オーストラリア辞典
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Townsville

タウンズヴィル


クィーンズランド北東部、ブリスベンの北1,317キロに位置する。
人口:109,914(1996)、86,112(1981)、56,768(1966)、25,876(1933)、7,860(1886)、1,140(1871)。


 タウンズヴィルはクィーンズランド北部の複合都市で、クリーヴランド湾Cleveland Bayに流れ込むロス川Ross Riverの河口にある町である。この地は、以前ワーガマイWarrgamayアボリジナルのテリトリーであった。魚やエビ漁のための港であると同時に、後背地の製品(主に牛肉や羊毛、砂糖)を輸出するための港でもある。また、熱帯クィーンズランド最大の町であり、観光業も盛んである。

 1770年にクックがクリーヴランド湾を命名し、1819年にフィリップ・パーカー・キングが、1839年にジョン・ウィカムJohn Wickhamが海岸線を探検した。その後、ジョン・メルトン・ブラックJohn Melton blackとともに、この地域に関心を示し、入植地を建設したロバート・タウンズRobert Townsにちなんで、タウンズヴィルと名づけられた。

 1865年に港として布告され、翌年には自治体となった。この頃からホテルや銀行が設立されるようになり、商業や事業の著しい発展が見られた。1868年からは、レイヴンズウッドなどの近隣地区で相次いで金が発見されたことから、その中継港として利用されることが多くなった。1872年に防波堤が建設され、以後次々と港は改良されていった。1876年には裁判所(現在は博物館)が建てられた。そして、チャーターズ・タウアズで金が発見されたことで、さらに港としての役割の重要性が増した。1882年には、チャーターズ・タウアズとの間に鉄道が開通し、以後他の地域へと拡張された。

 1860年代の後半に始まった周辺地域での砂糖産業の成長や、食肉加工産業の開始は、町の発展を確実なものにし、ニューギニアや太平洋諸島との貿易もこの町を拠点にして行われるようになった。バーンズ・フィリップ社は72年、この町に本社を置き、この地域での交易活動に従事した。1902年には、税関の建物が建築されている。その重要性のゆえに、1903年にはシティとして認められた。また、第2次世界大戦期には、軍が駐留していたこともあり、日本軍の空襲を受けた。

 セメント製造工場が1954年に設立された。また、マウント・アイザの鉱石はここから輸出されていたが、59年には銅精錬所が運転を開始した。その他の鉱石の輸出も活発で、日本は重要な輸出先になった。1961年には現在のジェイムズ・クック大学の前身であるタウンズヴィル・ユニヴァーシティ・カレッジが創設された。1960年代になると、観光業がしだいにその重要性を増してくるようになり、80年代には漁業も大規模に行われるようになった。

 タウンズヴィルの郊外の多くは、サリンガウアThuringowaという自治体をなしているが、これは国民党政権の悪名高いゲリマンダー政策によって生み出された自治体であり、事実上タウンズヴィルと一体である。人口はこれを含んだものを掲載してある。

 中島花子・藤川隆男1202