オーストラリア辞典
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Broughton, William Grant

ブロートン、ウィリアム・グラント


1788-1853
ウェストミンスター、イングランド生まれ。
英国国教会の牧師。


 1794-96年にバーネット・グラマー・スクール、1797-1803年にカンタベリーのキング・スクールで教育を受け、その後ケンブリッジ大学に進学予定であったが父の死後、経済的な理由によって途中で勉学をいったん断念した。父方の叔父とセシル家の力によって、東インド会社で財務担当の事務員として働いた。その後、遺産を受けたために、ケンブリッジ大学に進むことができた。1818年に聖職の道へと進み、その年に助祭に任命された。1828年にニューサウスウェールズの副主教に任命され、その翌年にシドニーに赴いた。

 彼の活動の中心は教会の新しい財政の基礎を確立することにあった。国教会に安定した財政基盤をもたらすはずであった、教会・学校協会は、彼がイギリスを発つ1日前にその活動が停止され、その特許状は1833年に無効になった。1830年に彼はキング・スクールをパラマッタとシドニーに建設する計画を発表した。しかし、この計画にシドニーの住民やプレスビタリアンは反対した。1833年に総督バークは、国民教育システムの導入と、国教会、プレスビタリアン、カトリックが同等の援助を政府から受けるという提案を行ったが、ブロートンはこれに強く反対した。国教会が他の宗派と対等の立場におかれることを、ブロートンは認めることができなかったのである。1836年にはオーストラリアの最初の主教になった。また、英国国教会、プレスビタリアン、カトリックに同じ基準で政府の援助を与える、バークの教会法が同年に制定されたが、彼はバークの教育と宗教に関する政策に反対した。

 ブロートンは多くの教会や学校の建設に尽力し、セント・アンドリューズ大聖堂の建設にも携わった。また、オーストラリアの拡大に対処するために新しい主教管区の設置に努力し、タスマニア、メルボルン、ニューカッスル、アデレイドの主教の設置に協力した。その結果、彼自身はシドニー主教の地位に着くことになった。教会の組織についての議論を行うため、イギリスを訪問中の1853年に亡くなった。

 新林秀亮0601