オーストラリア辞典
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Female Factory

女子囚人収容施設、女性工場、女性仕事場


 女子囚人のための公的施設で、パラマッタ、ホバート、ロンセストンの3ヵ所にあった。これらの施設は、流刑船で到着後一般の入植者に割り当てられるまでの女性囚人や、入植者が不要だとして解雇した女性囚人、妊娠したり病気になった女性囚人、小さな子供のいる女性囚人や、植民地内で犯した罪に対して有罪判決を下された女性囚人たちを収容した。収容者らは紡績や縫製、後には洗濯等の仕事に従事した。ただし、より厳しい処罰として独房監禁が課せられることもあった。施設の中では女性は3つのクラスに分けられ、第1のクラスにはイギリスから到着したばかりの者、第2のクラスには病気や妊娠した女性、老人や子供のいる女性など、第3のクラスには植民地で犯罪を犯した者に区分され、その扱いは第1クラスから第3クラスへと厳しくなった。

 パラマッタの施設は、当地の刑務所の上の階に設置されたが、マクウォリー時代に囚人数が増加したので、1821年に新たな別個の施設が建設された。1,800人まで収容することが可能であり、1842年には、女子1,203名、子供 263名の収容数を記録した。これはパラマッタの施設における収容数の最高記録である。しかしニューサウスウェールズへの流刑の廃止に伴って、その収容者数は劇的に減少しはじめた。こうして1848年に施設は廃止された。

 規定に沿って花嫁を見つける目的で収容所を訪れた男性と、施設内の女子囚人との間での結婚が多く行われた。当時の植民地政府は女性労働への需要が相対的に少なく、女性工場に多くの女性がとどまることによる支出の増大に悩んでおり、女性の結婚を積極的に奨励していた。他方、女性囚人も、女性工場で監視と管理を受ける生活よりも、結婚をして、開拓地で困難ではあるがそれでも自由な生活を選ぶ者もいたのである。女性囚人は結婚しても名目上は囚人のままであったが、事実上は自由な身になることができた。

 ホバートの女子収容施設は、1827年に蒸留酒製造所に設置され、産院も併設された。ニューサウスウェールズへの流刑が終わるとともに、その収容数は増加しはじめ、1850年にはおよそ 900名にまで達した。この頃までには教育施設を含む幾つかの設備も整えられた。ロンセストンの施設はおよそ 160名の囚人を収容したが、タスマニアへの流刑が1853年に停止すると、両施設ともに徐々に廃れていった。

 平野孝展00