オーストラリア辞典
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Leichhardt, Friedrich Wilhelm Ludwig

ライカート、フリードリク・ヴィルヘルム・ルドヴィック


1813-1848?
プロイセン生まれ。
自然科学者、探検家。


 1813年10月23日、プロイセンの農家に生まれる。1831年にベルリン大学、1833年にゲッティンゲン大学で学び、1834年から1836年まで再びベルリン大学に戻っているが、どちらでも学位は取得していない。イギリス、フランス、イタリア、スイスでのフィールドワークを経たのち、1841年10月にライカートはオーストラリアへと向かった。

 1842年2月14日にライカートはシドニーに到着し、1843年から1844年初めにかけてニューカッスルからモートン・ベイへの陸路を踏破した。1844年、ライカートはモートン・ベイとポート・エジングトン間の大陸縦断探検に出発した。もともと同探検は、議会の推薦にもとづき、検査主任トマス・ミッチェルが率いてなされるはずであったが、その危険性ゆえに総督ギップスの許可が下りなかった。ライカートは同探検を個人からの援助で進めることに決心し、8月13日に6人でシドニーを出発、海路でモートン・ベイへ向かった。モートン・ベイで新たに4人が加わり、探検隊は10月1日にダーリング・ダウンズにある最辺境の入植地ジンバJimbourを発った。途中2人が引き返し、1845年6月28日にはアボリジナルの襲撃を受け、ジョン・ギルバートJohn Gilbertが死亡した。探検隊がポート・エジングトンに到着したのは1845年12月17日であった。3,000マイル近い探検であった。探検隊の絶滅が信じられていただけに、シドニーへ戻ってきた一行は歓呼のなか迎えられ、ライカートは「探検家のプリンス」として讃えられた。政府は探検の成功に1,000ポンドを授与し、個人からの寄付金も1,500ポンド以上にまで達した。

 ライカートの次の計画は、大陸をダーリング・ダウンズから西岸へと抜け、そこから南下しスワン・リヴァー植民地へと至るものであった。1846年12月にダーリング・ダウンズを出発したが、激しい雨や輸送の困難、熱病などのため、500マイル足らずで引き返す結果に終わった。しかしライカートは第2次スワン・リヴァー探検を計画し、1848年2月までに探検隊7人がダーリング・ダウンズに集結した。翌月、ライカートら一行はコンダマイン川を出発し、4月3日までにコグーンCogoonのマクファーソン牧場に到着した。しかしコグーンから内陸部へと移動した後、探検隊は消息を断った。

 ライカートが行方不明となる以前から、彼の業績は高く評価されていた。パリの地理学協会は、1847年の年間賞をライカートとロシェ・デリクールRochet d'Hericourtの両者に分け与えた。また同年にロンドンの王立地理学協会は、モートン・ベイからポート・エジングトンへの探検で得られた成果に対し勲章を授与している。地質学者や植物学者も、彼が持ち帰った標本や記録を評価した。著作には、Journal of an Overland Expedition in Australia, from Moreton Bay to Port Essington(1847)などがある。1852年から1938年にかけて、少なくとも9回の調査が行われたが、いずれもライカートら一行が直面した運命を明らかにすることはできなかった。ただライカートのものとおぼしき遺骨と遺物が発見されたのみである。

 藤井秀明0901