オーストラリア辞典
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Fraser, John Malcolm

フレイザ、ジョン・マルコム


1930-
メルボルン生まれ、政治家、連邦首相(1975-83)。


 メルボルン・グラマースクールとオクスフォード大学でエリート教育を受け、オーストラリアに帰り、牧畜業者となる。1955年にヴィクトリア州の自由党下院議員となり、以後大臣職を歴任、1975年に自由党党首となった。同年、ホイットラム政権の辞職に伴い、暫定的な首相に指名された。1975年から1983年まで首相であったが、1983年にホーク率いる労働党に政権を奪われた。その後自由党党首を辞任、議員も辞する。政界を去った後も南アフリカのアパルトヘイト廃止の運動などにかかわった。

 富裕な家族の出身であり、1955年にヴィクトリアから連邦議会の自由党議員となる。高邁不遜な振る舞いが災いしたのか、10年間は無役の議員であったが、1966年陸軍省、1968年と1971年に教育科学省、1969年防衛省と連続して国務大臣の経歴を重ね、次第に独自のやり方で頭角をあらわしてきた。すなわち、強烈な自己主張、部下への多大な要求、個人的なネットワークからの援助、あらゆる意見を戦わせて最後には自らが決定し、その決定はほとんど変更しないというスタイルである。

 フレイザはジョン・ゴートンがハロルド・ホルトの後継者となった1967年には彼を支持したが、ゴートンの政治的配慮のない独断的なやり方に反対し、1971年には反旗を翻し政権を離れた。このことがゴートン自身の失脚の契機となり、ウィリアム・マクマーンに政権を明け渡す結果となった。

 1972年、労働党ホイットラム政権が成立すると、ビル・スネドンが自由党党首となった。フレイザの支持者はスネドン追い落としをもくろみ、1975年5月にはフレイザを新党首にかつぎあげた。フレイザは、この年、ホイットラム政権の失政の中で、この政権に未来はないと考え、上院で予算審議拒否戦術をとり、国会は混乱し、政権は暗礁に乗り上げた。ジョン・カー連邦総督が調停に乗り出し、ホイットラムを罷免し、フレイザを次の選挙までの選挙管理内閣の首班に任命した。政局は大混乱していた。12月に選挙が行われ、フレイザは大勝し政権の座についた。彼はこのとき45歳であった。1977年、1980年の選挙でも勝利し、フレイザ政権は1983年ホーク労働党に政権の座を明け渡すまで続いた。

 フレイザは、強力で攻撃的な指導者であった。彼の政権が行ったことに対しては批判的見解も多く、それは党内部からも少なからずあった。経済情勢が、オーストラリアの財政再建に対して逆風であり、小さい政府や公共事業からの撤退などを掲げていたが、実際フレイザは優れてナショナリストであり、同時に改良主義的自由主義者としてふるまった。彼は、極端な経済合理主義には反対した。1982年の不況時、彼の政策は、サッチャーやレーガンを先取りしていたとはいえ、彼らほどの大胆な改革を行ったとは言いがたい。

 1985年、フレイザは、ホーク政権によって南アフリカのアパルトヘイト調査団代表に指名された。以後、国際人権や援助の分野で活躍している。1980年代中ごろから自由党は、富者と組織労働者の中間に足場を置くという伝統的な立場を徐々に離れ、「経済的合理主義」を追及することとなる。フレイザの求めた国家的必要性と市場の要請の均衡というものは、急速に少数派の意見となった。

 安井倫子00