[書評]湯沢質幸著『唐音の研究』
[書評]
湯沢質幸著
『唐音の研究』
岡島昭浩
『国語学』(国語学会)158集(平成元年9月30日)p24-30
日本漢字音の研究は、沼本克明氏・高松政雄氏の大著があらわれて後もますますさかんになりつつあるが、その日本漢字音の一部とも言える唐音の専著が湯沢質幸氏によって著された。唐音の専著といえるものは、古く飯田利行氏の『日本に残存せる支那近世音の研究』があった他には無く、常に漢字音研究の一部分としてのみ扱われてきた。それがこの度、湯沢氏の手によって唐音を中心に据えた著書が著されたのは誠に喜ばしいことである。
本書は一見、論文集のごとき体裁ではあるが、書き下ろしも数章あるほか、既発表雑誌論文についても、細かい言い回しに至るまで手がいれられ、全体として一貫した書物を成すに至っている。
序説、付録を除いて大きく三部に分かれる。「中世唐音論」「中世唐音の周辺」「江戸期韻学における唐音」である。「近世唐音論」の章がないのは残念であるが、「中世唐音論」の部は既発表の声母論・韻尾論に加えて新たに韻論を書き下して、中世唐音の全体像が掴めるようになっているのはありがたいことである。
各部の初めに「緒言」と題して、その部のまとめをしているのでそれを引用しつつ紹介批評してゆくこととする。
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第一部、序説は「唐音の概貌と唐音研究の現況について述べる」(緒言)。「日本漢字音における唐音」では(1)中国原音の渡来時期(鎌倉時代以降)、(2)唐音の依拠した方音、(3)日本語への影響(殆どない)を簡単に記した後、(4)使用状況を詳しく述べる。《臨済宗曹洞宗、泉涌寺、また黄檗宗など、中世以降開宗の仏教宗派とその典籍、中近世出版の『聚分韻略』や近世の韻学書、あるいは近世の唐音教科書、その他、近世の一部の浄瑠璃や洒落本等》で盛んに使われ、他ではほとんど使われないことについて考えている。
「新しさ」「異国情緒」の面から、新興仏教での使用、近世の一部の浄瑠璃や洒落本等での使用を説明したが、『聚分韻略』等に唐音が付されるのは有坂氏の言うように禅宗諷経音検索のためのものだということにしている。「必ずしもその用途が判然としない」わけだが、評者としては〈韻の検索のため〉の可能性も考えてみたいつまりある漢字がどの韻に属するか(韻書のどの部分にその文字があるか)を知るための手がかりとしての唐音というわけである。現代の我々がある漢字を見て、それがどの韻に属するのかを知ろうとするとき、その字の呉音漢音だけでなく唐音や現代中国音をも知っておいたほうが、どの韻に属するのかという見当が付けやすい。それと同じように当時の人も詩作の際、禅僧であれば諷経の際に覚えた唐音もあって、韻書を検索するために、漢音呉音がヤウで唐音がヤウなら陽韻あたり、漢音呉音がヤウで唐音がインなら庚韻のあたり、というように見当を付けることも可能であり、そのために韻書に唐音を加えたとするみかたはどうであろうか。
さて次項の「唐音研究の現況」では、唐音の研究史が述べられているが、一々の文献名は上げられていない。後学のために上げられていたら有り難かったのであるが、漢字音研究全体の文献が沼本克明氏の著書にあるので不要と判断されたのであろうか。しかし唐音研究の立場からの文献目録もあってよいのではないかとも思う。また、第四部の「江戸期韻学における唐音」は唐音研究であると共に国語学史研究でもあるので、その方面の研究史にも言及して欲しかったものである。
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第二部は中世唐音論。緒言に、第一章から第三章は「『中原音韻』や現代呉地方言との比較対照を通して中世唐音の特徴を明らかにし、そしてまた、その原音自体の中国語音韻史におけるおおよその位置を追ってみる」、第四章第五章は「二種の唐音資料をとりあげその唐音の、中世唐音としての特色の把握、およびその資料的価値の吟味を試み」と記す。特に第一章から第三章は、本書の中心となる部分である。ところが緒言の最後に「中世唐音は、各種資料におけるその転写形の同異から、より古い形のものとより新しい形のものとに分けることができる」ということを著者は言明する。一、二三、五章が後期唐音で、四章が前期唐音とのことであり、前期唐音と後期唐音との違いの一部は第五章(一五七頁)で記される。しかしできれば、第一章から第三章までにおいて、『聚分韻略』『略韻』という前期唐音資料だけを資料にするのではなく、各種唐音資料を広く見渡して、前期唐音と後期唐音との違いを読者にはっきりと分かる形で示し、またどの資料が前期唐音で、どれが後期唐音の資料であるのかを多くの資料で示して欲しかったものである。望蜀の嘆であるが、唐音資料を数多く見ておられる湯沢氏にして初めて可能なことであるので是非そうしてほしかった。
第一章「鼻音声母」は泥母・日母・明母・微母・疑母の韻鏡清濁(次濁)字の『聚分韻略』『略韻』における現れ方を記したもので主な問題となるのは微母疑母の二つである。
微母は軽唇音化して鼻音性を失ってしまうこともあるわけで、「鼻音声母」と題した本章であるが、この微母に関しては「鼻音声母」であるか、という点が問われることになる。唐音としてはマバ行で現れるのだが、その原音の音価を坂井健一氏はvであるとし、高松政雄氏は明母と微母とは人工的な書きわけであるとした。湯沢氏は奉母との関連でmvの可能性も考えるが、坂井氏と同様vを微母の音価とする。
疑母はアヤワガナ行が混在し複雑な様相を呈している。複雑であるために湯沢氏は字音表の簡略化を目指したのであろうが、韻目についてその韻の疑母字の音形をあげるのみで、その韻の疑母字がどういう字であるのかは一々あげては居られない。一々の字がないと読者としては追試が困難で、百姓読や誤読の可能性を考え得ないので是非上げて頂きたかった。
第三章「喉内鼻音韻尾」は、従来より諸説あったいわゆるη韻尾の唐音仮名表記にン表記とウ表記の両様あることについての論考である。著者は趙元任『現代呉語的研究』の韻母表に示された呉語のη韻尾がγ‾などの鼻母音の形で現れることがあることに着目して、ウ表記されるのはこのγ‾(江摂宕摂)の反映であり、n(梗摂曽摂)やη(通摂)のように閉鎖をともなった鼻音はンで表記された、と結論づける。
こう考えた場合、評者として疑問の残るのは、舌内唇内鼻音韻尾をどう考えるのか、ということである。『現代呉語的研究』の示した呉語では、舌内唇内韻尾でもγ‾などの鼻母音が現れることが多い臻摂深摂はおおむね梗摂曽摂と同様と言ってよいかと思うが、山摂咸摂では湯沢氏の示した江摂宕摂と同様の、というよりむしろ、より非鼻音化の進んだ形で現れる。湯沢氏の
Vη>−Vη・−Vγ‾>−V‾>V
という立場で考えれば、山摂や咸摂も、
−Vn −Vv‾
(Vm>)Vn> ・ >−V‾>V
−Vη −Vγ‾
ということになろう。中世唐音では山摂咸摂も臻摂深摂も共にすべてン表記である。湯沢氏の解釈では、中世唐音の時期には喉内鼻音韻尾が既に−Vγ‾の時期に達しているのに舌内唇内鼻音韻尾は未だにVnの状態を保っていたことになる。このあたりを湯沢氏がどのようにお考えなのかお教え願いたいところである。
《補註、遠藤光暁氏「アンズとドンス」(国語学164集)参照》
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第三部の第一章から第三章までは「唐音と呉音・漢音」と題してのものである。唐音の全体像は第二部で示されたが、本部では呉音漢音と唐音のはざまについて論じる。まず「唐音の呉音・漢音への混入」と副題に記した第一章は、唐音系の音が、唐音であることが忘れられた、つまり「唐音系の音が、呉音あるいは漢音とも認定されていたことがあった」ことを記す。文明本節用集では字音の場合墨筆が呉音、朱筆が漢音と唐音と普通いわれているが(本書では墨筆が平仮名書きで、朱筆が片仮名書きで印刷される)、著者は朱筆を詳しく検討して漢音の朱筆と唐音の朱筆では記される位置が異なると考証する。本部第三章でも考証し直されるが、唐音(であると注音者が考えた音)は字の右側のみに付され左側には現れない、と解釈するわけである。その上で左側の朱筆を見て行き、「現今の説では漢音と認め得ないもの」で「本来唐音系のものである」と考えることが可能な例二つ、茶サ鎮シンをあげる。
『略韻』でも右側が唐音系、左側が呉音漢音系であるとし、その左側から唐音系と認められるものとして舌上音のサ行表記、疑母のアナワ行表記の例を抜き出す。そしてこれら唐音系のものが左側にも出現する理由として、(1)唐音と認定された上で左側に加点された(2)「左側のものはあくまでも呉音漢音」であって、加点者の意識の中で呉音漢音の中に唐音が混入している。の二つを掲げるが、著者は(2)の意見のほうが矛盾が少ないとしてそちら側に付く。
つまり(1)では「左右に同一の唐音注を持つ標出字も現れて来ることが予想されながら、なぜあえて左側にも唐音を加えることを行ったのか」という疑問に答え切れないというわけなのである。
さて、呉音漢音への混入というが、ここでいう混入される呉音漢音、混入する唐音とは一体何なのだろうか。既存の字音と新来の字音ということでよいのであろうか。そうするとつまり「唐音の呉音漢音の混入」というのは〈新渡来の唐音が古くからある既存の字音のような顔をしている〉というわけであろうか。
第三章は第一章での、文明本節用集において「漢音は標出語を構成する漢字の左右どちら側にも加点されるのに対し、唐音は右側だけに限られている」ことについて「唐音の側から検証を進める」ものである。つまり第一章は左加点の字音の中に唐音がないかという考証であるのに対し、第三章は唐音と見られる音の中に左側に加点された例がないかという考証である。検証のために、まず文明本加点者の考えた唐音と現今のわれわれの唐音との間に齟齬がないかを確認する。ここで著者は「現今で唐音とするもの」の一つとして銀杏(いちやうギンキヤウ)を掲げる(「いちよう」は誤植)。確かにイチョウは鴨脚の中国音ヤーチャオの訛ったものであると説かれたことがある(『新村出全集』四巻「鴨脚樹の和漢名」参照)が、漢字音研究の進んだ現在もそれを認めてよいものだろうか。イチヤウという語形は節用集などに既に見られるが、牙音である「脚」字がチャオと日本語のチに近く聞かれるようになるのはずっと時代が下ると考えられる。藤堂明保氏は『中国語学論集』(昭和六十二年三月汲古書院)の「ki-とtsi-の混同は18世紀に始まる」と題する論文(もと「中国語学」94号 昭和三十五年一月所収)で、清代の『団音正考』によって表題のような結論を示した。勿論これは〈混同〉の時期を示すものであって、見渓群母の口蓋化はもっと遡り、tsi-よりも先にtci-になったと言われている。しかし明末の『西儒耳目資』でもまだkiで写されている。また、日本に渡ってきた音を見るに、中世唐音ではt ci-音はチではなくシで写される。日本語のチは一四九二年の朝鮮版『伊路波』でもtiで記され、牙音が口蓋化していたとしてもチではなく、シで写されたであろう。
なお銀杏の唐音の訛という説(『時代別国語大辞典 室町時代編』等)もあるが、新村氏が黒川春村『碩鼠漫筆』の説を批評してるようにやはり困難であろう。
さてこのあと唐音の特徴を具備している朱音注を抽出するのだがその際「機械的に」行っているのはどういう訳だろうか。たとえば「入声韻尾相当部分の欠如」を、機械的に抽出すれば、地名等に当てられた「壱岐」「伯耆」「甲斐」、さらに「率都婆」「涅槃」「納言」といったものをも抜き出すことになる。また通摂韻尾のン表記では「竜膽」のリンをも抜き出す。確かに文明本の加点者はこれらを、唐音である、と認識して朱筆で記したのかもしれないが、著者は本書上では「壱イ」「伯ハウ」と記すだけでそれがどういう熟語の中に現れたものであるのかについては、用例に示された頁数(それも本書では用例が削られているので、全用例に当るには雑誌論文に戻って調べねばならない)をもとに読者が文明本に直接当らなければならない。著者も「実は唐音と認められそうにないものもある」と告白して「壱岐・伯耆」を示すが、全ての字について(項目の)熟語の形で示すべきであったろう。
〈加点者が唐音であると考えた可能性が少しでもあるもの〉を出来るだけ多く拾おうとしてこのようなものまで挙げるようにしたのだろうか。しかし、二三七頁にイロハ三部より抜き出した「現今の説に照らし合わせてみて唐音と認められるもの」には「頭チウ」など、先の例示では挙げられなかったものも見える(壱イ伯ハウ泊ハも現今の説に照らし合わせて唐音であるものの中に入っているのはどうしたわけであろうか)。出来れば『漢字講座6中世の漢字と言葉』の唐音一覧(藤原浩史氏)のような形に、更に「唐音を仮名に用いた例」をも加えて、文明本の全唐音語を挙げ、その上で唐音の考証をして戴ければ非常によかったのだが、と惜しまれる。
さて文明本の朱音の積極的表示は、詰まる所「漢音の積極的表示」である、ということをまとめるが、この部分は雑誌論文で発表されたものへの安田章氏の言及(「辞書の復権」国語国文五六−一、のち『中世辞書論考』清文堂)を受けて、「漢詩文読書及び作成上の参考書という『文明本』の一性格」に関する部分を削除しているが、本書には安田氏の論文名が挙がっていないので、ここに付記しておく。
順序は逆になるが、第二章では灰韻のuイという字音に漢音系と唐音系との二系統あることを論じた。この章の雑誌発表論文に対して沼本克明氏は『平安鎌倉時代に於る日本漢字音に就ての研究』第一部呉音論第六章「呉音の祖系音に就て」第一節「観智院本類聚名義抄「和音」を通して見た呉音の問題」の五八三頁で
湯沢質幸氏はこの「ウイ」を漢音系の字音とされている。然し、この「ウイ」形の我が国文献に出現するその仕方から考えて、呉音系字音と考える他あるまいと考える。漢音を主流とする「漢書楊雄伝天暦点」や「醍醐寺本法華経釈文」に出現する「ウイ」は、偶々、六朝期の反切に依って反音を案じた為に出現した人為音と考えられる。我が呉音の灰韻に「ウイ」形が出現するのは、それ等六朝期の反切の母体となった音体系をその祖系音とした為と説明する事が出来ると考える。
と記すが、本書にその発言を受けての発展は見えないのは読者としては残念なことである。
第四章は雑誌論文当時の国語学誌上の展望(山口佳紀氏執筆)の言を借りれば、
右は、文明本節用集に付された朱声点について、左下隅の声点は広韻の上平に、それよりやや上の声点は広韻の下平に対応する所から、室町中期においては、声点の機能は、声調には関与せず、韻書の範疇における所属を標示する機能を負うものであると結論する。
というものであるが、山口氏は続けて、
極めて整然たる議論であり、従うべきかと思うが、ただ、声調を示すのでなく、韻書の所属を標示するということには、どういう意味があったのだろうかという点に、疑問が残る。
と記す。この部分を安田章氏は前掲「辞書の復権」中で引用して、中世の節用集の役割を考察した訳である。
安田氏は、文明本は「韻事の書、ただし、聚分韻略のような韻字引ではないけれども、イロハ引の広義の韻書と考えれば」朱声点の役割が分かり、しかも聯句連歌のための書であると考えたらなおよいとしている。
山口氏や安田氏の発言を受けて著者は二八一頁に韻書所属巻の標示の効用を「韻書における当該字検索上の便宜、および当該字の平仄明示のため」と書き足している。
こう考えると先にみた朱音注の漢音の積極的標示も当該字が韻書のどの韻に入るのかを示すため、という性格をも持っていたのではないか、という考え方も出てくる。これは例えば『聚分韻略』の近世版本などに付される「引声」なるものの存在を思い合わせての評者の私案である。「引声」は「東ヲウコウ……江カウサウ……」というようなもので、これは明らかに音形から韻書を引くものである版本にもとから付いているものだけでなく、利用者が自分で作ったと見られる書き込みの例もある。これは漢音と呉音が混在しているよりも漢音であると明示されているほうが所属韻の見当は付けやすい。「イロハ引の広義の韻書」とすれば所謂「伊呂波韻」と似た役割を文明本節用集は果たしている、といえることになる。「伊呂波韻」の中には字音のイロハ順で韻を検索するものもたまにあるが、多くは訓のイロハ順で引くことを考えれば、節用集で韻が検索できるということは「伊呂波韻」の役割をかねているということになるわけである。
ついでに言えば、先に書いた〈『聚分韻略』に唐音が付されるのも、所属韻の見当づけということと無縁ではないようにも思われる〉ということもこのことを考え併せて記したのである。残念ながら「引声」に唐音を記したものはまだ見ないが。
第六章は漢音対呉音の清濁に関する対立を考えている。その際、「実際に加点されている音注から濁点・不濁点等の符号を一切とり除いた形の音注、ないしは濁点・不濁点の施されていない音注形」を「素音注」と称して考察を進め、「素音」が同じであれば清濁の差は無視されやすいということに至る。本章は雑誌発表の際の高松政雄氏の国語学誌上の展望(国語学一一三号)での評−韻鏡全濁字を、呉音濁音、漢音清音と単純には割り切れず、本来的な対応関係ではない−を受けて、加筆した部分もあるが、結論に関しては高松氏も「「漢音」の清濁」(国語国文五六−一)でも本章に触れ「このことはかなり強力に古今に敷衍化し得るであろう」と述べる。木田章義氏も「濁音史摘要」(『論集日本文学日本語1上代』昭和五十三年。角川書店)で、本章に引く松井利彦氏の論考と本章の結論を「日本人が日本語の文脈の中で字音語を用いる時、その音形は確実に把握しながら、プロソデムの「にごり」を曖昧に捉えていた時期を経たための当然の混同と言える」と評した。
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第四部は「江戸期韻学における唐音」と題して、江戸時代の韻学(書)に見える唐音の位置について考察している。当期の韻学は唐音を利用することによって発展してゆくわけだが、文雄を区切りとして、第一章文雄以前、第二章文雄、第三章文雄以後、という形で述べてゆく。
第一章「江戸初期韻学における唐音」は文雄以前の韻学書に現れる唐音について考察している。文雄の用いた唐音は近世唐音であるが、その文雄以前の韻学者の用いた唐音が中世唐音であるのか近世唐音であるのか、あるいは唐音作成法による人工唐音であるのか、という点にも筆者の関心はある。
唐音作成法については筆者は別に稿があるが、その作成法のめざすものが中世唐音であるのか近世唐音であるのか、という点にも本章で触れ、中世唐音であろうと結論づける。
第二章は韻鏡研究に唐音を利用するという文雄の学説のよったところを探る。註43に、文雄の師、太宰春台が「『韻鏡』は反切のための書ではないと述べている」と記すが、春台は〈人名反切のための書ではない〉、と言っているだけで(湯沢氏の引く『斥非』のほかに『経済録』にも見える。『古事類苑』姓名部九参照)、文雄のいう「韻鏡ノ書ハ本反切ノ図ニハ非ズ」とは意味が異なる。
第三章は文雄以降の文雄受容についてふれるが、宣長について頁を多く裂いている。宣長の漢字音研究における文雄の影響は新村出氏「文雄師の功業」(全集九巻・また『無相文雄師追慕展観会目録』了蓮寺、昭和五年にも採録される)に「宣長翁の音韻論は、文雄の学説に負ふ所多い事は、已に従来世の学者間に唱へられた」と記されるが、湯沢氏はそれについて詳しく検討を加える。《補註、本居宣長全集第5巻の大野晋氏の解題、更には古く、上田知麿『本居宣長の音韵學−「漢字三音考」につきて−』(金沢庄三郎・折口信夫『国文学論究』(昭和9.7.3)所収)を参照》
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さて最後に付録であるが、『略韻』字音表についても、第二部第一章同様、ある韻のある声母の文字が具体的にどういう文字であるのかを示していただきたかった。
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以上、評者は疑問点や単なる思い付きをも記して来たが、これは今後の唐音研究のためのささやかな叩き台ともなれば、と考えてのことであり、評者の妄言をお許し願いたい。
(昭和六十二年二月二十五日発行 勉誠社刊 A5判 四七○頁 一三○○○円)
−京都府立大学女子短期大学部講師−