オーストラリア辞典
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Grafton

グラーフトン


ニューサウスウェールズ北東部、 シドニー北625キロに位置する。
人口:16,562(1996)、17,005(1981)、15,526(1961)、9,759(1954)、6,411(1933)、2,250(1871)、319(1851)。


 1845年、フィッツロイ総督によって、彼の祖父、英国首相であったオーガスタス・フィッツロイ、グラーフトン公の名をとって名づけられた。もとはセツルメントthe Settlementとして、人々に知られていた。白人の入植以前は、おそらく先住民Gumbainggirの居住地であった。

 1830年代には杉材の伐採をする人々が多かったが、後には牧畜をする人々が多くなった。南グラーフトンでは30年代から40年代は造船が行われ、30年代末に入植地が作られた。40年代になるとクラレンス川Clarence River北岸に、波止場、店舗、宿屋などが建設された。1842年に船による羊毛の積み出しが初めて行われた。1861年に渡し舟が定期運行するまで、川の南北の入植地は互いに孤立していた。

 1847年に測量が行われ、48年にタウンの宣言が行われた。51年にはアーマデイルへの道が開通した。50年代には、クラレンス川上流の金の発見でタウンは賑わいを見せ、波止場が栄えた。59年に自治体を宣言する。60年にポスト・オフィス・ホテルが開業。60年から62年に建設された裁判所は77年から80年に移転した。74年に郵便局が建設された。74年から84年にクライスト・チャーチ英国教会大聖堂が建設され、88年にはカトリックの教会も創立された。83年にシティとなり、93年に監獄が建設された。鉄道は、1905年カシーノウへ、15年にシドニーまで、30年にはブリスベンまでの路線が開通した。1932年にはクラレンス川に橋が架けられ、南グラーフトンとグラーフトンが道路と鉄道で結ばれることになった。1897年にサウス・グラフトンは独立した自治体となり、1956年にようやく両者は合併した。1934年に最初のジャカランダ祭が開かれた。ジャカランダはグラーフトンに多く見られる樹木で、10月に花をつけ、この時ジャカランダ祭が開かれる。グラーフトンは緑の町として知られ、早くも1866年には町の樹木を保護する条例を制定している。現在、グラフトンの町はクラレンス川流域の中心都市であり、地域のサーヴィス・センターになっている。

 下流のアルマーラUlmarraは、19世紀には重要な川港であり、ナショナル・トラストの指定を受けている。1860年代には、砂糖栽培も行われたが、あまり成功せず、今は酪農産業で発展している。

 安井倫子・藤川隆男0603