オーストラリア辞典
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Wallace, William Vincent

ウォリス、ウィリアム・ヴィンセント


1812-1865
ウォーターフォード、アイルランド生まれ。
作曲家、演奏家。


 アイザック・ネイサンと並んで、植民地時代オーストラリアの音楽活動の発展に貢献した人物。

 ウィリアム・ウォリスは、アイルランド第29連隊軍楽隊の曹長の長男として生まれた。8歳のとき、父親の軍楽隊のために行進曲を作曲、16歳のときには、ダブリンの宮廷劇場管弦楽団の第1ヴァイオリンを担当した。18歳になると、サーレス大聖堂のオルガン奏者となり、アースライン修道院でピアノを教えた。彼は弟子の1人であるイザベラ・ケリーと恋に落ち、彼女の父親はウォリスがカトリック教徒になること、ヴィンセントの名を引き継ぐことを条件に、彼らの結婚を認めた。その後ウォリスは、宮廷劇場管弦楽団の副団長としてダブリンに戻った。当時最高のヴァイオリニスト、パガニーニの演奏に感銘を受け、ウォリスは、ヴィルトゥオーゾを目指し研鑽を積んだ。

 1835年11月、ウォリスは妻と幼い息子、妹エリザベス、弟ウェリントンとともにホバート・タウンに移住する。その地で1度コンサートを開いた後、ウォリス一家はシドニーに移り住み、ブリッジ・ストリートでオーストラリア最初の音楽学校を開いた。また彼は、ハンター・ストリートにある楽器店にピアノを輸入したり、1837年には、シドニー、パラマッタ、ウィンザーでリサイタルを開いて、「オーストラリアのパガニーニ」として名を馳せた。バーク総督はウォリスのパトロンであった。しかし、最初のコンサートで報酬として、ウォリスに100頭の羊を与えたというのは、作り話であろう。彼が農場主であったことはないし、おそらくは、ニューサウスウェールズのニスデイル Nithsdale の、同姓同名のウィリアム・ウォリスと勘違いされていると思われる。

 1838年1月、ウォリスはセント・メアリー聖堂でオーストラリア最初の音楽祭を開催したが、その翌月には2,000ポンドの負債を残して、密かにヴァルパライソに渡った。確かにウォリスはアメリカ合衆国でのツアーを成功させたし、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの創設を手助けしたが、伝聞では、1838年から1842年にかけては、3大陸の間を流浪していたと言われる。1844年にはドイツとオランダに滞在した。1845年にはロンドンでピアノ・リサイタルを開き、彼作曲のオペラ、『マリターナ』をドルリ・レーン、後にはウィーン、コヴェント・ガーデンの各劇場で上演し、成功を収めた。『マリターナ』は1849年、オーストラリアでも上演された。シドニー、あるいはタスマニアで、彼が作曲をしたという話には証拠はない。彼が作曲した『ラーライン Lurline 』(1860)はコヴェント・ガーデンでの上演で5万ポンド稼いだが、彼自身には利益をもたらさなかった。彼が作曲した他のオペラ作品は、『ハンガリーのマティルダ』、『琥珀の魔女』、『砂漠の花』がある。小作品に関しては、大英博物館のカタログに100ページにわたって記載されている。

 ウォリスはシドニーで妻と離婚した。1850年にはアメリカ市民権を得て、ピアニストであるヘレン・ストーペルと結婚した。彼女との間には2人の息子がいたが、2人とも自殺している。1865年、ウォリスはフランスで客死するが、ロンドンのケンサル・グリーン Kensal Greenに埋葬された。 

 中村武司0601