オーストラリア辞典
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Guerard, Johann Joseph Eugen von

ゲラール、ヨハン・ヨゼフ・オイゲン・フォン


1812-1901
ウィーン、オーストリア生まれ。
画家。


 ウィーン生まれの画家。ベルンハルト・フォン・ゲラールとその妻ヨゼファ・シュルツ・フォン・ライヒテンタールの息子として生まれる。父ベルンハルトはオーストリア皇帝フランツ1世の宮廷画家であり、父の母親はウィーンの陸軍元帥の娘であった。ゲラールは早くから芸術家としての才能を示し、父親は彼を1826年にイタリアへ留学させた。ゲラールは1832年にナポリに落ち着くまで、巨匠たちの作品について学んだ。6年もの間、彼は南イタリアやシチリア島で風景画を描き続けた。その後、デュッセルドルフに移り、その地のヨハン・ヴィルヘルム・シルマーのアカデミーでさらに研鑽を積み、ライプツィヒやベルリンで時折展覧会を開いた。1848年にデュッセルドルフを去り、おそらくカリフォルニアの金鉱へと向かった。1852年にイングランドからヴィクトリアに向けて出航した。12月24日に彼はジロングに到着し、2週間後バララットへ出発した。彼はそこで多くの鉛筆画を描き、現在ではヴィクトリアの州立図書館に保存されている。メルボルンの聖フランシス教会で1854年7月15日に、デュッセルドルフ出身のルイーズ・アルンツと結婚した。

 16年間ゲラールはヴィクトリア、タスマニア、ニューサウスウェールズ、南オーストラリア、ニュージーランドの原野を旅行し、スケッチを描いた。1860年にはA.W.ハウイットなどの学術探検に同行した。後に彼は裕福な後見人たちに頼まれて、多くのペン画や鉛筆画をもとにした油彩画を描いた。オーストリアのビーダーマイア派の影響を受け、ヨーロッパの山岳芸術家たちを想起させるような壮大な山の風景画を描いた。アーチボルド・ミチーは『ミッタミッタ渓谷』 Valley of the Mitta Mittaをメルボルン・アート・ギャラリーに1866年提供し、また1870年にはゲラールの『マウント・ホープ・レインジズから眺めたコジアスコウ山、ヴィクトリア』が157ポンド10シリングで管財人たちに売却された。ゲラールは1850年代には、コリンズ通りとバーク通りにスタジオを設け、その後20年近くメルボルンに住んだ。1856年10月にはヴィクトリア・ソサエティ・オヴ・ファイン・アーツの発起人の1人として活動した。オーストラリアでの彼の作品の評判はよくなかったが、ゲラールは多くの作品はデュッセルドルフ、アメリカ、ナタールに行き、またパリやロンドン、ウィーンでは展覧会が開かれている。

 ゲラールの力作で、薄く着色されたリトグラフ集『オーストラリアの風景』 Australian Landscapes(1867)は、ヴィクトリアのウェスタン・ディストリクトの風景を描いたものであり、総督バークリーはこれを賞賛し、同様の作品を依頼している。ゲラールは多くの作品を定期的に描き、またS.D.バードの『オーストラレイジアの気候について』On Australasia Climates(1863)の挿絵も描いている。

 1870年代に彼の作品の評価は高まり、1873年にロンドンで開催された国際博覧会には彼の複数が作品が送られ、1876年にはフィラデルフィアで開かれた合衆国建国百周年記念博覧会に、オーストラリア最初の芸術家の1人として紹介された。また1870年には、メルボルンの国立芸術学校で絵画部門の最初の責任者に就任し、ナショナル・ギャラリー・オヴ・ヴィクトリアの館長も勤めた。ゲラールはまた、ヴィクトリアのロイアル・ソサエティでも活動し、1866年から1867年にかけてはその評議員も勤めた。彼は英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語を自由に話せたが、署名の時はいつもドイツ語だった。1870年にオーストリア皇帝は、ゲラールにフランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与している。

 1882年にゲラールはヨーロッパに戻り、1891年1月12日にロンドンで妻を亡くしている。1893年に金融恐慌でオーストラリアの銀行が次々と倒産したとき、彼もその資産をすべて失った。そのため1901年4月17日に89歳の年齢でなくなるまで、貧しい生活を送らねばならなかった。

 中村武司00