オーストラリア辞典
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La Trobe, Charles Joseph

ラ・トローブ(ラトローブ、ラ・トロウブ)、チャールズ・ジョゼフ


1801-1875
ロンドン生まれ。
植民地長官(1839-1851)、ヴィクトリア州副総督(1851-1854)。


 チャールズ・ジョゼフ・ラ・トローブは1801年3月20日にロンドンで生まれた。父クリスチャンはモラヴィア教会の聖職者であり、また音楽家でもあった。グローブの音楽事典の筆者の1人として名を連ねている。父は奴隷解放運動にも参加し、ウィルバーフォースと親交があった。このコネクションが息子のチャールズが植民地の官職を獲得する足がかりになった。彼はスイスで教育を受け、最初牧師になろうとしたが、フェアフィールド寄宿学校で教師となった。1824年10月にスイスのヌシャテルに行き、プールタレス伯爵のもとで個人教師として雇われた。1827年2月までそこに滞在し、その間登山家として名を馳せた。登山に関する著作をこの頃数多く残している。後にポートレ伯爵家のアルベールとともに1832年から33年の間北アメリカを旅行し、その時も旅行に関する著作を著している。帰国後スイスのモンモラン家に滞在し、その家の娘のソフィーと1835年7月に結婚した。

 1837年イギリス政府の要請を受けて、西インドの人々の自由に関する3つの報告書を提出した。また同じ年に詩集も出版している。 1839年にオーストラリアのポートフィリップ地区の長官に任命されて、7月30日にメルボルンに家族とともに到着した。軍隊経験もなく、行政上の経験もない植民地長官として任地についたラ・トローブの治めるポートフィリップは、ニューサウスウェールズの一部であり、まだ発展途上の土地であった。総督ギップスと親密な協調関係を結びながら、ギップスが1846年に引退するまで、ギップスの命令に忠実に従って、行政を行った。 彼の担当する地区は、植民地政府からの分離運動と流刑囚の輸送問題という、2つの深刻な問題を抱えていた。また、満足な財政支出が受けられず、施設の整備も遅れていたので、住民は強い不満を持っていた。

 ニューサウスウェールズの立法評議会議員選挙が1843年に行われたが、ポートフィリップはその重要性に比べて、24議席のうち6議席しか割り当てられていなかった、住民の分離運動はますます活発化し、1844年にはその6人の議員がイギリス国王に分離の請願を行った。ラ・トローブは運動に対し冷淡な態度を示し、1847年以降には不必要な社会運動とみなした。彼のこの態度は新聞などで厳しく非難された。しかし流刑問題に関しては極めて明確な判断を下した。1849年に流刑囚を運ぶランドルフ号の上陸を拒否し、流刑囚のポートフィリップへの移送を拒否した。これはラ・トローブを一躍英雄にしたが、一般的にラ・トローブは世論の支持を受けていなかった。

 1846年から47年にかけての4ヵ月間、ヴァンディーメンズデンドの副総督も兼任し、そこでも難しい状況のなかで巧みに問題を処理した。 1850年のオーストラリア植民地政府法により、ヴィクトリアに独立した責任政府がつくられると、1851年副総督に選ばれて、行政上の強い権限を得ることとなった。植民地長官としてウィリアム・ロンズデイルを、司法長官にウィリアム・フォスタ・ストールを、収入役にアリステア・マッケンジーを、関税徴収官にJ.H.N.カッセルを選んだ。彼らは政治上の活動において経験不足であったが、発足最初の年から苦難に直面することになる。 1851年にバララットで金が発見され、何千人もの鉱夫達がその地に集中したため、治安は悪化した。予想外の人口増加で政府は機能不全に陥り、安定した財源確保のため金鉱夫に税金を課し、金採掘に関する免許を制定したが、徴税は困難であった。1852年2月からさらに増税したが、金鉱夫からの猛烈な反発にあい、増税を撤回した。ヴィクトリア政府は金採掘地の管理において常に議会と衝突した。議会はその予算を承認せず、これが政府の機能不全の1つの原因となった。

  1852年中頃までには政府も安定したが、警察力の低下、食糧問題、施設の未整備、議会との摩擦などの多くの問題が山積みであった。土地問題については、植民地の感情に配慮するようになっていたが、金の発見によって入植者への土地の供給は停滞した。スクオッターと農民や金鉱夫、都市の急進主義者は土地をめぐり激しく対立したが、ラ・トローブはこの問題を本国に照会している間に、金鉱夫たちの土地問題に関する不満は高まった。

 イギリス政府はラ・トローブの政策に不満を抱いていたが、通信手段が未発達なこともあり一貫してラ・トローブを支持し続けた。 1852年12月にラ・トローブは辞職願を提出し、54年に受理された。この後イギリスに帰国し、1858年にはC.B.の爵位が与えられた。妻ソフィーが1854年に死去したのち、彼女の妹と再婚した。晩年は視力が低下し、計画していたオーストラリアでの経験に関する本を著すことはできなかった。1875年に死去し、サセックスの家近くの教会に埋葬された。約15,000ポンドの財産を残した。

 師井学・藤川隆男0403