オーストラリア辞典
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Cricket

クリケット


 オーストラリアにおけるクリケットは、少なくとも1803年までには導入され(1803年にシドニーではじめて試合が行われた)、オーストラリアの男性スポーツの中では最も人気のある競技の1つとなっている。1830年代には多くのクラブ・チームが結成される。その中でも1838年に創設されたメルボルン・クリケット・クラブは、国内ツアーや軍隊との交流試合を行うなど、オーストラリアのクリケットの発展に大きく寄与した。1851年には初めて植民地間(タスマニア=ヴィクトリア)の試合も行われ、クリケット人気を高めた。さらに、1860年代にはイギリス本国からのH.H.スティーヴンソンやジョージ・パーの率いるチームが来たことで、より広く普及するようになった。英国との対抗戦、後に「テストマッチ」と言われるようになる試合は、1876-7年にオーストラリアではじめて開催された(アボリジナルのチームは、テストマッチよりも早く1868年にイギリス遠征を行っている)。その大会でジェームズ・リリー・ホワイト率いるオーストラリアのチームが、イギリスのチームに初の1勝を収めた。イギリス本国では、主力を欠いていたとして敗北したことはさほど注目を集めなかったが、植民地側ではその勝利は人々の心に深く刻まれるでき事であった。

 イギリス本国のクリケット界の人々は、初めのうちはオーストラリアのクリケット・チームの実力に注意を払っていなかったが、次第にその実力の高さを無視できなくなった。1882年、第3回のイギリス遠征で、オーストラリア・チームが初めてシリーズに勝利した時、イギリスの新聞『スポーティング・タイムズ』は、イギリスのクリケットは死んだ。死体を火葬し、その灰はオーストラリアに献上するべきだ、という内容の記事を掲載した。1882年から1883年にオーストラリアで開かれた大会でイギリスが勝利した時、イギリス・チームの主将は灰ashesの入った壷を授与された。その壷はロンドンのローズ・クリケット競技場に持ち帰られ、以来勝敗にかかわらずそこで保管されている。この後テストマッチのシリーズで勝つことを「アシュイズに勝つ」と言うようになった。その後、ツアーを成功させるためには、主催者と行政の連携が不可欠として、1905年にオーストラリア国際クリケット管理委員会が設立された。テストマッチは最初のうちは英豪2国間で行われていたが、その後、南アフリカ(1902-03年から、1969-70年以後中断、1993-94年再開)、西インド諸島(1930-31年から)、ニュージーランド(1945-46年から)、インド(1947-48年から)、パキスタン(1956-57年から)、スリランカ(1982-83年から)とも行われるようになった。1930年代のボディライン・シリーズにも見られるように、クリケットは英本国に対するオーストラリア・ナショナリズムの凝集点であると同時に、ナショナリズムの表出の場でもあった。

 1977年にケリー・パッカーによって創設されたクリケット世界選手権は、クリケット界だけでなく世論も巻き込んで論議を呼んだ。パッカーには多くの人々から批判が集まったが、世界選手権のために導入された1日制のクリケットは、現在広く普及するようになっている。シェフィールド・シールド・トロフィーを巡って競い合う、オーストラリアの州対抗選手権大会は1892-93年に始まった。オーストラリアのクリケット人気は、1920年代末から1930年代と1970年代以降にとりわけ高まったが、前者はドナルド・ブラッドマンというスター選手とラジオ放送の始まり、後者はテレビ放送の始まりと一致していた。

 近年は、ベースボール、バスケットボールなどの人気が高まりを見せる中、国民的スポーツとしてのクリケットの地位も安泰ではなくなってきているといわれている。そうした状況の中、社会基盤を広げ、数を増す非英語圏出身の人々に対してもクリケットの人気を盛り上げていくことが求められている。

 三木一太朗00