オーストラリア辞典
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Immigration Restriction Act

移民制限法(1901年)


 この法律は、第1回連邦議会の初期に通過し、非白人、特にアジア人のオーストラリアへの移住を規制することになった。すなわち、この法律は白豪主義として知られる政策の法律上の根幹であった。望ましくない移民はヨーロッパの言語で50語にわたる書き取り試験を受けさせられた。それは口述や合図から単語を書き取るという、志願者を落とす簡単な方法であった。この法律に最も強く反対したのは、日本であった。オーストラリア政府は、世界の強国としての地位にのぼりつつあった日本を考慮し、1905年に法律の用語を改正した。法律から、「ヨーロッパ」という語が除かれ、「所定の言語」と訂正されたが、実質上変化はなかった。1958年に新しい移住法の下で書き取りテストが廃止されるまで、この移民制限法は適用された。1970年代には、ヨーロッパからの移民は減少し、アジアが新しい移民の供給源となった。

 移民制限法は、船会社に不法移民の送還の義務を負わせたので、入国許可状を持たない非白人移民は、書き取りテストを受けるまでもなくオーストラリア行きの船に乗ることができなかった。その結果、移民制限法によって実際に入国を阻止されたのは、非白人ではなく、主にオーストラリア政府が望ましくないと考えたヨーロッパ人移民であった。

 この法律によって、かなりの数のヨーロッパ人が入国を阻止されている。最も有名なのは、1934年、チェコスロバキアの政治記者で、共産主義者でもあるキッシュが、スコットランドのゲール語で書き取りテストを受け、入国を拒否された時のことである。その後、ゲール語は法律の意図する本来のヨーロッパの言語ではないと最高裁判所が裁定した。

 この法律と深く関連しているのが、1901年に制定された太平洋諸島労働者法Pacific Islands Labourers Actである。1904年以降、カナカとよばれるメラネシア人のオーストラリアへの入国が禁止され、すでにオーストラリアにいる者は、1906年から本国送還を求められた。そのほとんどが、クィーンズランドの砂糖プランテーションで雇用されていた。移民制限法は望ましくない移民を規制するのに有効であった。非ヨーロッパ人の人口は、1901年の5万人から1947年の2万1000人に減少した。

 中西雅子・藤川隆男1202