是重、今此婆字是輕 とあって、vaの場合の婆はbaの場合の婆に比して軽いといふのであるか ら、婆の日本の發音は、後世と同じくbaであったと見るべきである。さ うしてpaの場合には、波と呼ぶと云ひながら、特に「唇音を加ふ」と註 し、baの場合には婆字の音に呼ぶとばかりで、何等の註をも加へてゐな いのを以て見れば、日本の婆は正しく梵字baの音に相當するが、波は梵 字paの音とは幾分の相違があるのであって、婆がbaであるに對して、 波はFaであったと認められる。かやうにして、語頭の波行子音は、平安 朝初期に於てもやはりFであったと推定せられるのである。 註(1)斷気といふのはaspirated(有気、帯氣)の意味である。  以上述べた所によって、語頭に於ける波行子音をFと發音した時代は、 平安朝初期まで溯る事が出來たと信ずる。更に一歩を進めて奈良朝に於け る波行子音の發音はどうであったかといふに、之を斷定すべき資料は、殆 ど全く見出されない。當時の萬葉假名について見ても、波行音に宛てた漢 字の支那音は、重唇音(p系統の音)と軽唇音(f系統の音)とが混同して居 って、F音を寫したものか、p音を寫したものか全く不明である。しかし ながら、平安朝初期に於て既に語頭の波行子音がFであり、且つ上に述 べた如く語中語尾に於ては奈良朝に於てもFと發音せられた形跡がある とすれば、奈良朝に於ては波行子音は語頭でも語中語尾でもF音であっ たのではあるまいかと思はれる。少くともpからFへの變遷は、遲くと も奈良朝に於ては既に始まって居たと云ふことは出來るであらう。  奈良朝よりもっと古い時代になると、國語の音を漢字で寫した實例は極 めて少くなるが、推古時代の金石文などにも、波行音に宛てた漢字は、支 那に於て重唇音(p)に發音するものと軽唇音(F)に發音するものとが混じ 用ゐられてゐるのであって、これらは、共にF音を寫したものとも、又 共にp音を寫したものとも考へられる。もっとも、支那の輕唇音は重唇 音から出たもので(1)、軽唇音の出來たのは隋代又は初唐であって、それま ではすべて重唇音ばかりであったとの論もあり(2)、又日本に漢字音を傳 へた朝鮮人は、p音ばかりで、f又はF音を用ゐないのであるから、推古 時代の波行音を寫した文字も、その原音は皆pであったかとおもはれる が、日本の漢字音は、その傳來古く、十分日本化したものであったらうか ら、これによって日本の波行子音はFでなくpであったといふ事は出來 ない。魏志倭人傳以來初唐までの支那の史籍に、日本の波行音を「卑」「巴」 「比」などp音ではじまる文字で寫したものも、波行子音の發音を決定す る據とするには不十分である。支那古代に軽唇音がなかったとすれば、日 本の波行子音がFであっても、之をpで寫したであららからである。 註(1)銭大〓[日斤]、十駕斎養新録卷五、古無輕唇音の條 (2)満田新造博士、支那音韻斷 四頁  其他、日本語と朝鮮語とに於て意義及び外形の相類似した諸語に於て、 日本語の波行子音が朝鮮語に於てはp音に當る事、アイヌ語に入った日 本語に於て、波行子音がp音になってゐる事なども、朝鮮語はp音のみあ ってF音なく、アイヌ語はF音もあるが常にuの前にのみ用ゐられて、用 法が甚だ限られてゐるのであるから、此等の事實も、唯古代日本語の波行 音が唇音であった事を示すだけであって、p音であったかF音であったか を決定する根據とする事は出來ないのである。又支那語の入聲のp(語尾 音p)を波行音に宛てた例を以て、波行子音がpであった事を證明しようと するものがある。いかにも、志摩の郡名タフシを「答志」と書き、近江の 地名カフカを「甲賀」と書き、佐渡のサハタに「雑太」を宛て、大隅のアヒ ラに「姶羅」を宛てたなど、皆字音のtap、kap、sap、asを、タフ、カフ、サ ハ、アヒに宛てたものであるけれども、此等の漢字をかやうに用ゐた時代 に、入聲のpを果して原音通りpと發音して居たかは疑問であって、恐 らく當時の漢字音は、よほど日本化したものであったらうからして、入聲 音のpもその次に母音を加へて普通の波行音と同じく發音したであらう 事は、平安朝に於ける梵字の發音を觀ても推測せられるのであるから、こ れも波行子音がp音であった證とするには足らないのである。  かやうに考へて來ると、波行子音が最初にp音であった確實な證據と見 るべきものは、あまり多くない。その一つは、日本語と同系統の言語とし て疑なく、日本の方言とも見られる琉球諸島の言語に於て、殊に交通の不 便な辺鄙の地に依て、今猶波行音にpを用ゐてゐる事であり、一つは、「ひ とびと」「いしばし」の如く所謂連濁の場合に於て、波行子音が、b音にな る事である。猶、ヤハリがヤッパリとなり、アハレがアッパレとなる如く、 波行子音がpになる事があるのも、また波行音がpであった時代の發音 の名殘と見るべきであらう。  これ等の事は、従來屡説かれてゐるのであって、今更説明を加へるまで もないが、只一二注意すべき點のみを擧ぐれば、琉球に於て、波行子音を 一般にpに發音する地方でも、之をpに發音するのは、語頭にある場合 だけであって、語中語尾の波行音は、今日の日本語と同じやうに、和行音 と混同し、地方によっては、更にその前の母音と合體して一の長母音とな ってゐる處もあるのである(例へば、アヒはe-,アフはo-)。しかしながら、 語頭のp音が古音を殘して居るものであるべき事は、琉球の諸方言の比 較からも、日本語に於ける波行子音の歴史からも推測せられる。  次に、波行音が連濁によってバ行音となるが、バ行子音はbであるか ら、之に對する清音としては、hでもFでもなく、p音であるべきである といふのは、甚有力な論證であるが、ここに觀過する事が出來ないのは、 バ行子音は古代に於てもやはりb音であったかどうかといふ問題であ る。もし知り得る限りの古い時代に於て、バ行子音がb音でなかったとす れば、この論證は根柢から覆らなければならない。しかるに、古代のバ行 子音の發音は、さほど容易に知る事は出來ないのである。奈良朝及それ以 前の萬葉假名では、重唇音(p,b)及び軽唇音(f,v)を語頭に有する漢字で バ行音を寫して居るのであって、當時のバ行子音は果してbであったか、 又はv(もし日本にあったとすれば、両唇音の〓であらう)であったかを 定める事が出來ない。しかしながら、バ行子音が室町時代に於てbであっ た事は、耶蘇會士刊行書に之をbで寫して居る事、當時支那人の書いた 日本語に、波行清音の子音は或はf、h或はp,p'で寫してゐるに拘はら ず、波行濁音の子音は殆んどいつもp,b又はp'を語頭に有する文字で寫 して、f,hを有する文字を用ゐない事によって明かであり、又、鶴林玉露 (前出)にも「御坊」を「黄榜」と寫して居るのを觀れば(榜は音pang)、平 安朝末鎌倉初期でもやはりb音であったと考へられ(猶、この時代に「まも る」を「まぼる」といふやうに、語中語尾の麻行音でバ行音に變じたもの が少くない事も參照すべきである)、前に述べた如く慈覚大師の、在唐記に 梵字のbaに婆をあて、vaには婆をあてながらその婆は軽く發音すべき 事を注意してゐるのも、亦平安朝初期に於てバ行子音がbであった事を 證するものと見る事が出來よう。さすれば奈良朝に於てもやはりb音で あったらしく考へられるのであって、もし奈良朝に於て、v音又は之に類 する音であったとすれば、平安朝以後に於てb音になったのは、之を發 音する時、唇を合せる度が強くなったわけであるが、一方奈良朝から平安 朝にかけて語中語尾の波行音が和行音と同音になったのであって、これは 波行子音fがwに變じたので、前の場合とは正反對に、唇を合せる度合 が少くなり、唇の運動が弱くなったのである。かやうな性質の全く相反し た音變化が、同じ時代又は近い時代に行はれたとは信ずる事が出來ない し、國語音聲史の上から観ても、我國の音変化は、Fからhへ、kwから kへ(kwa,kwi,kweがka,ki,keとなる)。wi we woからi e oへと、唇の 運動を軽くし又は無くする方へ進んでゐるのであるから、古いv音が平安 朝以後b音に變じたのではなく、バ行子音は古くからbであったらうと 考へられる。さすれば、之に對する清音はpであるべきであって、隨って 波行子音は最初はp音であったと認められる。さうして、このpに對す る濁音としてbがあったが、p音が變化した後も、b音はそのまま傳はり、 波行音に對する濁音として今日に及んでゐるものと見るべきである。又波 行子音がpであった時代に、之を強めていふ場合、たとへば、アハレ即ち apareがappareとなったが、波行子音がpでなくなった後も、かやう な場合にのみ、孤立して、もとのp音が傳はったものと見られるのである。  かやうにして、波行子音が元來p音であった事は略疑無い事とおもは れるが、之を一般にpと發音してゐたのは何時頃であったかといふ問題 になると、まだ全く不明である。このpが、語頭の波行音ではFに變じ、後 更にhに變じ、語中語尾の波行音ではFに変じて更にwに変じたのである が、そのpからFへ變じた時代も明瞭でない。しかしながら、平安朝初 期に於ては、語頭の波行音では既にFとなって居り、語中語尾ではFか ら更にwに轉じて、平安朝の半以前に全く和行子音と混同し、之と同じ 音変化を受けたのであって、當時語頭では専らFのみ用ゐられたらしく、 語中語尾ではF音から更に轉化の歩を進めて居たのであり、奈良朝に於 ては、語頭の場合はわからないが、語中語尾に於ては既にF音になって、 w音と混同する傾向さへ生じて居たらしく、語頭に於ても既にF音はあ らはれて居たであらうと考へられるから、pからFへの轉訛は、遅くも奈 良朝の終頃までには大體完了したのであるまいかとおもはれる。しかし、 これは、pからFへの轉換期をなるべく遅く見た場合であって、實際に 於ては、この變化は奈良朝よりも前に既に終って、奈良朝には、語頭にも 語中語尾にもすべてFのみ用ゐられて居たかも知れない。さうして、こ のF音は、語中語尾の波行音では、和行音と混同して、平安朝の半頃に は大體今日の標準語と同じやうな有様になったが、語頭に於ては室町時代 までもそのまま殘って居たのであって、それがh音に変ったのは主とし て江戸時代に入ってからであらうと思はれる。  要するに、波行子音にp音が専ら用ゐられた時代については、まだ全く 確める事が出來ず、p音がF音に遷り行った時代については、奈良朝又 はそれ以前であらうといふだけで、十分確實な年代をきめる事は出來ない が、唯、F音の用ゐられた時代、殊にどの時代まで溯ってF音の存在を 證明出來るかといふ問題については、これまで擧げられて居ない資料に基 づく考察によって、或程度まで之を明め得たと信ずる。   追記  此の稿に引用した慈覚大師の在唐記は、典拠とすべき古本が傳はって居るかど うか明かでないが、梵字の發音に関する部分だけは、かなり古い時代の寫が今に 殘ってゐる。その中最も古いのは、石山寺の座主淳祐(菅原道真の孫、天暦七年、 即西紀九五三年寂、齢六十四)の手書した悉曇字母と題する卷子本(石山寺蔵)の 中にあるもので、その終に「圓仁記」と明記してある。東寺観智院には鎌倉時代 の寫本を蔵してゐるが、表紙に在唐記と題してある。又院政時代の悉曇學者明覚 の悉曇印信(四家悉曇記)には慈寛大師在唐記として引用してゐる。この書が慈覚 大師の著である事は信じてよいと思ふ。