第一期 即ち形容詞の語根單純に用ゐらるゝ場合にして、最も古代の用法に属し、名
詞或は動詞と容易に其の形を判別しがたき事あり。たとへば夜さむ、とほあさ、あ
やにく、あぢきな等に於けるが如し。今日の言語にては、此の期の語は主として複
語の上に遺り居れり。たとへば、たか山、ふかみどり、あを海、わかくさ等の如し。
又其の獨立せる形は、上古の歌謠等には其例少からず。たとへば古事記に於ける、
ふはやが下に、にこやが下に、なこやが下に、ほそたわやの用法の如し。
第二期 即ち形容詞に一種のまがり生ぜし場合にて、此のまがりは文字にては「し」と 書かれ居れど實はchのフォームなるべし。此のchはキとシとの中間に立ちて、いづ れともつかざるものなり。其のレムナントは、古事記はじめ萬葉集等に見えたり。 たとへば、
とほ/\し こしのくにゝ
さかし女を ありときかして
くはし女を ありときこして
見かほし君が 馬のあとぞする
なか/\し夜を ひとりかもねむ
此音の尤もよき例は、東北の方言に存せり。工藤某の所謂チンキフ動議は決して キにてもチにてもあらぬ、茲に所謂chの一音なり。きて此の音よりキとシとの分殊 せる次第は、音の分殊といふ他の考の下にゆづるべし。
第三期 (甲)「き・し」、(乙)「しゝ・しき」とまがりをとりし塲合。さて以上のch音分殊して一 方に「き・く」一方に「し」のまがりを生じ、左の如き官能を殊にするにいたれり。
判定語法 判定語法
ゾノカヽリ タヾノカヽリ
語根名詞法 (副詞法) (形容詞法)
よ よく よき よし
しろ しろく しろき しろし
さて、かゝる甲種のまがりが普通となりし時に、語根に「し」を以て終る形容詞の一體
あるときは、アナロジーの大法によりて、茲に乙種のまがりの生ずべきは論なかる
べし。あし あしき あしく、くるし くるしき くるしく等の如きこれな
り。さて一語の時には、くしきの活用なる形容詞も、その重ねらるゝ時には、しくし
しきの活用となるは、注目すべき事實なり。たとへば長々し・軽々し・重々し・苦々し
等の如し。是に於てか此の乙種のしには、たく・たし・たきのまがりに痛くの意ある
が如く、繁くの意あらむなどいふ説起り來るなり。猶ほ此の事に就きては、他日予
の意見を發表すべし。
第四期 これは鎌倉時代以後形容詞のまがり漸々なくなりし時期にて、即ち今日の 國語に於けるが如く、如何なるかゝりにもイ、イーの二格よりあらざる場合をいふ。 たとへばそれがよい・これはうつくしー・それこそありがたいといふが如し。又ク シクの體形は、此期にありては、副詞として生存するに至れり。たとへばよく出來 た。はやくおいでといふが如し。