オーストラリア辞典
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Land Act

土地法


 オーストラリアにおける王領地(公有地)の処分は、少額の免責地代を条件とする無償交付によって行われていた。この慣行の変化は、1831年のリポン条令の制定に始まる。これによって公有地は競売によって最低1エーカー5シリング以上で売却されることとなり、その収入は主に植民地への移民補助に用いられることになった。

 1842年制定の未開拓地法は、公有地の最低売却価格を1エーカー1ポンドに引き上げたが、これはウェイクフィールドの組織的植民論を具体化したものであった。1847年には、公有地の賃借に関する法律が整備され、スクオッターは土地の所有権を強化し、土地の優先購入権を確保した。

 1851年にゴールドラッシュが始まると、多数の移民がオーストラリアに流入した。金の産出量が低下すると、鉱夫たちは農民としての自立を夢見て、公有地の売却を要求するようになった。まさにこの時、自治権を与えられたオーストラリアの東部諸植民地は、イギリス政府に代わって土地売却に関する法律を制定するようになる。これらの法律は土地選択法 Selection Actと呼ばれた。

 新しい法律が原則としていたのは、スクオッターが占有していた土地を、自由に選択し購入する権利である。最初にこの種の法律が制定されたのは1860年のヴィクトリアのニコルソン法であり、1862年にはダフィー法が制定され、1869年にはグラント法が制定された。グラント法では、最低売却面積が640から320エーカーに引き下げられた。ニューサウスウェールズでは1861年のロバートソン法が最初であり、その後これは修正されることになる。いずれの植民地でも、スクオッターは、代理人による土地の購入、河川に面した土地の先行取得などで自作農の進出を妨害し、土地選択法の目的の達成を妨げた。その結果、土地所有権の集中がより一層進むことになった。

 クィーンズランドや南オーストラリアでは、投機を妨げることを目的として、土地の売却よりもその利用に力点を置くような政策が行われた。タスマニアでは本土から入植者を引き付けるために、入植者に寛大な土地売却条件が設定されたが、結局入植は進展しなかった。1880年代中葉までに、土地選択法がその目的を達成できないことは誰の目にも明らかとなった。議会の目はこの後、稠密植民へ向かうことになる。

 遠藤貴弘0401