国語変遷の概観      一 国語音韻の変遷 橋本進吉     一 音韻組織と連音上の法則    言語は、すべて一定の音に一定の意味が結合して成立つものであっ   て、音が言語の外形をなし、意味がその内容を成してゐるのである。   かやうな言語の外形を成す音は、どんなになってゐるかを考へて見る   に、箇々の單語のやうな、意味を有する言語單位は、その音の形は   種々樣々であって、これによって、一つ一つ違った意味を有する種々   の單語を區別して示してゐるのであるが、その音の姿を、それ自身と   して觀察してみると、一定の音の單位から成立ってゐるのであって、   かやうな音の單位が、或場合には唯一つで、或場合にはいくつか組合   はされて、意味を有する箇々の言語單位の種々樣々な外形を形づくっ   てゐるのである。かやうな言語の外形を形づくる基本となる音の單位   は、國語に於ては、例へば現代語の「あたま(頭)」はア・タ・マ三   つ、「かぜ(風)」はカ・ゼの二つ、「すこし(少)」はス・コ・シ   の三つ、「ろ(櫓)」や「を(尾)」はそれ%\ロ又はオの一つから   成立ってゐる。    かやうに、言語を形づくる基本たる一つ一つの音の單位は、單語の   やうに無數にあるものではなく、或一定の時代又は時期に於ける或る   言語(例へば現代の東京語とか、平安朝盛時の京都語など)に於ては   或限られた數しか無いのである。即ち、その言語を用ゐる人々は、或   一定數の音單位を、それ%\互に違った音として言ひわけ聞きわける   のであって、言語を口に發する時には、それらの中のどれかを發音す   るのであり、耳に響いて來た音を言語として聞く時には、それらのう   ちのどれかに相當するものとして聞くのである。もっとも、感動詞や   擬聲語の場合には、時として右の一定數以外の音を用ゐる事がある   が、これは、特殊の場合の例外であって、普通の場合は、一定數の音   單位以外は言語の音としては用ゐる事なく、外國語を取入れる場合で   も、自國語にないものは自國語にあるものに換へてしまふのが常であ   る(英語のstickをステッキとしたなど)。    かやうに或言語を形づくる音單位は、夫々一を以て他に代へ難い獨   自の用ゐ場所を有する一定數のものに限られ、しかも、これらは互に   しっかりと組合って一つの組織體又は體系をなし、それ以外のものを   排除してゐるのである。    以上のやうな音單位は、一つ一つにはもはや意味を伴はない、純然   たる音としての單位であるが、實は音單位としてはまだ究極に達した   ものでなく、その多くは更に小さな單位から成立つものである。例へ   ばカはkとaとに、サはsとaとに、ツはtとsとuとに分解せられるので   あって、これ等の小さな單位が一定の順に並んで、それが一つに結合   して出來たものである、この事は、これ等の音を耳に聞いた上から   も、又、これ等の音を發する時の發音器官の運動の上からも認められ   る事であって、これ等の音の性質を明かにするには是非知らなければ   ならない事であるが、しかし、かやうな事を明かに意識してゐるのは   專門學者だけであって、その言語を用ゐてゐる一般の人々は、カ・   サ・ツなどを各一つのものと考へ、それが更に小さな單位から成立つ   事は考へてゐないのである。例へば、ナはnとaから成立ち、そのnは   「アンナ」(anna)といふ語のンと同じ音であるにもかゝはらず、   人々は、ナとンとは全く別の音と考へてゐる。それ故、kasなどは音   の單位としては究極的な最基本的なものであるけれども少くとも我が   國語に於ては、これ等の單位から成立ったア・タ・マなどの類を言語   の外形を形づくる基本的の音單位と認めてよいと思ふ。(我が國に於   て、古くからかやうな音單位を意識してゐた事は、歌の形がかやうな   單位の一定數から成立つ句を基本としてゐる事、並に、假名が、その   一つ一つを寫すやうになってゐるによっても知られる。)西洋の言語   學ではkasのやうな最小の音單位を基本的なものと認めてこれを音又   は音韻と名づけ、カ・サのやうなそれから成立つ音單位を音節と名づ   けるが、右の理由によって、我が國では、むしろ音節を基本的なもの   として之を音又は音韻と名づけ、これを組立てる小なる音單位は單音   と名づけてこれと區別すればよからうと思ふ。    さうして、或言語を形づくる音單位は或一定數にかぎられ、その全   體が組織をなすといふ事は、既に述べたが、それは、實は音節に就い   てであったが、音節を形づくる單音に就いて見ても亦同樣である故、   音節を基本的のものと認める場合にも、單音を基本的のものと認める   場合にも、同樣に、或言語を形づくる音單位全體を音韻組織又は音韻   體系となづけてよいのである。    さて右に述べたやうな音韻組織は、國語の違ひによって違ってゐる   ばかりでなく、同じ國語に屬する種々の言語例へば、各地の方言の間   にも相違があるのであって、それらの言語を形づくる個々の音韻の數   も必ずしも同じでなく、一つ一つの音韻も必ずしも一致しない。例へ   ば、東京語はシとスとの二つの音を區別するのに、東北方言では、こ   れを同じ一つの音とし、その發音は東京のシにもスにも同じくない一   種の特別の音である。又東京語のカに當るのは、九州方言ではカと   クヮとの二つの音韻であって、クヮの音は東京語には存在しない。    音韻組織は同じ言語に於ても時代によって變化する。前の時代に於   て二つの違った音であったものが音變化の結果後の時代に至って一つ   の音となる事があり(イとヰは古くは別の音であったのが、後には共   にイの音となって區別が失はれた)、前代に一つの音であったものが   後代には二つの別の音にわかれる事もある(「うし」の「う」と「う   ま」の「う」とは古くは同じウの音であったが、「うま」の場合は後   には「ンマ」の音に變じて、ウとンと二つの音になった)。又、或音   韻が後代に於ては全くかはった音になるものもある(「ち」は古くは   tiの音であったが、後には現代の如きチの音になった)。かやうに   個々の音の變化によって、或は數を増し或は數を減じ、或は一の音が   他の音になって、前代とはちがった音韻組織が生ずるのである。    既述の如く、箇々の語のやうな、意味を有する言語單位の外形は、   以上のやうな音又は音韻の一つで成立つか又は二つ以上結合して成立   つものであるが、その場合に、或音は語頭、即ち語の最初にしか用ゐ   られないとか、又は語尾、即ち語の最後にしか用ゐられないとかいふ   やうなきまりがある事がある。これを語頭音又は語尾音の法則とい   ふ。又、或音と或音とは結合しないといふやうなきまりがある事があ   る。これを音結合の法則といふ。又語と語とが結合して複合語を作り   又は連語を作る時、その語の音がもとのまゝでなく、多少規則的に轉   化する事がある。之を複合語又は連語に於ける音轉化の法則といふ。    以上のやうなきまりはすべて連音上の法則といふべきであるが、こ   れは、言語の違ふに隨って異なると共に、同じ言語に在っても、時代   又は時期の違ふに從って變遷するものである。國語の音韻の變遷を考   へるには、單に一々の音の時代的變化ばかりでなく、かやうな諸法則   の變遷をも考へなければならない。    以下、國語音韻の變遷の大要を述べるに當って、時代を三期にわけ   る。奈良朝以前を第一期とし、平安朝から室町時代までを第二期と   し、江戸時代から現代までを第三期とする。かやうに三期にわけたの   は、各期の下限をなす三つの時代、即ち奈良朝と室町末期と現代と   が、他の時代との關係なくしてそれだけで比較的明かにその音韻組織   を知る事が出來る時代であって、これを互に比較すれば、その間に生   じた音韻變化の大綱を推知し得られ、しかも之に續く時代との間には   かなり音韻状態の相違が認められるので、ここで時期を劃するのを便   宜と考へたからである。もとよりこれは便宜から出たものである。今   後、各時代各時期の音韻状態がもっと明確に、もっと詳細に知られる   時が來たならば、もっと多くの時代に分ける事が出來るであらう。