オーストラリア辞典
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Blamey, Thomas Albert

ブレイミー、トマス・アルバート


1884-1951
ウォガ・ウォガの近郊、ニューサウスウェールズ生まれ。
ヴィクトリア州警察庁長官、オーストラリア陸軍最高司令官。


 ブレイミーは1884年、肉屋を営むリチャード・ヘンウッド・ブレイミの第8子として、ニューサウスウェールズのウォガ・ウォガ近郊に生まれた。公立学校を卒業後、1899年から小学校の教育実習生として働き始めた。1903年には西オーストラリアで正式な教師となったが、1906年に軍隊に入隊した。1909年、ミ二ー・キャロライン・ミラードMinnie Caroline Millardと結婚し、のちに2子をもうけた。1912年、ブレイミーはインドの幕僚養成のための学校で学び始めた。このことは彼が軍隊の世界での成功を目指していたことを示すものである。1913年に学校を終了し、翌14年にはさらに軍人としての経験を積むために、ロンドンへ派遣された。

 第1次世界大戦が勃発すると、ブレイミーは1915年にガリポリに向かい、そこで武功を立てた。それにより一時的にではあるが、陸軍中佐に任命された。その後、高級副官補佐、主計総監、陸軍大佐などを務め、1918年にはモナシュの下で陸軍参謀長に任命された。1919年にメルボルンに戻り、陸軍本部の作戦本部長となった後、1922年にはロンドンでオーストラリア参謀幕僚代表を務め、続いて1925年にはオーストラリアに戻り、参謀幕僚補佐になった。この時点までは彼の軍人としてのキャリアは安泰かと思われた。しかし、彼のスピード出世はかなりの反感をかった。なぜならオーストラリア陸軍は市民軍の性格が強く、しかも、ブレイミの同僚の多くは彼より年上だったからである。

 1925年にブレイミーは陸軍を退職し、ヴィクトリア州の警察庁長官となった。しかし、同年10月に彼の警察バッジをつけた男が売春街で見つかるという事件が起こり、ブレイミーは窮地に立たされた。ブレイミーは周囲には、友人にバッジのついたキーホルダーを貸したことを明らかにしたが、一方、公式にはバッジは盗まれたものだと主張した。ブレイミーは保守的で、また独裁主義的であり、ホワイト・アーミーWhite Armyという右翼的秘密結社のリーダーであったと考えられている。1935年に政府からナイトの爵位を与えられたが、翌年、警察幹部をかばうために偽証をしたことが明らかになり、ブレイミーは辞職に追い込まれた。この時期、ブレイミーの生活は最悪の状態であった。1935年に妻を亡くし、1937年には6年間少将として務めた市民軍第3師団の指揮権を放棄し、予備役名簿に名前を載せたりもした。一見彼のキャリアは終わったかに見えた。

 しかし、彼はロバート・メンジーズ、R.G.ケイシーCasey、フレデリック・シェデンなどから支援を受け、また1938年からは、国際的なラジオ放送を手がけることによって収入を補うようになった。同年、連邦政府の兵力委員会Manpower Committeeの議長に就任し、軍隊の強化に力を入れた。1939年にブレイミーは35才のアーティスト、オルガ・オラ・フランズウォースOlga Ora Fransworthと結婚した。

 第2次世界大戦が勃発すると、ブレイミーは1940年、オーストラリア帝国軍の指揮官に任命され、中東に派遣された。しかし、彼には、酒びたりで女々しいという、やや誇張されたうわさが立ち、それゆえギリシアでの軍事行動に失敗したのだと言われることもあった。その後、アンザック軍の指揮官を務め、1941年には中東におけるイギリス軍の最高司令官補佐に任命された。翌42年にオーストラリア陸軍最高司令官、並びに、連合軍の南西太平洋方面の司令官となった。彼はニューギニアで軍事行動を指揮したが、1945年にそれが批判の対象となり、同年の終わりに軍隊を退職した。

 その後、メルボルンに戻り、福利厚生事業を展開し、1950年にオーストラリア人ではじめて陸軍元帥となった。しかし、それが決定された数日後、彼は重い病にかかった。そして、1951年5月27日、息を引き取った。

 藤岡真樹0501