翁に對する眞淵の地位は多言するを須ひず。既に師弟の誼あり。「からこゝろを清 くはなれて、もはら古のこゝろ調をたづぬる學問は、わが縣居の大人よりぞはじまり ける」といへるも自然のことなり。たゞ予輩はわが國語學の興祖として其の學説は 三百年の思想界を支配しつゝ、しかも、釋門の徒たる故を以て、國學者の崇敬を受くる こと少かりし契沖が、いかに翁に影響を與へたるかを看取せざるべからず。まづ翁 が始めて其の一生を國學に貢献せんと覺悟するに至りたる契機は、實に契沖其の人 の與へたるところならずや。玉勝間卷二の「己が物學びのありしやう」の條に、翁は自 ら説明していへらく、「さて京に上りしほどに、百人一首の改観抄を人にかりて見て、始 めて契沖といひし人の説を知り、その世に卓れたる程をも知りて、此人の著したるも の、餘材抄勢語臆断などを始めて、其の外も次々に求め出でて見る程に、すべて歌學の すぢの善悪けぢめをも、漸々わきまへさとりつ云々」これ寶暦六年の事にして翁が二 十七歳の時なりしなり。
かくの如くして兩者は黙契し、難波の一阿闍梨は、其の死後五十余年にして、茲にこの 高弟を得たるなり。
しかも其の翌年即ち翁が二十八歳の時、眞淵の冠辭考を見て益々古學を修むる志を 堅くし、遂に其の三十二歳の時、一夜の謁を縣居の門にとるに至れるも、其の契機は實 に五年前改観抄を見たる時に成りしにあらずや。されば已が古學は契沖はやく其 の端を開けりといひ、この側に於ても契沖の、眞淵よりも寧ろ先輩たるを認めたるも の、決して怪しむに足らざるなり。殊に記傳其の他の著書に於ては、本居翁の學説は、 眞淵よりは寧ろ其の系統を契沖に有することを見得べし。たとへば記傳卷一に四 聲を論じて平上去聲の事をのべ、日樋火、毛蹴氣、橋端箸、弦釣鶴の如き音的分化をとけ るが如き、又同巻に假字遣法を説きて、「こゝに難波に契沖といひし僧ぞ、古書をよく考 へて古の假字遣ひの正しかりしことをば始めて見得たりし、凡て古學の道は此時よ りぞ、かつ/\も開けそめける、いともいともありかたき功になむ有りける」といへる が如き、祖述の跡の明かなるもの一にして足らず。これを要するに翁が偉大なる學 問の系統は、一たび契沖より出でて分岐發達せる研究の、再びこゝに統一せられたる ものとして考ふるも、甚だしき謬見にはあらざるべし。
一方に契沖の勢力が此の如く大なると共に、翁を識るものは、又一方に新井白石を想 ひ出でざるを得ざるべし。白石の歿せるは享保十年にして、即ち翁とは六年を隔て て相知るを得ざりしなり。この均しく日本國民の誇るを得べき兩偉人の間に存す る著しき類似と、甚だしき差異とは、翁を考究する者の看過するを得ざる處ならむ。 まづ漢意を排し國學を復興せん事は、既に早く白石の唱へたるところならずや。白 石は漢文が我國語の發達を妨げたるを論じ大に之を悲しみたり。白石は漢學者な り、しかも主客の別を辨へたる漢學者なりしなり。この點より見て、わが翁は、其の友 谷川士清と共に、大に白石に負ふものありといはざるべからず。なほ其の事業の多 面多趣なること、兩者の間に著しき類似をなせり。綿密なる財政家として・敏腕なる 外交家として・歴史家として・文章家として・詩人として・さては西洋學の鼻祖・卓見に富 みたる語學家として・驚くべく多能多才なる白石は、皇學及び神道を中心として・神學 者として・歴史家として・又た一個の語學家として・而して又たとへ秀抜せる地位を有 し得ざるにもせよ詩人として・文學批評家として。この翁と雙々相對して我學界に異 彩をはなてるにあらずや。しかも此の兩偉人を比較して、殊に予輩の趣味を感ずる ものは、蓋し他の一方に於て、奇怪にも多くの反對若くは差異の點を認め得るによる なり。今これらの點を述べんとするは、單に興味ある事業たるのみならず、同時にま た翁が眞正の面目を發揮するに必要なればなり。
翁と白石との間に存する反對の點は、第一に、白石の唆嚴冬霜の如きに對し、翁の温厚 春風の如きにあり。一方は廟堂に立て堂々の議をなし、君の忌にふれて毫も顧みざ るに、一方は庵を緒び鈴を鳴らして、従容自適す。性格の差異驚くべきにあらずや。 第二は、白石が弟子を遺さざりしに反し、翁は全國に門弟を有し、享和年間に至ては其の 數四百九十人、六十六國中弟子の無きはたゞ二國なりといふ。第三に、白石は政治 上の偉能あり、翁は此の側にては殆ど無能なり。性格と時勢とは自らかくの如くな らしめたるなり。第四に、兩者は均く博學多識なれども、白石は事物の實質に立ち入 りて創始を喜び、啓發を事とせるに、翁は考證を基とし、既成の事物を綜合組織するに 長ぜり。讀史餘論を見よ、東雅を見よ、東音譜を見よ、前人をぬき出る白石の創始的才 能は明に見るを得べし。之に反して記傳を見よ。玉之緒を見よ、三音考を見よ。前 代及ひ其の同時代の學問は、偉大なる手腕の下に統一せられて、後世發達の基礎の茲 に置かれたるを知らむ。第五に、白石は理を本とし、宣長は信仰を本とせるを見る。 一方は科學者なり、一方は少くも或度までは宗教家なり。彼は韓語梵語宋元の音、進 では西南洋の蕃語までが國語の中に侵入したるを説き、此は鼻音を排し半濁を説き 溷濁なる外國音の清純なる國音を侵す能はざるを説く。第六に、白石は實地の日本 にむかひ、翁は理想の世界に進み入らんとす。由來復古學は一種の理想なり。讀史 餘論、藩翰譜、折たく柴記を讀むで、記傳玉勝間に及べば、著しき径庭を感ずべし。第七 に、其の生涯の經路に大なる差異あることはいはでもあるべし。土屋侯の一足軽の 子として人を驚かしたる幼年時代と、失意に滿ちたる中年時代とを送りたる後、堀田 甲府二侯に歴仕し、忽ちにして天下の大事に參與し、榮譽寵遇を極めたりしも、六十一 歳時勢の變に遇ひ、一朝にして榮辱地をかへ、寂しく晩年を終りたる白石と、幸福なる 木綿問屋の息子として、十分の普通教育をうけ、書を好むが故に醫を學ばしめられ、紀 州侯の奥殿に奉仕して静かに好學の心を養ひ、家には二男三女を擁し、遂に山室山に 千歳の春を樂めるわが翁と、驚くべき境遇の變化は、又たその性格に差異を生じたる 一の原因なるべし。第八に、一は伊勢の如き平和の地に生れて、徐に其の學問を發達 せしめ、一は江戸の如き混亂の渦中に投じて世と戰へり。翁と白石とは、性格境遇の 差異此の如く大なれども、均しくこれ日本の人傑にして同一の大なる天才が兩個の 極端に發達せる好例を遺せるものといふべし。
契沖眞淵の外尚ほ翁に一の大なる關係を有したる者を富士谷成章とす。此の同時 代の兩學者が學術上の關係に就ては、予輩多く之を知らず。或は兩者の研究が同一 の源泉より出でて、異りたる方向に發達せしにもあるべし。翁が玉勝間卷八に、口を 極めて成章を賛したるを見れば、相互の關係が決して尋常のものにあらざりしこと を想ひ得べきなり。
予輩は既に翁の先輩に就て述べたり。予輩はこれよりかくの如き先輩を有したる 翁が、いかなる人爲の教化をうけたるかを見ざるべからず。傳によれば、翁は大和國 吉野にいつき奉る水分神社の申し子にして、繁盛せる一の商家に生れ、當時の中等以 上の教育を受けたるものゝ如し。八歳の時西村某に師事して手習を始めてより、十 二歳には齋藤松菊に従て手習し、岸江之中によりて四書を讀み、又猿樂の謠曲を習ひ、 十七歳にして歌を讀み始め、濱田瑞雲に射を學び、又茶の湯を習ひ、正住院に就て五經 を讀みたりといへば、當時に於ては立派なる士人の教育を受けたりといひて不可な し。二十二歳の時兄定治江戸にて歿するによつて家をつぎ、二十三歳京に上り、堀景 山によりて漢學を究め、次で二十五歳には典薬武川幸順法眼の弟子となりて小兒科 を學び、春庵と號し、二十八歳郷に歸りて小兒科醫を業とせり。其の前二十七歳、契沖 の書を讀で古學研究の志を起し、これより學業竝び進みたるなるべし。蓋し翁が七 十二年の長生涯は、其の緒婚したる三十三の年即ち寶暦十二年西暦千七百六十一年 を以て前後の兩期を畫することを得べく、而して翁はこの三十三年の前半期に於て、 深遠なる素養を積みたるものなり。されば結婚せし翌年寶暦十三年には、既に石上 私淑言、紫文要領等成り、又た明和元年には記傳の大著述が起稿せらるゝに至れるこ と決して偶然にあらず。かくの如く幸福なる教育を受けて、充分の素養を積み得た るに伴ひ、なほ學術の發達に幸運を與へたるは、その旅行なることを忘るべからず。 蓋し旅行が人の見識を廣め性格を高めて、偉才の素養をなすことは、古來常に見る所 にして、翁も亦この好運を有したるものとす。即ち十三歳の時大和水分神社に詣で、 十九歳の時近江多賀神社に詣で、次で京阪の間を往復し、二十二歳の時江戸に行き、冨 士に上れり。其の京に上りて堀景山に師事せしは二十三歳の時にして、家に還りて 醫業を開きしは其の二十八歳の頃なり。凡て其の修業時代におけるこれらの旅行 は、一方に常感を養成せしと共に、一方には日本の地理歴史を理解する上に正しき根 據を得しめたり、即ち本居家の學問をして不動の基礎に立たしめたり。
予輩は既に翁が教育素養等に就て述べたり、余輩は今や翁が學問と其成功とに就き 述ぶることあるべし。
漢意を郤け、皇國の道を廣め、大和魂を發揮し、以て一世の迷夢を覺醒せんとは、いふま でもなく翁が學問の中心にして、歌學・文學・語學・史學の如き各學は、皆この申心に貢献 すべき手段たるに過ぎず。しかも手段たる各學は何れも後世それ自身に發達すべ き基礎を得たり。春滿眞淵のはじめたる文献學は、翁に依て初てその基礎を得、契沖 によりてうちたてられたる國語學は、翁に至て遂に時期を畫せり。社會に於ける地 位は紀伊家の奧醫にして、門弟には名古屋の横井千秋,鈴木朗の如き名士あり。沒年 即ち享和元年には四月上京して四條鳥丸等諸公卿の前に講莚を開けり。地下の學 者には學術上の敵ともいふべき堂上家諸公卿の招きをうけ、歴世の名門をして甘じ てわが講莚に侍せしめしに至ては、翁が成功も亦た極まれりといはざるべからず。 一生を論爭の渦中に沒し、後世をして、始めて自説の眞價を認めしむるが如きものと は、其の幸福蓋し同日の論にあらざるなり。
翁の研學の進境がいかに速かなりしかは、其の著書の陸續として成れるを見て知る べし。三十四歳の時即ち寶暦十三年石上私淑言始めて成りてより、同じき年に手枕 成り・古今選成り・紫文要領成り、翌明和元年には古事記傳既に起稿せられ、三十五箇年 丹精の偉業は茲に始まれり。これより寛政十二年翁の齢七十一歳に至るまで、毎歳 殆ど一種若くは數種の著述あらざる無く、その能動誠に驚くべし。試に學術の各方 面を窺はむか、音韻學者としては字音假字遣に始めて於乎の所属を辨じ、文法學者と しては玉緒に手爾波研究の統一を與へ、活用抄に八衢の生るべき黙契を與へ、さては 古語の註釋家としては記傳の大著あること更に述べんまでも無し。又た翁は專門 の歌人にもあらず、文人にもあらず、されど玉霰、呵苅葭、鉗狂人、國歌八論評などにおけ る所論は、優に翁をして一世の文學批評家たらしむるに足れり。
その研究の此の如く多趣に、その成功のかくの如く完美なる上に、余輩は翁が學問の 模範者として欽慕すべき抱負と崇敬すべき地位とを有することを忘る可らず。こ の側に二個の點あり。その一は玉勝間卷二の「己が教へ子にいましめおくやう」の條 に「すべておのが人を教ふるは、道を明にせむとなれば、かにもかくにも道をあきらか にせむぞ、吾を用ふるに有ける、道を思はで徒にわれをたふとまんは、わが心にあらざ るぞかし」といへるこれにして、「わが後に又よき考のいで來らむには必ずわが説にな なづみそ」といへる縣居の金言は、又た翁の家訓なりしなり。惜いかな門弟輩其の師 を識らず、朋黨を結び相比周して、終に斯學の發達を妨げたり。その二は翁が新しき 學説を主張せることにして「しか世の中の論さだまりて、皆人のしたがふ世になりて は、始よりすみやかに改めしたがひつる人は、かしこく心さとくおもはれ、ふるきにか かづらひて、とかくとゞこほれる人は、心おそくいふがいなく思はるゝぞかし」といへ るなど、玉勝間一の「新説を出すこと」の條、同二の「新にいひ出でたる説はとみに人のう けひかぬ事」の條などを見ば、明に翁のわが學界に於ける革新の先覚たるを知るべし。
それかくの如し、故にこれを前にしては、幾多の先輩あり、これを同時代にしては成章 の如き碩學あるにも關らず、一世の師表として本居家の學風を建立するに至れるも の、誠に偶然にあらず。明治の聖世に當り我國語國文の學は、たとへ其の根底より改 造せらるべき氣運に向へるにもせよ、しかく斯學を發達せしめたる偉人偉業に對し ては、余輩は最も熱心に尊敬と感謝とを表白するに躊躇せざるなり。故に余輩は生 をこの紀念すべき日に享けたる幸運を思ひ、茲に翁が偉業の一斑を陳述して以て祭 詞に代ふと云ふ。
(明治三十四年七月稿)