◎謡曲共通語について(月刊言語 昭和63-9言語空間)
本誌七月号の徳川宗賢氏「方言差を謡曲で克服した話」、大変興味深く拝読した。“言語伝説”というわけで、出典がみつからないという。
私も具体性のある記述は、徳川氏の示されたものが初めてだが、私の知っている「噂の記録」二種をお知らせする。他の方々からも情報が寄せられるであろうが、重ならなければ幸いである。
一つは、昭和二年早稲田大学出版部刊『半峰昔ばなし』。早稲田大学二代目の総長、高田早苗、号は半峰の自叙伝とも言うべき書で、筑摩書房の明治文学全集98『明治文学回顧録集(1)』にも抄録されている(残念なことにこの項は取られていない)。
一〇五「議会の名士 花形 方言演説」(二三三頁より)の末尾。
今一言附け加へたいのは、第一議会は方言的演説の競争場たる感があった事である。昔から聞いて居る話に薩摩の人と弘前の人は謡曲の言葉で問答しないとお互いに理会しないという事があるが、然ういふ方言で以て大演説を試みた人も少くなかった。
高田半峰は松本金太郎翁について、宝生流の謡曲をやっていたということが同書の中に見える(三一三頁)。この「伝説」は、謡曲界の方から広まった可能性も考えてよいかもしれない。維新後、零落した武士が門前で謡曲を唸っておあしをもらっていたというのも、どこかで読んだ気がするが、これも謡曲にまつわる伝説といえなくもない。
一方、高田半峰は坪内逍遥と親しくしており(同書の出版を勧めたのは逍遥と市島春城)、近代の文体模索の中でよく言われた「伝説」とも考えられる。第二の例はそうしたものである。山本正秀氏編『近代文体形成史料集成発生編』(昭和五三年桜楓社)の二二四頁に、明治一八年六月三〇日「自由燈」社説、朝寝坊氏「東京語の通用」が載せられている。その中ほど、
昔し諸大名が参勤交代の世界に西国の大名と東国の大名と縁組の相談ある節には互の言葉が分らぬので必ず謡本の候言葉を使ふて用を辨じたといふ話も聞きしことあれども……(原文総ルビ)
私は山本氏の編著を通読したわけではないので、他にも「伝説」記載があるかもしれない。青森の人と薩摩の人の話が通ぜぬ云々という記事は実に良く目に止まるが、謡曲はなかなか見当らない。
またこの記事を信じれば、維新の頃ではなく江戸時代である。あるいは文献博捜の手を江戸時代にまで広げる必要があるのかもしれない。
とりあえず右の二種を報告しておく。 (福岡県・岡島昭浩)