オーストラリア辞典
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Western Australia

西オーストラリア


 現在のオーストラリア連邦の州の1つ。1616年のダーク・ハートグに始まり、オランダ人がヨーロッパ人としては最初に西オーストラリアに到着した。しかし、オランダ人はオーストラリアに交易上の価値を見い出せず、ここに入植することはなかった。19世紀に入るまでこの地域は先住民アボリジナルが独占する地域であった。フランスによる入植を阻止するために、イギリスがキング・ジョージ・サウンドに駐屯軍を送ったのが1826年である。この駐屯軍は、スワン川に植民地ができた1831年に撤退した。1827年3月、ジェームズ・スターリングがスワン川の調査を行った。スターリングはここが入植に適当であると報告し、イギリス政府は彼を総督とした新しい植民地をつくることに決定する。最初の入植者は1829年6月に到着したが、植民地は繁栄しなかった。数年以内に多くの入植者は植民地を去り、ヨーロッパ人の人口は20年後でも5,000人にすぎなかった。ゆっくりとした発展のおかげで、先住民との関係は東部植民地よりも良好であった。しかし、経済的困難の打開のために流刑囚を受け入れ、労働力とすることが一般化すると、先住民との関係は悪化した。流刑制度は1850年から1868年まで続いた。囚人たちは東部の植民地に流出する心配のない労働力であった。植民地は経済状態は改善したが、その成長は緩慢であった。1890年にはヨーロッパ人の人口が46,000人となった。この年東部植民地から35年遅れて、二院制議会を持つ自治植民地になった。

 ゴールドラッシュが起こると、不況におちいった東部から多くの人が移住してきた。主にヴィクトリアや南オーストラリアから多くの金鉱夫が内陸の金鉱地帯に流入した。彼らはパースで政権を握る少数の支配階層に強い不満を抱くようになる。1890年代に人口はほぼ4倍に増加した。ジョン・フォレストは政府が主導する開発政策によってこの状況に対応した。保守的な政治家であったが、議員歳費の導入、公営銀行の設立、女性参政権の導入なども行った。西オーストラリアは連邦への加盟に消極的であったが、金鉱地帯の分離運動や植民地省の圧力などにより、1900年の国民投票で連邦への加盟を決定した。しかし、東部に対する不満は強く、1930年代には連邦からの離脱の動きが活発化した。1911年に労働党政権が成立して以来、約半世紀にわたって労働党が主に政権を担当したが、これへの反発から1912年に地方党が生まれた。

 政府の主な役割は西オーストラリアの開発で、それは第1次産業である農業、牧畜業、林業などの発展を意味する。1930年代から政府は工業の振興を始めた。しかし、これは1950年代の初めまでは規模が小さかった。1960年代には鉄鉱石を中心とする莫大な鉱物資源が発見され、第2の鉱業ブームが訪れた。自由党の政権のもとで、多国籍企業が鉱山を経営した。新しい繁栄とともに西オーストラリアは、連邦からの財政上の特別な援助を受ける必要がなくなった。1983年には、西オーストラリアの人口が南オーストラリアを上回った。しかし、まだ東部に対する不満は強く残っている。現在の最大の関心事はアボリジナル問題をめぐるものであり、先住民土地権の問題が1990年代には焦点となった。

 西オーストラリア史についてはフランク・クロウリーのAustralia's Western Third(1960)、C.T.スタンニジ編集によるA New History of Western Australia(1981)がある。

 田中沙依1201