オーストラリア辞典
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Grose, Francis

グロウス(グロース)、フランシス


1758-1814
イギリス生まれ
軍人、ニューサウスウェールズ副総督(1792-94)


 グロウスは1758年、12人兄弟の末子としてロンドンに生まれた。父は有名な古物商であり、祖父もよく知られた宝石商であった。しかし、グロウスはそのどちらの仕事にも興味を持たず、その代わり軍人としての道を歩むことを決意する。父の進めもあって、グロウスはハンプシャー市民軍の主計官や副官、サーリー市民軍の司令官を務める。

 1775年、グロウスは第52連隊の旗手を命じられ、同じ年に中尉に昇進した。彼はアメリカ独立戦争で積極的な活躍をした。そして1779年には第85連隊の隊長に就任した。それから2年間、グロウスは新米将校として過ごしたが、この経験は非常に価値があるものだった。1789年、グロウスはニューサウスウェールズの副総督に任命され、同時に彼が設立に尽力したニューサウスウェールズ軍団の指揮官に就任した。

 1792年2月、グロウスはピット号でポート・ジャクソンに到着した。彼が最初に取り組んだことは主として駐屯軍の日常業務であった。グロウスは当時ニューサウスウェールズ総督であったフィリップと対立することもなく、文民と軍人の指導者同士という関係としては、これまでにないほど友好的であった。2人の意見の違いが現れたのは記録によると1792年10月のことで、将校がブリタニア号をチャーターすることをグロウスが認めたのに対して、フィリップはそれを拒否したときであった。

 1792年11月、フィリップが病気のためニューサウスウェールズを離れたことにより、グロウスは2年間ニューサウスウェールズの統治を任されることとなった。これを受けてグロウスはすぐに文民の治安判事を軍人の将校と入れ替えて、パラマッタの武官に罪人を裁く権利を与えた。また、グロウスはジョン・マッカーサー中尉を公共事業の担当官に任命した。これによって、グロウスは自らの負担を減らし、同時に自分の補佐役をニューサウスウェールズの行政に参加させようとしたのであった。

 グロウスはフィリップよりも軍隊の福利厚生に大きな関心を示した。彼は軍隊へ配給される食料を流刑囚以上に増やし、彼らの居住環境の改善に努め、また本国の承認なしに約25エーカーの土地を、土地を求める兵士に与えるという宣言をした。さらに将校には本国政府の命令に反して、10人の囚人労働を無償で与えた。

 この時期、エマンシピストと一握りの自由移民がニューサウスウェールズに入植し、イギリス政府の規定に基づき小規模な農業を始めた。また豊かなホークスバリー川地域の開拓によって、多くの入植者がこの地域の開発に従事した。

 1794年12月、病気が悪化したグロウスは病を癒し、軍人としてのキャリアを回復するためにニューサウスウェールズを離れた。しかし、帰国後フランス革命やナポレオン戦争には関与しなかった。最初彼はイギリスで働き、1798年には准将としてアイルランドに赴いた。さらに1805年に少将としてジブラルタル海峡に赴任した。しかし、再び病気の悪化のため、1807年、イギリスに戻らざるを得なかった。これに続く2年の間、グロウスは2回ニューサウスウェールズ総督の座を狙ったが、両方とも失敗した。1809年グロウスは軍務のために再びアイルランドに赴いた。その後イギリスに戻り、1813年1月に最初の妻を亡くし、1814年5月、2番目の妻と再婚した1ヵ月後、1817年12月2日に亡くなった。

 グロウスの統治に対する評価はさまざまである。グロースは将校や一部の人々を優遇することで、植民地の生産活動を活発化させたという評価もあるが、その結果生み出された植民地の特権階級がその後の植民地統治の大きな障害となったと考える者もいる。また軍人による支配は小農民たちをひどく搾取することになったという主張がなされている。いずれにせよ、彼の統治期間にニューサウスウェールズ軍団、とりわけその将校たちが特殊な権益を有する支配集団へと成長したことは確かである。

 藤岡真樹0901