國語に就きて日本國民の執るべき三大方針
第一 奇矯にわたらざる範圍に於て純粋の日本語をなるべく用ゐる事
一國民が自國の祖先傳來の言語を用ゐる事はあたり前の事で、他の國民に征伏せら
れたとか、或は自國の文化よりも遙に秀でた他國の文化に壓服せられるとか、してし
まはぬ以上は、其の國民は容易に其の言語を變へはせぬものである。従つて一度他
の國民に征伏されても、其の獨立を恢復する曉とか、或は自國の文化が非常に發達し
て、昔は優等であつて壓服された程の他國の文化も、今はさほどの價値がなくなると
いふ様な曉とかには、自然と自國語の自由を忍び出で、其の獨立を計るやうになるも
のである。最も好い例は獨逸語の場合で、十九世紀に於いて獨逸語が佛國語の覊絆
を脱し、其の獨立をなし得たのは、誠に近代の文學史上著名な事實であります。これ
には、上は天子様をはじめ貴族社會から、下は下女馬丁などにいたるまで、皆々同情を
表して助けたので、これがため數百年間獨逸にはいつて、恰ど普通語同様つかはれた
佛國語も、とうとう其の勢力を失ふやうになり、今では全く使はれぬやうになつたも
のも澤山あります。勿論、此の兩國語をくらべて見れば、佛國語でいふ方が簡單な場
合は多いのである。しかし簡單な外國語よりも、長くてもわかりよい自國語の方を、
獨逸國民は善いとして選んだのである。よし一方は上品にきこえ、一方は粗野にき
こえても、粗野の方に自國語の生命はある、此の方をみがきあげさへすれば、他日は見
事なものになるといふ望があると自覺したからである。
われ/\も此點に於ては、全く獨逸人のやうに自國語のために、漢語の覊絆を脱する
覺悟をもたねばなりませぬ。しかし、なんぼ自國語がよいからと申して、世間見ずの
國學者のやうに、古事記や萬葉の日本語ばかりで、萬事推していけると思うてはなら
ぬ。あまりはげしい復古熱は、われ/\とても賛成せぬ。しかし、一般國民が上古以
來、たとひ文學上をば放れても、猶ほ今でも使つて居るやうな普通語は、なるべくこれ
を言葉の上にも文章の上にも用ゐるやうにしたいと思ふのである。
第二 耳で聞いて混雑を起さぬだけの漢語を保存する事
二千年來我國に用ゐられて居る漢語を、一朝一タに淘汰しようといふのは、誠にむづ
かしい仕事には相違ありませぬ。なか/\すぐに結果を見ようなどゝいふ事も望
まれませぬが、しかし、國民がお互に氣をつけあつて、せめて同音語だけでも、なるべく
早く淘汰しようといふことには、是非したいと思ふ。それは此の同音語といふもの
は、耳で聞いて到底わけのわからぬもので、一種をかしな餘計な言葉數を増さなけれ
ばわからぬものであるからである。たとへば。
コーシャク 公爵 侯爵
シリツ 私立 市立
クワガク 化學 科學
ブンクワ 文科 分科
センシヨク 染色 染織
オンガク 音學 音樂
シンリ 眞理 心理
シガク 史學 斯學
のやうにこんな同音語はまだ/\幾百もある。われ/\は話す時にはキミシヤク、
のコーシヤク、リテレーチュアのブンクワ大學などいふのである。萬事萬端漢字から
割出した時代はしらず、又文字の上でばかりおもな事柄を辨じた時代はしらず、今日
の日本帝國では、こんな事ではとても用は辨じない。そこで私はまづ此の同音語か
ら手をつけはじめて、それからだん/\他の漢語で聞きとり悪いものを棄てるやう
にしたいと思ふ。
第三 自國語にて譯しがたき外國語をばなるべく原語のまゝ輸入する事
日本にもなく支那にもない外國語を、いろ/\骨を折つて漢字で飜譯するのはつま
らぬ事と思ふ。一體日本語は音韻組織上支那語よりも、遙にアリヤン語に近い言葉
であるのに、單に文字の上からばかりで、日本語にしてよい外國語を、日本語として不
便な漢語體のものとする。漢字ばかり使つて居る支那人なればまだしもだがゴ立派
な假字のある日本で、こんな事をするとは不見識といはねばならぬ。漢字に飜譯する
人々は、文章の上の便不便をいふだらうけれども、言葉の上から観察すれば、それはむ
しろ末の話である。今の日本の文學のやうに、漢字や假字に執着して居ては、到底、日
本語が滅びずにすむか、日本語が東洋の普通語になれるか、などいふ事は解釋されま
いと思ふ。日本語を習ふよりも、英語を習ふ方が早い、便利も多い利益もある、といふ
やうな時代が來るまで、たゞしは又、英語が日本かけて東洋の言語となる、世界の言語
である、といふ評判の定まる時代が來るまで、日本語の保護奨勵開拓に従事しないと
いふならしらぬ事、苟も日本語で何處迄も進まうといふ人々は、今から大々的の開進
主義をとつて、國語の根本を動かさぬ限り、廣く外國語を輸入して、一日も早く萬事用
のたりる活きた言葉とせねばならぬ事と私は思ふ。
(明治三十五年八月稿)