オーストラリア辞典
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Lambing Flat Riots

ラミング・フラットの暴動


 ニューサウスウェールズのラミング・フラット地区、現在のヤング近郊のバラゴングBurrangong金鉱で、1860年から1861年にかけて起こったヨーロッパ人鉱夫と中国人鉱夫間の暴力的な衝突の1つである。この衝突は、バラゴングの暴動としても知られている。ラミング・フラットはバラゴング金鉱における中国人のキャンプ地の1つである。バラゴング金鉱のピーク時には、中国人鉱夫は約2,000人、ヨーロッパ人鉱夫は約10,000人に達した。似たような暴動は他の地域でも起こっていたが、特にバックランド・リヴァーでのものが有名である。主な衝突は、1860年の11月、12月、1861年の1月、2月、6月に起こった。金鉱の中国人鉱夫を排除することを目的の1つとした鉱夫保護連盟は、1861年の初めにバラゴングで組織された。この連盟は、1861年中葉の活動停止まで複数の暴動に関与した。たび重なる反中国人暴動を抑止するために、政府は軍隊を1861年3月から5月までバラゴングに派遣した。しかし、この軍隊が引き上げると、6月には最大の反中国人暴動が起こり、約3,000人のヨーロッパ人鉱夫が中国人鉱夫を襲撃し、中国人の財産を奪い、これを破壊し、中国人を金鉱から追い払った。1861年7月14日、3人の鉱夫が逮捕された。3人の逮捕は、白人金鉱夫と政府との対決を引き起こした。約1,000人の鉱夫が囚人の解放を要求したが、その要求は拒否され、暴動が起こった。警察と鉱夫の衝突で、1人の鉱夫、ウィリアム・ラプトンは殺された。そして、3人の警察官と約20人の鉱夫が負傷した。金鉱監督官と警察は次の日にヤスに撤退した。陸軍と海軍の部隊が7月の終りにバラゴングに到着し、1年間そこに留まった。2人の鉱夫が有罪となり、クレアモント・オーウェンとウィリアム・スパイサーにはゴールバーンの裁判所で懲役2年の判決が下された。ニューサウスウェールズ政府は、中国人鉱夫に補償金を支払った。ニューサウスウェールズにおける、中国人移民を制限する法律を制定する試みは、この時点までは失敗してきたが、ラミング・フラットの暴動後、中国人の移住を制限、規制する法律が、1861年に議会を通過した。ただし、その法令は1867年に廃止されている。

 田中沙依0601