授業編巻之三
北海江邨綬君錫撰
訓点
《略》
呉音漢音
余韻学にうとければ、かく標目に出すも、おこがましけれど、前条に訓点のことをいへば其勢おのづから此に及ぶのみ。畢竟こゝに論列するも、余が所存を録するに非ずたゞ前輩のいひ置けることを挙ぐるのみにて、其善悪当否の沙汰にはおよばず余嘗て日本詩史を著す。其首に云置るごとく、古昔  應神天皇の御時、百済國より、阿直岐王仁など、わが邦へ来りて、経典を授けしこそ、他の邦の音の、此邦に伝はりし初なるべし。其後此邦に呉音漢音の両音あり。 桓武天皇の御時、内典を呉音によみ、外典を漢音によむべしと詔あり。今に至りてしたがひ用ゆ。抑呉音漢音とはいかなる音ぞや。世の韻学に従事する人の説もまち/\にて一定せず。和読要領には、呉音漢音とも、今よりみれば皆中華の音に非ず。其初いづれの國の音を受伝へけるを知らずと書置り。されども雨芳洲のたわれ草に記せる通りなれば呉音と云は、古昔三韓の人の、これぞ唐音とて、わが邦の人へ伝へたる音なり阿直岐王仁が此邦へ伝えしも、すなわち呉音なり。これを呉音といふわけは、むかし百済國の海女、法明といへるもの、対馬へ来りて、維摩経を教えし時、此は呉國の音なりと云し故なり。世にこれを対馬よみと云し。是呉音のはじめなり。又漢音と云は、 聖武帝の御時、吉備公入唐して、帰朝ありて、孝謙帝へ十三経を授け玉ひしにはじまると、見聞抄に見ゆ。然らず呉音漢音ともに、元来今いふ唐音なれども、年ひさしくなれば昔の唐音とは似つからざる物にていつとなく此邦の音になりたるなり。江南の橘も淮を渡れば枳となると云事は、あまねく人の知る事なるが、近きためしいはゞ、京都の水菜の種を、他国にうゆるに、初年にはいかにも京都の水菜なれども、一年二年と、次第に、もよう変りて、三四年を経れば、全くよのつねのはたけ菜となる、音声の変ずるも、おもふにかくの如くなるべし、されば雨芳洲の言に唐音は唐人の人にならふがよし、此邦の人の総授るは二三伝、四五伝もせん後は、唐音にてもかく、かの呉音漢音の如きものになるべしといへり。左もあるべきにや。
四声五音
雨芳洲のたわれ草にいふところに據れば、漢土の字音は、四声そなはり、唇舌牙歯喉のわかちあざやかなり。朝鮮の字音は三声のみありて、上声去声わかれず、されども唇舌牙歯喉のわかれあるよし。我邦の字音は字毎に平声のごとくよみて、上声去声のわかちなく、入声もなし。ふつちきは入声なりと覚え居れども、是も口に唱ふるときは砕音となり、入声にあらず。唇舌牙歯喉のわかちなきにはあらねども、國のならはし、唇音がちにて、五音あざやかならず。釈門の中に、四声を分ちて、誦経を伝ふるが今もあり。是は其祖師の、往昔漢土へわたり、物学び帰りて後、四声五音をわが邦にも伝へんと、心を尽して教えたるなれども元来吾邦になきこと故、今になりては、上にいへる江南の橘京都の水菜なり。黄檗の課誦も、是にひとしかるべし。又わが邦の人、誰彼も知るところの、あいうえを、かきくけこ等の、五音相通といへるはもと三韓より対馬に伝はり、それより吾邦に行はれしゆへ、昔は対馬いろはと云しとかや。三韓へは、もと西域より出たるを伝へ学び、三韓の諺文といふも、西域の梵字にならひて作れりと。芝峰類説に見へたり。漢土の書にも七音のをこるは西域より起り、流転して諸夏に入るといへり。西域より起りたると云事は涅槃経文字品にあるよしなり。さるにても四声五音の詮議は吾邦の今の学者には入らぬ事かといへば、左にあらず、さしあたりては、書の音註に、平声上声去声などある事多し。同じ一字なれども字音かわれば、字義もかわる事なれば、常々書をよむにも、四声を詳かにし。けんぱつを下すはいかにもよし。其事は、和読要領にくわしければ其へ譲りて此に略す
韻鏡反切
往に四条辺に。韻鏡の学を講ぜし一先生あり。又寺町了蓮寺の前住なりし僧。この学にくわしく。其事を論辯せる著述も。これかれ行はれて其中の一二部は。余もまた目を寓せり。これを学ぶ人は。字音の源に達して学業に大益ありと云。又学ばざる人は。韻鏡はおさめざれども。学業に於て。いさゝかさしつかゑなしといふ。是は次の唐音の条下に論辯せると同じことはりなるべし。字音も学業にあづかる事。もちろんなれば余も其片端を窺ひ度はおもへども。序説に云るとほり。志学のおそかりしと。又中年吏職となりて.業を廃せしと。彼是にて。其事を学ぶいとまなく。今に至りて不案内なり。されば韻鏡をおさめて益あるも益なきも。余が知るところにあらず。韻鏡に通ずれば。文字の反切のことわり明らかに。西域の梵字。世にいふしったんの理りも知るべしとて。沙門などの殊にこれをならふもあり。是は前条に云るごとく。音韻はもと西域より出るとあれば。沙門の是をならふは。尤左あるべし。余は右に云るごとく。其事不案内なれば。世上一般に知るところの。仮名がへし。又某の字の反切は。某の字になるといふ事を。僅におぼゑて。自己の読書のたすけとするばかりなり。然るに此邦の人の。名乗をかへすといふ事ありて。是を学者の知りたる事のやうにおぼゑて。請求る人あり。此事を斥非編に大に非駁して。不知其非為之是至愚也知其非為之是誑人也など云に至る。全文長ければ此には略す。余が意をいはゞ、さほどに角々しく云はずともすむべし。斥非編に又曰儒者若浮圖有業此以致富者。余おもふに、東都は侯伯のあつまりいます地なれば、名乗をかへす事を業とする人もあるにや。それは余がしらぬことなるが、京師などにては、たとへ是を業にする人ありとも、幾人の来り求るあらん。余が方へもたま/\は、名乗をかへしくれよと頼み来る人あり。其時は、余韻鏡の学にうとければ其事にくわしき人へ請求むべしと云て辞す。なをも強て請人あれば、何々の二字の帰納は某の字にこそなれと帰納の字ばかりを書付つかわす事もあり。もしかゝる事は、漢土にもある事にや。学者の上にも為す事にやと、尋る人あれば漢土の書には余いまだ見及ばず我輩はかゝる事もなさずと答えて止。要するに其理りはともあれ、たゞ今にては、上侯伯の貴きより武家一同のならはしのやうになりぬれば此邦に居て、其事をあらはに非議せん事は、道理に於ておだやかならず思ふなり。
唐音
今人多く華音(くはいん)と称す。同じ事なり。華音に南京(なんきん)福州(ほくちう)等(とう)の異(い)あり。南京音をよしとす。其外(そのほか)にも諸省(しょせい)の音、少々の違(たがひ)あれども此方(このほう)よりいへばすべて唐音なり。余(われ)唐音を学(まな)ばず。其事もとより不案内(ふあんない)なり。されども此(ここ)に其標目(ひょうもく)をあげて論辯するの主意(しゅい)は、世(よ)の唐音に通(つう)じたる人は、唐音を知(し)らざれば、たとへ文藝(ぶんげい)に名高(なたか)くても靴(くつ)をへだてゝかゆきを掻(かく)に似(に)て、畢竟(ひっきゃう)我邦ぎりの文芸にて、一詩一文、もろこしの人へしめし難(がた)し。されば、文芸に志(こころざ)す人はもっとも唐音を学(まな)ぶべしと云。
又唐音を知(し)らぬ人は、眼(まなこ)ありて書を読(よみ)。心ありて剪裁(せんさい)す。眼(まなこ)と心(こころ)と相謀(あいはか)りて、学業(がくぎゃう)は成就(じゃうじゅ)する事にて、音の異同(いどう)はあづかる事なしと云。
両方とも一理(り)はあれども、いはゞ互(たがい)に過激(くはげき)ありて至公(しかう)の論とは云べからず。故(ゆへ)に余(われ)其(その)二つを折衷(せっちう)して此(こ)に論列(んれつ)するものなり。其上(そのうへ)にて、これを学(まな)ぶと学ばざるは、人々の心にあらんのみ。抑(そも/\)唐音の吾邦(わがくに)に行(おこ)なはるゝ事、元和(げんわ)より以前(いぜん)は姑(しばら)く置(おく)、正保(しゃうほう)のころ、朱之瑜(しゅしゆ)陳元贇(ちんげんひん)など、帰化(きくは)の後(のち)其人にしたしかりし人は、やゝ唐音に通(つう)じたる人ありけれども、いまだ汎(あまね)く世間(せけん)へ流布(るふ)せず。余幼穉(ようち)の比までは唐音は長崎の訳官、黄檗の僧徒ならでは、知らぬ事のやうに、人人おぼえて、京師などに是を主張する人まれなりしが、岡島援之、長崎より京大坂へのぼり来り、江戸へも赴きて、其業次第にひろまり、唐話纂要雅俗語言などいふ類ひの書ども、多く梓にちりばめ世に行はる。すべて何事も天地の気運にあづかることにて、少々の前後はあれども、まづいへば其時にあたりて、水戸には、今井小四郎などいへる人舜水に親炙して、もっともよく唐韻に通ず。対馬には、雨芳洲あり。東都にては徂徠これを以て後進を鼓舞す。こゝに、世に於て唐音をいふもの多く輩出す。其人々なくなりて、近年はこれをいふもの亦少なし但し徂徠などは唐音によく通じたると云にはあらで、畢竟指を染たると云計りなれども、学博才豪なる人ゆへ、これを以て其論説を張る。所謂英雄欺人なり。
近時音を主張する人の説には、凡文字には形容字とて、物の音をかたどりたる字あり。華人は其音を聞て、其音によく協ひたる字をあてがひたる物にて、其字には何の義もなし。それを和読して、其字義にかゝわるなどは、わけもなき事なり。たとへば、佩玉鏘々の註に、鏘々は金玉の声なりと。何と佩玉の鳴る音が、さう/\といふか。唐音にてはつあん/\なり又撃鼓鼕々とあり。鼕々は鼓声なりと註す。何と太古がとう/\となるか。唐音にては鼕々(とん/\)なり。又俗語に雷のひゞき、又物の架子などよりおつる音を、唐音にては刮喇々々と云。物の水にはまる音を濮〓(ほとん)と云。物の〓(ころ)ぶを骨碌々々といふ。これら唐音にてかくのごとくによめば此邦にていふと、すこしもかわらず、甚だ趣あり。これを和読せば、何の物の水に落る音がぼくそくと云、物のころぶがこつろく/\/\と云か。これらの類一々枚挙すべからず。たゞ形容の字音のみに限らず。他の文字皆かくの如し。華音にては歓ばしきところは喜ばしく、哀しきところは、かなしき味ひありて、其趣自然と深長なり。それを侏離の音にて読ては、何のせんもなき事なり。
又詩文章の為に、姓を修し、名よ字よ号よと、吟味して称し、殊に医者などは、常の称までも、唐めきたる名をつきて、天晴(あっぱれ)華雅なりと自ら思ふべきなれども、華音を知らざれば、甚だ気の毒なる名ども多くして、華人に見せば、絶倒すべし。今其一つを挙ていはゞ、近ごろ上み方の医に、馬場伯陸と云しあり。詩文章に名姓を署する時、馬伯陸と称す。馬伯陸の唐音、馬百六と同じ。唐土にて男女私通の世話媒をする物を馬百六と云。それを名に付て居るは、華人などきかば、実に捧腹すべし。又鳥山呉珪と云し人あり。是も詩文などには、鳥呉珪と称す。鳥呉珪の華音鳥呉珪にて鳥烏亀と音甚だ近し。其笑ふべきこと、馬百六に異ならず。又石黒立伯と云し人あり。四字残らず入声にて、華人にはなきことなり。又山科朝菴と云し人の子を昭菴と云。朝と昭と、華音にては、同じくちゃ○うにて、少しも異ならねば、字の形は違ひたれども、父子同名にて、華人には示しがたし。当世名高き学者にも、かゝる類ひの事多し。もし又唐人に示す事にてもなし。たゞ日本限りの事といはゞ、儒者も、医者も、出家も、華人の倣をせずして、只管六兵衛七兵衛にて仕舞べし。
又華人は、よむところの書、多くそらにて記憶す。何故なれば、華音にて直読すればなり。此方にても和訓ながらも、直読すれば、愚鈍なる僧尼も、よく佛經を記憶するにて知るべし。此方の学者、和訓にて、例の顛倒してよむ故に、繁蕪迂遠にして記しがたし。たま/\四書などを暗誦する人ありても、試に筆を授けて写さしむるに、字座倒置して、助字多くたがふ。然るに華音に通ずれば、文章を書に、位置倒せず。語脈顛せず。されば華音をまなぶは、此邦の学者の先務なるべし。華音を知らざれば、当今名高の大儒といへども、詩文の謬誤をまぬかるゝ事あたわずそ。これ世に唐音を主張する人の説、大段右体の事にして、いかにも理は左様なるべし。
又世の唐音を学ぶは無益なりといふ人の説も。一理なきには非ず。其辯の長きを以て。略して録せず。要するに。双方一理はあれども。たがひに過激なきことあたわずして。公論と云がたし。もし余が意をいはゞ。凡学業は。漢土の人に倣ふ事なれば。唐音の通ずるほどの事はなし。然れども。幼穉のころは。何のわきまゑなければ。自己に発起すべきにもあらず。成長しても。是を学ぶ因縁もなく。いとまもなく。余がごとく不案内なる者は。唐音を知らぬは残念なることゝ思ひ。是を知らぬゆへ。学業にあやまりの多からん事を思ふて。文字の位置より。何彼につけて。なるたけ心をつけ。唐音に通じたる人の席にありて。其話説をきかば。たとへ一つ二つなりとも聞て。益を得るやうにすべし。余が知らざるを以て。其ことは益なしと云べからず。又唐音に通じたる人は。是を以て。自己のたしなみとなし。是を知らぬ人の中にて。益もなきに。みだりに唐音を用ひぬがよし。あまたの人の中に一両人唐音に通じたる人ありて。其人どし。互に唐話を以て往復するなどは。傍人へ対して。大に無礼なり。余が知るところにも。此くせある人あり。春台の紫芝園稿の中に。鎌倉紀行あり。其中に。路上にて一僧に出会。其あたりの名勝を尋ねしに。其僧はかばかしくも教えざりし故。春台同伴の某と。唐話を以て。其僧を大にそしりたれども。其僧唐音を知らざれば。我をそしるとも思はで行過たりと云ふ事を。録しおけり。書生且少年輩にありては。かゝる事もありぬべし。春台など堂々たる大儒巨匠を以て称せらるゝ人には。いかにしても。世に云若輩なるふるまいなり。さるにても唐音は。いかにも。おぼゑがたきものなれども。中々容易にならひ得べきに非ず。幼稚の時よりこれを学ぶにあらざれば。とても用にたつ唐韻にはなりがたし。既に其時を過なば。一向中年にも及び。学業成就の後。指を染て。大段を会得し学業のたすけとするは格別なり。これは右に云るごとく。とても有用の唐韻にはならねども。かの英雄欺人と云程にはなるべし。
此二つにあらで。なまなか。弱冠前後。読書に精を専にする比。唐音に従事すれば。諺にいふ。一も取らず。二もとらずと云に至る。余が知れる人。此に坐して。常にその事を云て後悔す。此ところ。とくと考ふべし。凡唐音のくわしき。吾邦にては。雨芳洲にしくはなかるべし。其芳洲の筆記に曰。長崎通詞家。咸曰。唐音難習。教之当以七八歳為始。殊不知。七八歳則晩矣。非従襁褓中。則莫之能也と。又曰余用心唐話五十餘年。自朝至夕。不少廃歇。七十歳以上。略覚有些意思と。難しと云べし。芳洲の三男。雨森玄徹。かつて医を業として。しばらく京師にあり。余としたしかりし。玄徹余に長ずること五六歳。書をよむには。みな唐音にて直読す。余二十二三歳の比にて。幸の事と思ひ。玄徹について。唐音をならはん事を求む。玄徹かたく止めて無用にせよといふ故。習はずしてやみぬ。玄徹無用にせよといふ意は。唐音は幼童の時より学ぶにあらざれば。能しがたし。且つ唐話に熟せんと思へば。多く伝奇小説をよむにあらざれば。精しきに至り難し。さあれば大に学業の妨ともならんとの事なり。玄徹兄。乾之丞と云は。芳洲の嫡子なる故に。唐話に精通は云に及ばず。されども。唐山の人に親炙するにあらざれば。精微に至りがたしと。対馬侯へも願ひて長崎へ至り。唐山の人に随侍すること三年。話説の応答。唐山の人にいささかもかわる事なし。三年の後対馬へ還り。又二年を経て長崎へ至り。曽て随侍せし唐山の人に対接するに。彼よりいふ事を聞得るは。すこしもかわる事なけれども。此よりいふ事。十に一二は。彼きゝ得ず。居ること一両月にして。やう/\故に復せしとかや。これらを以て。其難きことを知るべし。
授業編巻之三終