一、手爾波研究に於ける富士谷本居兩家の關係に就きて
冨士谷・本居兩大人の關係は、久しく國語學史上の一問題なりき。富士谷翁の生涯は
千七百三十八年(元文三年)より、千七百七十九年(安永八年)に至り、而して本居翁の玉の
緒は實に其歿年に成る。富士谷翁の學風は、大人が門弟及著書に乏しかりしこと、學
者の最も尊重すべき晩年を有せざりしこと、又其一生の大半を京都に送りたる爲に、
種々の關係上より十分に其抱負を吐露しえざりしことなどよりして、永く發達の機
を失ひ、獨り本居派の學問をして幸運を恣にせしめたれど、猶ほ研究の深密なる點に
ては、余輩は容易に兩大人を軽重し得べからずと信ずるものあり。しかして、學者或
は冨士谷翁の門人が後に本居翁の説をとりて師説を補ひたるものありといひ、或は
宣長翁は成章翁の著書を讀みたりといひ、或はまた兩大人の學説は全然獨立に成り
立ちて、其の間には何等の關係なしともいへり、しかれども、たとへ暫く兩大人が生前
嘗て面談の機をえざりしこと、及び宣長翁が富士谷翁の書を讀みたることの此の二
個の點を事實なりとするも、なほこれらの解釋は何れも軽々に首肯し難く、殊に一の
學問は突如として起り得べからず、必ず其歴史を有すべき事を考ふる時は、兩派の學
説がたゞ偶然に相類似せりといふ事これ亦いかゞあらむ。こゝに於て予は、兩大人
の學問は、均しく他の第三者に其の種子を有するものにはあらざるべきかと考へた
り。即ち悦目抄、八雲御抄、歌林良材抄の如きを始めとし、殊に定家以來の研究として
姉小路家に傳はりたる歌道秘藏録、手爾波大概抄、同十三箇條の類、これらが均しく此
の時代に於て民間に傳はり、兩翁は共に之を観、やがて各自獨立に兩家の學問を作り
出しにはあらざるか。蓋し一方には、既に成章が歌道秘藏録を得てその翻刻に着手し
たることあると同時に、他方には、曾て契沖が賀茂神社に献納したる手爾波研究の
書類が、東麿眞淵を經て宣長に傳はりたる形跡あるを信じ得べければなり。又本居
翁にして當時既に學者間に傳播せられたりと覺ゆる秘藏録、大概抄などを見ざりし
といふことあるべからず。余はこれらの書によりて、兩家手爾波の研究の萌芽が茲
に明に認められ得べしと信ぜり。さらば兩大人はこゝに其の學問の系統を均うし、
しかしておの/\異りたる方向に其の發達を致したるにはあらざるべきか。思ふ
に秘藏録、大概抄の如きは其の一端にすぎざるべしといへども、予はこの提説によつ
て、永く兩學派の爭議を解くを得べしと信じ、なほ大方の學者が此の方面に探究をい
たされんことを希望する者なり。