オーストラリア辞典
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Warrnambool

ウォーナンブール


ヴィクトリア南西部、メルボルンの西263キロ、ウェスタン・ディストリクト最大の都市。メリー川とホプキンズ川の間に位置する南部海岸沿いのリゾート地でもある。
人口:26,052(1996)、21,414(1981)、10,850(1954)、6,582(1891)、2,211(1861)。


 1802年、ニコラ・ボーダンによってレイディ・ベイが発見される。1844年にアザラシ漁師や捕鯨漁師によって調査・命名された。当初は、もっぱら彼らによって利用されていた。この地名の由来は、クー・コパン・ノート・アボリジナルの言葉でwarnambul「2つの沼地」か、wirnimble「豊かな土地」、あるいはwawanbool「伸びゆく樹木」などではないかと考えられている。かつてはGiraiwurungのアボリジナルの居住地であった。

 有名な「マホガニー船」伝説がこの地域には存在する。1756年ころに沈没したと思われるスペイン船に由来していると考えられる(ポルトガル船という説もある)。この船は1836年にアザラシ漁師によって船体が最初に目撃された。その後、1880年までに信頼できる目撃情報が相次いだ。しかし、船体は波によって押し寄せた砂によって覆われ、懸命の努力がはらわれたが、船体が2度と姿を見せることはなかった。

1843年までに、ボールデン家やトマス・マニフォールドといった重要な牧場主がこの地域にいた。タウンの用地は1846年に測量され、1847年にはタウンシップが宣言された。初期の港は、漁でとらえたアザラシや鯨を解体する場であった。ソーントンの波止場が1850年に築造され、この港が重要になった理由のひとつに、ポート・フェアリーの港が個人所有であったことがあげられる。その後、1854年には自由港となった。この港からは、羊毛、小麦、乳製品などが船に積みこまれた。ゴールドラッシュの時期は、当初こそ町から金鉱に人口が移動したが、その後は、町や港は金鉱地帯との交易により繁栄した。1859年には灯台がミドル・アイランドの低いほうの岬に設置された。その他、現地紙『ウォナンブール・イグザミナー』が1851年に創刊されている。ロシアの脅威の恐れから1880年代には丘の上に砲台が建造され、また、1890年には防波堤が設置された。1855年には自治体になり、1863年にバラ、1883年にタウンになった後、1918年にシティとなった。『ブレティン』の共同創刊者であるアーチボールドJ.F.Archibaldが1871年、この地からその第1歩を踏み出している。1858年、自治体により路面電車が開通し、1890年に鉄道になった。1874年、羊毛の紡績工場が公的な事業として資本金を集めて操業を開始したが、1882年に火災で焼け落ちた。1910年に事業が再開され、現在では、敷物や毛布の重要な生産地となっている。吊り橋であるウラストン橋が1890年に建造されているが、そこで使われているケーブルは、かつてメルボルンの路面電車で使用されていたものである。メリー川水道供給計画によって、1893年以降には安定した水の供給がおこなわれるようになり、1925年にはポンプが電動化された。

しかし、1920年代には、土砂が港内に堆積したため、実質的に港は閉鎖状態に陥った。毎月運行されていた石炭船も1942年に廃止された。1944年には港を改善し再活性化させる試みがなされたが、その後失敗に終わった。フラッグ・スタッフ海事博物館が港としての往時をしのばせてくれる。フレッチャー・ジョーンズ毛織物工場が1948年より操業を開始し、大規模な雇用主となり、1970年には900名の従業員を擁するようになった。現在も町に会社の本社がある。町は牛乳、羊毛、小麦、野菜の生産地に囲まれており、これらの関連産業がある。

 冬の平均気温が5.8度から13.6度、夏が13.1度から23.2度と気候は温暖である。降水量は年平均726ミリである。ディーキン大学のキャンパスもある。

 坂本優一郎・藤川隆男0503