オーストラリア辞典
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Gilmore, Mary Jean

ギルモー(ギルモア)、メアリー・ジーン


1865‐1962
ゴールバーン近郊、ニューサウスウェールズ生まれ。
作家。


 スコットランド人の父とオーストラリア人の母の、長子として生まれた。父は農夫、徴税請負人、不動産業者、大工等々の仕事に携わり、家族はニューサウスウェールズの南西部を転々とした。彼女は7歳からにウォガ・ウォガのブルースデイルの学校に通い、1877年からはダウンサイドの学校で教育を受けた。その頃から非公認ながら教生として教え始め、4年後には試験に合格して見習の教生としてウォガ・ウォガの中等学校に勤め始めた。

 1887年には教員試験に合格して、ニューサウスウェールズ各地の公立学校に勤務し、1891年からはスタンモア中等学校に赴任した。弟の名前で登録していたが、彼女はここでオーストラリア労働組合AWUの最初の女性組合員になったという。組合を通してウィリアム・レインと知り合い、新しい白人のオーストラリアを建設するためのパラグアイ入植運動に参加することになった。教職を辞して、1896年から1899年まで、パラグアイのコスム入植地に住んだ。その間教師や植民地の新聞を編集して生活し、1897年にはウィリアム・アレクサンダー・ギルモーと結婚して、翌年子供が生まれた。メアリー・ギルモーは、1900年からパタゴニアで英語を教えた後、1902年には夫や息子とともにロンドン経由でオーストラリアに戻った。夫の両親が土地を所有していた、ヴィクトリアのカースタトン近郊に住んだが、そこでの生活は彼女に適しているとは必ずしもいえなかった。しかし『ブレティン』1903年10月3日号の「レッド・ページ」で彼女の詩が注目されたことにより、彼女の人生に転機が訪れた。

 1907年にカスタトンに家族とともに引越し、1908年には『オーストラリア・ワーカー』の女性のためのページを創設して、1931年まで編集した。労働党を支持し、1906年と1910年の国政選挙では、その候補者を応援した。1910年には最初の詩集も出版した。1912年に夫のもとを離れ、息子を連れてシドニーに移り住み、文筆業に専念した。1918年に出版した2つ目の詩集、『熱き心』The Passionate Heartは、第1次世界大戦の影響を受けたものである。1920年代初頭に、彼女は高血圧と心臓病のために体調を崩し入院した。1928年にはオーストラリア作家同盟の創立メンバーとなった。1930年に発表した詩集、『ワイルド・スワン』The Wild Swanは白人による環境破壊とアボリジナルの伝統の破壊をテーマとしたものである。1934年と35年に2つの回想的作品を発表し、オーストラリアの開拓時代を描き出した。1937年には彼女の文学的業績や社会改革への幅広い取り組みが評価されて、イギリス国王からデイム(女性にとってのナイト)を授与された。第2次世界大戦が始まると、彼女はドイツと日本を非難し、オーストラリアの愛国心を高揚させる詩を書いた。1952年から1962年まで、共産党系の新聞『トリビュン』に、アロウズArrowsという名のレギュラーコラムをもち、発言を続けた。1954年、90歳近くになって最後の詩集『14人の男』Fourteen Menを出版した。晩年は名声に包まれながら1962年12月3日に亡くなり、クィーンズランドのクロンカリー共同墓地に埋葬された。愛国者、フェミニスト、社会運動家、民俗学者としての彼女の活動は、現在でも高く評価されている。

 左近幸村0801