先住民土地権、先住民土地権原
この言葉は、オーストラリアにおいては通常アボリジナルの政治運動と土地所有権について使用される。白人の入植者はアボリジナルへの宣教を行い、居留地を設けたが、アボリジナルが合法的な土地権をもっているとは考えなかった。先住民の本格的な土地権回復運動は1960年代に始まったが、以前から抗議の声は存在していた。1963年に、アーネムランド出身のイアカラのアボリジナルはオーストラリア議会に樹皮に書かれた嘆願書を提出し、居留地の一部をボーキサイト採鉱のため削減するという政府の決定に抗議をした。調査委員会が設けられたが、ボーキサイトの採鉱は続けられた。これに対し、イアカラのアボリジナルは補償を要求して訴訟を起こしたが、1971年にブラックバーン判事は、アボリジナルは土地に対する法律上の権利を保有していないとした。ウェイヴ・ヒルのアボリジナルも土地権回復運動の初期の段階において重要な役割を果たした。根拠は異なっていたが、アボリジナル土地信託協会が、1966年に南オーストラリア、1970年にヴィクトリア、1972年に西オーストラリア、1974年にニューサウスウェールズで設立された。
1972年に土地権回復運動を宣伝するために、アボリジナルは6ヵ月もの間キャンベラの国会敷地内の芝生にテント大使館を作った。その後ウッドワード判事のもと、アボリジナル土地調査委員会が1973年と1974年に開かれ、Aboriginal Land Rights Actが制定された。これによって、ノーザンテリトリーのアボリジナルに一定の土地権が認められた。1975年には、アボリジナルが所有していた土地を買い戻すための基金が設けられ、各州も連邦にならってアボリジナルに一定の土地権を保証しようとする立法が続いたが、クィーンズランドでは、このような動きを阻止するために、1982年3月に全てのアボリジナルの居留地が廃止された。労働党ホーク政権は州権を超越する連邦法によりアボリジナルの土地権を前進させることを約束していたが、西オーストラリア州労働党政権の抵抗もあり、この点に関して何らの成果も生むことはできなかった。
しかしながら、1992年にオーストラリア最高裁判所が、マボウ判決により先住民の土地権の存在を認め、それが公有地において存続していることを確認すると、連邦政府もこれへの対応を迫られ、1994年に先住民土地権法Native Title Act(マボウ法)が制定された。この法律によってアボリジナルの土地権が公式に認められたが、実際には、個々のアボリジナル、あるいはその集団が特定の土地の権利を承認されるためには大きな困難が存在する。また、先住民の土地権が消滅した地域における土地の買い戻しのための機関も、この法律によって設立された。
1996年の連邦最高裁判所のウィック判決は、マボウ判決より一歩踏み込んでリース契約が存在する公有地においても先住民の土地権が存続していることを認めた。これに対し、連邦政府を奪還した自由党・国民党政府はウィック法の制定により、アボリジナルの土地権を制限しようと試みた。
新林秀亮0401