オーストラリア辞典
Google

和文索引(ふ)に戻る  英文索引(V)に戻る


Verbrugghen, Henri Adrien Marie

フェアブリュッヘン(ファーブルッゲン)、アンリ・アドリアン・マリ


1873-1934
ブリュッセル、ベルギー生まれ。
指揮者、ヴァイオリニスト。


 演奏家アンリ・アドリアン・マリ・フェアブリュッヘンは、織物業者アンリ・ヨセフ・フェアブリュッヘンの1人息子として生まれた。フェアブリュッヘンは、9歳のときにデビューし、彼に薬学を学ばせたいとする両親の願いを振り切って、1886年にブリュッセル王立音楽院に入学し、ユジェーヌ・イザイらのもとで学んだ。1889年には同音楽院を首席で卒業している。その前年には、イザイとともにロンドンを訪れ、ヴァイオリンのリサイタルも開いている。しかし、その後はオーケストラのヴァイオリン奏者としてベルギーを中心に活動した。

 1893年以降、フェアブリュッヘンは新しいスコットランド管弦楽団とも共演するようになり、1903年には、サー・フレデリック・コーウェンのもとでコンサートマスターと副指揮者を務めている。また、1898年にはウェールズでアリス・エマ・ベアトリス・ボーモントと結婚式を挙げている。1904年にはグラスゴー音楽院の音楽教授となり、ダブリンのアイルランド王立音楽アカデミーの教授にも任命された。その後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演している。また、1903年から4シーズンにわたって、夏のプロムナード・コンサートのコンサートマスターを務めた。

 フェアブリュッヘンはイザイに刺激されて指揮にも関心を抱き、彼と共演した指揮者たちの技術を間近に見て学んだ。彼のソリストとしての活動では、、1907年にシベリウスのヴァイオリン協奏曲のイギリス初演を行った。また、自分自身で結成した弦楽四重奏団とも演奏活動を行った。1911年、フェアブリュッヘンはグラスゴー合唱協会の指揮者に任命された。ヨーロッパ各地で指揮活動を行ったが、最大の成功を収めたのは、ロンドン交響楽団とのベートーヴェン記念コンサートであった。

 1915年、フェアブリュッヘンは、任期5年でニューサウスウェールズ州立音楽院の創設監督官に選出された。フェアブリュッヘンはイギリスの音楽的伝統ではなく、ヨーロッパにおいて国際的評価を受けるような音楽院を設立しようと考えていた。彼は教授として同音学院では上級者向けの室内楽団、修了資格、合唱団、学生オーケストラのクラスを受け持った。

 フェアブリュッヘンは、政府の協力により彼の弦楽四重奏団をイギリスから呼び寄せ、毎年24回のコンサートを開いた。また、ニューサウスウェールズ州立管弦楽団を創立し、1921年には180回のコンサートを行い、その大半はフェアブリュッヘンが指揮した。彼の指揮ぶりや、ベートーヴェンへの傾倒は、「ミサ・ソレムニス」を13回演奏したことに窺える。しかしフェアブリュッヘンは、オーケストラの財政危機や補助金の問題をめぐってニューサウスウェールズ政府と対立することになった。1922年にはオーストラリアを去り、1922年から1931年まで、アメリカのミネアポリス交響楽団の常任指揮者を務めた。その間も、ニューサウスウェールズ政府との交渉は続けられたが、合意に達することはなかった。

 1931年10月26日、フェアブリュッヘンは脳卒中でリハーサル中に倒れた。回復後、ミネソタ州のカールトン大学音楽学部長を務めたが、2度と指揮台に立つことはなかった。高血圧症腎不全により1934年11月12日、亡くなった。

 中村武司0601