オーストラリア辞典
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Brennan, Christofer John

ブレナン、クリストファー・ジョン


1870-1932
シドニーに生まれる。
詩人、学者。


 詩人であり学者であるブレナンは、シドニーのハーバー・ストリートで1870年11月1日に、アイルランド移民クリストファー・ブレナンと、その妻メアリー・アン(旧姓キャロル)の長男として生まれた。父親はダブリンのギネス・ビール工場でビール醸造について学び、1864年シドニーに移民した後、R.&F.トゥース・ケント・ビール工場で働いた。父は後にパブ経営者となった。息子クリストファー・ジョンの幼少時代は、6歳で腸チフスを患うなど、病気で床に伏せがちだった。また学習能力において発達が早く、母親にとりわけかわいがられて成長した。1880年ピット・ストリートのグッド・サマリタン修道院学校で侍祭として勉強し、11歳のとき聖アロイシアス中等学校へ進学し、3年後リヴァーヴューの聖イグナティウス・カレッジで学んだ。また1888年シドニー大学で古典学について研究した。この頃から彼は詩作を始める。ベルリン大学にも留学したが、学位を取得することはできなかった。ベルリンに旅立つ1892年以前、ゴールバーンの聖パトリック・カレッジと、リヴァーヴューの聖イグナティウス・カレッジで教師の仕事に就いた。1894年にベルリンから帰国し、1895年にニューサウスウェールズの公立図書館でカタログ制作者となり、1907年から同図書館司書見習いとして1909年まで働いた。1897年には彼の最初の詩集XXI Poemsが出版された。フランス語とドイツ語で大学の講師助手として定職に就く1909年以前は、非常勤の語学教師(1896-1897)、(1908-1909)や古典学教師(1908)であった。1921年にドイツ語と比較文学の助教授となったが、1925年不貞の行為により解雇された。ブレナンは1927年にダーリングハーストのマリスト・ブラザーズ高校で再び教職に就き、1930年2月にポッツ・ポイントの聖ヴィンセント・カレッジで働いた。しかし、その2年後1932年10月5日に、シドニーで癌のため死亡した。ブレナンは詩人としてその名を知られている。人間の性的特質や潜在意識について興味を持ち、フランスの印象派に大きく影響を受けた。このためオーストラリアの詩の分野の主流から大きくはずれているが、読者はほとんどオーストラリアの人々である。主な作品にはXXI Poems、Being the First Collection of Verse and Prose(1897)、Towards the Source(1897)、A Chant of Doom and Other Verse(1918)などがある。

 西海孝龍0501