オーストラリア辞典
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Women's Movement

女性運動


 1788年から1868年にかけてのオーストラリアに輸送された流刑囚のうち、女性の割合はおよそ15%を占めていた。総人口における男女比率のこの不均衡は、しばしば植民地の生活における放縦さの要因として挙げられることがあるが、それは事実というよりも、一般的に言って、白人中産階級男性の言説にすぎなかった。男女比率のこうした不均衡に起因するとされる荒れた環境を、家族生活を確立することで改善するという目的で、女性をオーストラリアに移住させる試みがなされた。こうした試みのうちで最も有名なものに、カロライン・チザムの仕事がある。1830年代以降、植民地で、家族生活を打ち立てるために、女性移住者を植民地に送ることに彼女は多大の努力を払った。組織的植民論者も、男女数の不均衡の問題には関心を払っており、オーストラリアの補助移民制度では、ほぼ同数の男女が植民地に送られることになった。

 1880年代以降、いくつかの女性団体は様々な方面の問題に積極的にかかわりはじめた。なかでも主要なものは女性参政権の獲得だが、この問題の背後には、様々な社会問題にかかわる法律に対して、投票によって影響力を行使したいという女性活動家の意志が働いていた。女性が関心を抱いた社会問題は、例えば、女性や児童の就労条件に関する問題や、禁酒問題、教育問題を含んでいた。こうした問題に関する法律こそが女性団体の活動の標的であったわけだが、それは女性自身に選挙権を獲得するという僥倖を期待するよりも重要なことなのであった。

 初期の女性団体の活動は工場法制定と歩調を合わせて繰り広げられた。工場法がはじめに成立したのは1873年、ヴィクトリアにおいてであるが、効果的な立法が開始され、様々な労働環境の改善に関して女性団体が強い主張を展開するに至るまでには、さらにもう10年を待たねばならなかった。1890年代に工場法がより広範囲に渡って施行され、調停仲裁裁判制度が法的手段として機能しはじめると、工場法は次第に、初期においては女性団体の積極的活動に依拠するところの大きかった部分を新たに担うものとして機能しはじめた。

 女性参政権連盟Women's suffage leaguesと女性キリスト教禁酒連合Woman's Christian Temperance Unionsは、この時代のよく知られた女性団体であり、キャサリン・スペンス、ヴィーダ・ゴウルドスティーン、ローズ・スコット、ルイーザ・ローソンら、著名な活動家を含んでいる。ローソンは作家ヘンリー・ローソンの母親でもあり、1888年には女性問題に取り組むための雑誌、『ドーン』The Dawnを発刊した。

 最初に女性に参政権があたえられたのは1894年、南オーストラリアにおいてであった。西オーストラリアがこれに続き1902年には、新たに設立されたオーストラリア連邦が女性にも参政権を認めた。しかしヴィーダ・ゴールドスタインやその他の活動家が気づいた通り、女性が候補者として選挙に影響力を振るうことは困難なことだった。女性としてはじめて連邦議会下院に当選し、入閣を果たしたのはイーニッド・ライオンズで、1943年に初当選し、1949年には入閣を果たした。女性運動は、政党活動に関して言えば、主に議会外において活動を繰り広げた。彼女らの主な関心はやはりここでも社会問題であり続けた。参政権獲得後の女性団体の主要な活動目的は男女平等賃金の獲得であった。多くの女性にとって満足のゆく成果が得られるまでこの闘争は延々と続き、ようやく1970年代に入って一定の成果を収めることとなった。

 オーストラリアにおけるフェミニスト運動は、1970年代以降、アメリカにおける運動に呼応して始まった。女性団体の様々に異なる関心に対応するために、多くの組織がその中に存在する。初期においてはより広い領域の社会問題に関して、立法上の影響力を獲得することに力点が置かれてきた女性運動であったが、このころに現れた女性団体においては、女性自身の関心事に厳格にこだわり続けることに主眼がおかれている。一般的に第2次世界大戦後の女性運動を第2波フェミニズム、19世紀後半から20世紀初めにかけての女性運動を第1波フェミニズムと呼んで区別している。第2派フェミニズムにおいて、女性史研究は先導的な役割を果たしたが、現在その理論的中心は女性学やその他の研究分野に移っている。

 平野孝展01