オーストラリア辞典
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First Fleet

第1船団


 イギリスが流刑地設立のためにオーストラリア入植を決定したのは1786年8月のことである。イギリスからボタニー湾に向けて11隻の船がアーサー・フィリップ船長指揮のもと、1786年5月13日にポーツマス港を出港した。その船団の構成は、旗船シリウス号、護衛船サプライ号、囚人運搬を目的としたアレクサンダー号、スカーバラ号、シャーロット号、レディペンリン号、フレンドシップ号、プリンスオヴウェールズ号、また物資の輸送にあたるフィッシュバーン号、ゴールデングローブ号、ボロデイル号の計11隻の船から成り立っていた。船の乗員の総数は約1,350人にのぼり、そのうち756人が囚人であった。彼らの主な罪状は窃盗、家宅侵入、強盗などで、その多くが常習犯であった。その他の人員構成は船員を除くと、新しい入植地に派遣された役人、軍人が212人、囚人、軍人たちの妻子が50人以上いた。

 船に乗っていた人の中には、新しい入植地オーストラリアで重要な役割を果たすことになる人物が何人かいた。後の植民地総督となったジョン・ハンター、ノーフォーク島の植民地建設者でハンターの職を受け継ぎ総督となったフィリップ・キドリー・キング、ヴァンディーメンズランド植民地建設者であるデイヴィド・コリンズなどが乗船していた。

 船団が出港して1週間後に囚人たちの反乱がスカーバラ号で起りそうになったが、その計画は未然に発覚した。船団は南に向かい、カナリア諸島のテナリフェに水と物資の補給のために停泊し、そこからリオデジャネイロに向けて大西洋を横断した。8月初旬頃に到着、物資や植物などを積み込み、再び大西洋を横断して喜望峰へ船を進めた。11月にケープタウンに到着し、そこでもさまざまな動植物などを多数積み込み、オーストラリアに向かった。ヴァンディーメンズランド(タスマニア)が見えてきたのは1月初旬のことである。島の南岸を通って北に向かい、1788年1月18日にサプライ号がボタニー湾に到着した。19日から20日にかけて残る10隻も無事に到着した。ケープタウンでフィリップはサプライ号に乗り換えていた。船中26人が死亡したが、当時としては極めて死亡率の低い航海であった。ボタニー湾が入植に不適当だと考えたフィリップは1月25日サプライ号で北のポートジャクソンのシドニー入り江に移り、残る船団も翌日すべて移動した。ここにオーストラリアの本格的な入植活動が始まった。ポーツマス港を出発して8ヵ月後のことである。

 師井学00