オーストラリア辞典
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White Australia Policy

白豪主義


 White Australiaという語を最初に用いた人物について明確に述べることはできないが、1880年代にクィーンズランドの議員マクロッサンが初めて用いたという説がある。一般的には1890年代から、白人のみが居住する未来のオーストラリア像が描かれるときに用いられるようになり、その後発展した国家思想。オーストラリアの非白人移民に対する敵意は、年季奉公人として中国人がオーストラリアに到着する1840年代から強まってきた。金鉱での中国人に対する暴動は政府に彼らの入国を制限する何らかの措置をとる必要性を悟らせた。ゴールドラッシュ後に反中国人感情は沈静化するが、19世紀末までに全植民地が中国人移民の制限を図る法律を通過させた。1879年の第1回全植民地労働組合会議Intercolonial Trade Union Congressでは、アジア系移民に反対する動議が全会一致で可決された。しかしながら、他方ではメラネシア人が資本家によって砂糖プランテーションの労働力として調達されていた。1880年代から1890年代にさらに反アジア人感情が強まり、1896年の植民地間会議Intercolonial Conferenceはすべての非白人の入国制限を確認した。

 1901年の第1回連邦議会選挙では、全政党は「白いオーストラリア」を擁護し、新しい連邦の政策として2つの法律が制定された。それが移民制限法と太平洋諸島労働者法である。前者は書き取りテストにより非ヨーロッパ系移民の流入を妨げたものであり、後者はカナカと呼ばれるメラネシア人の入国を禁じ、その送還をも規定したものであった。移民法に具現化されている白豪主義に最も強く反対の意を示したのは日本であった。その圧力は、1905年に移民制限法の文言を改正させ、1930年代後半にはある特定の移民へのビサの条件を緩和させた。しかし、オーストラリアにとって、日本は貿易上の親密なパートナーであるよりも黄禍の源泉であり、日本側の友好関係促進の試みを巧みに退けてきた。

 白豪主義は、移民の制限だけではなく、オーストラリア国内の非ヨーロッパ人にも関係した。アジア系の移民は結婚、土地所有、選挙権など多くの面で差別を受けた。また、それはアボリジナルの減少、最終的には消滅という意味も暗に含んでいた。そのためアボリジナルの乳幼児を強制的に里子にだすという政策による「盗まれた子どもたち」という問題を引き起こした。

 第2次世界大戦後、白豪主義は後退の兆しをみせる。それには、戦時中のヒトラーの非道な行動への恐怖や国際連合憲章が謳った人種主義の否定といった要因が関係していた。また西側の一員としてのオーストラリアが、自由主義陣営に属するアジア諸国との協調を求められたこととも関係している。さらにアジア諸国との貿易関係の拡大は白豪主義の存続を不可能にした。白豪主義の最初の変化は、1956年にこれまで排除されてきた移民に永住の身分を認めたことである。1958年に新しい移民法が制定され、書き取りテストが廃止された。1967年には非白人移民のオーストラリアへの入国が認められた。1970年代の初めまでにこれまでの差別的な政策は廃止され、白豪主義は断念された。

 中西雅子01