オーストラリア辞典
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Fisher, Andrew

フィッシャー、 アンドルー


1862-1928
エアシア、スコットランド生まれ。
連邦首相(1908-9, 1910-13, 1914-15)


 彼は1862年炭坑夫の息子としてスコットランドに生まれ、当時禁止されていたにもかかわらず10歳のころから炭鉱で働き始める。そして、1885年にはクィーンズランドに移住し炭坑夫として働き、その後ギンピー金鉱に移住して鉱夫協会の代表を務めるようになる。また、1891年のギンピーにおける労働党支部設立の立役者となり、1893年からクィーンズランドの下院議員となった。1901年には新しい連邦議会に労働党議員として選出された。

 1907年に労働党の党首になった彼は、翌年ディーキン内閣が労働党の支持を失って倒れた後に、初めて首相の座に就くことになる。彼の内閣は1909年に保守派の連立によって取って代わられたが、1910年の選挙において労働党が勝利を収めたので、2度目の首相を務めることとなる。この時期に彼が行った代表的な政策は、連邦銀行の設立、オーストラリアの紙幣の発行、オーストラリア海軍の結成や、出産手当や障害者年金など社会福祉の拡充であった。また、労働調停仲裁裁判制度強化にも努力し、ノーザンテリトリーを南オーストラリアから連邦の管轄下に移した。しかし、彼は1913年にジョセフ・クックの率いる野党に総選挙で敗北した。

 1914年に行われた選挙によって再びクックに勝利し、3度目の首相を経験することとなる。この1914年の選挙活動中に彼がたびたび用いた言葉に‘last man and last shilling’というものがある。これは、ヨーロッパにおいて戦争勃発の可能性が高まってきた当時、オーストラリアが「最後の1人、最後の1シリング」までイギリス防衛を支援するであろうというものであった。しかし、この内閣はヨーロッパにおける危機によって、また、徴兵制をめぐる党内の分裂によって弱体化した。1915年にフィッシャーは辞任し、リードに代わってロンドン在住の高等弁務官を1916から1921年まで勤めた。1922年フィッシャーは再度イギリスに戻り、ロンドンのサウス・ヒル・パークで息をひきっとった。

 片山健太0704